天井の高いリビングの窓から、朝日が差し込んでいる。郁はソファの上で目覚めのびをした。昨晩、花園が寢付いたことを確認してから、郁は寢室を出てここで仮眠を取ったのだった。

（6時……ね）

郁は立ち上がって、軽くキッチンを見回した。埃ひとつなく、使われている気配もない。しためらったが、郁は冷蔵庫の中を確認してみた。

（……やっぱり、何もないじゃない）

玄関に置いてあった鍵を拝借し、郁はマンションの向かいにあるコンビニへ向かって、いくつか食材を買って帰った。

（そういえばあの人、どんなものが好きなんだろう……）

一緒にお弁當を食べておきながら、そういった雑談を花園とは一切していなかった。彼の個人的な事を、郁は何も知らないと言っていい。

（仕事はちゃんとしてるけど、私にだけ意地悪な態度をとるってことくらい……）

しかし、昨晩の花園はさすがに弱っていて可哀想に思えた。普段の事はおいておいて、郁はてきぱき手をかして朝食を作った。

「おい……お前、なんで」

コーヒーを淹れていると、ふと聲がしたので郁は振り返った。

「おはようございます、花園さん。合は大丈夫ですか」

そう聞くと、花園はふうと息をついて、よろよろソファに腰かけた。

「そっか……俺を助けてくれたんだっけか」

郁は朝食をローテーブルに運びながら首を振った。

「大した事はしていませんよ。それより、食べれそうですか？」

コーヒー、ハムエッグ、トースト。それらをじっと見たあと、花園は箸を手に取った。

「……食べる」

「あ、無理しないで、大丈夫ですからね。食べれそうなものだけで」

「お前、いつのまに作ったんだ、こんなの」

「今ですが……嫌でした？」

すると花園は無言で首を振り、スプーンでハムエッグをすくった。何とも言えない表でそのハムエッグを見つめたあと、花園は一口一口、かみしめるように朝食を食べ始めた。

（大丈夫かな……）

「ご馳走様」

郁が心配げに見守るなか、花園は全てを平らげ両手を合わせた。その所作は、しかった。けれど、彼はすぐに辛そうにソファで丸まった。

「二日酔いの薬、買ってきましょうか」

花園はわずかに首を振ったあと、拗ねたような聲で言った。

「あーあ。昨日はお前にけないとこ、見られたな」

その言葉に、郁は苦笑した。

「それなら、私の方がずっとけないですよ」

「なんで」

「……借金、肩代わりしてもらったんですから」

「別に、お前が作った借金ってわけじゃないんだろ」

「そうですが……でも、私にも返済義務があるので」

はぁとため息をついたあと、花園はぼそっと言った。

「もう帰っていいぞ。一晩、つき合わせたし」

口調はぶっきらぼうだが、その背中は、何とも言えず寂しそうだった。郁はソファの側に膝をついた。

「いえ、今日は看病させてください。その……お弁當の埋め合わせもかねて」

すると、花園はちらりと伺うような目で郁を見た。

「看病って……何してくれるの」

郁はうーんと考えた。

「しいもの、買ってきますよ。食べたいものがあれば作りますし。あ、ここから一番近いスーパーって、どこでしょう？」

「……すぐそばに東友マートがあるけど」

「ならそこに、晝食の買い出しにいってきます。お晝は、何が食べたいですか？」

そう聞かれて、花園はぽかんとした顔をした後――ぱあっと明るい顔になって、起き上がった。

「俺も行く！　スーパー！」

花園はタクシーを呼ぼうとしたが、郁は斷った。土曜日の明るい空の下、花園と郁は歩いてスーパーまで向かった。このあたりは住宅が多く、広い並木道の脇にマンションや小さいビルが連なっている。新緑の並木の下は木れ日が差し、風が吹くとさらさらと音がする。

「気持ちのいい道ですね。散歩するのが楽しそうです」

「俺……このへん歩くの、初めてかも」

「休みの日も、お忙しいんですか」

「いや……たいてい寢るか、どっか顔だしてるかだから」

「今日は予定は、大丈夫ですか？」

「夜に會食が一件ある……けど、それまではフリー」

休みの日なのに、そんな事をしているのか。郁はし驚いた。

「はぁ……やっぱり忙しいんですね。土曜日も會食なんて」

すると花園はにっと笑った。いつもの小馬鹿にした表ではなく、いたずらっこが楽し気にしているような笑みだった。

「でも、いいじゃんか。これからスーパーで、お前と買いするんだから。立派な休日だ」

こじんまりとしたそのスーパーの自ドアをくぐり、花園はさっと籠を持った。

「何買う？」

わくわくしたその表は、まるで母親に連れられてきた小さい子どものようだった。郁は思わず苦笑する。

（スーパーとか、花園さんは普段來ないのかもな）

「そうですねぇ。ランチのメニューによりますね」

野菜コーナーをちらりとひと睨みすると、この季節だからか、みずみずしい緑の野菜がたくさん並べてあった。緑のフリルのようなサニーレタスに、セロリ、クレソン、ルッコラ……。

「花園さん、パスタなんてどうでしょう」

「うん、なんでもいいよ！」

にんにくと分厚いベーコンを炒めて、最後にパスタとたっぷりのルッコラをれて蒸せば、きっと味しいペペロンチーノになるはずだ。郁は野菜や麺など、最低限使うものを籠にれていった。

「あっ、プリンだ。うまそう。この菓子パンも」

しかし花園は、次々と手あたり次第にものを放り込んでいく。

「焼きプリンと牛プリン、どっちがいい？」

「どちらも好きですが……花園さん、あんまり買い過ぎると……」

「いいじゃん、じゃあどっちも買っとこう」

案の定、會計後の袋はずっしりと重かった。

「ほら、一つ私が持ちます」

郁が手を差し出すと、花園は勢いよく首を振った。

「いいんだよっ。こういうのは、俺がやるからっ」

「でも、會計もしてもらいましたし……」

「當たり前だろ。作るの、郁なんだし」

のしのし歩く花園はなんだか上機嫌だったので、郁はそのまま彼に荷持ちを任せることにした。

家に戻って、とりあえず冷蔵庫に食材を詰める。まだ晝食を作り出すには早いので、郁はとりあえず先ほど買ってきた緑茶を淹れた。今日はし日差しが強いので、氷をたっぷりれたアイスにした。

（ほぉお。この冷蔵庫、氷が自でできるやつだな……）

こんなの花園が持っていても、空っぽなのだから寶の持ち腐れだ。ちょっとうらやましく思いながら、郁は花園にお茶を置いた。

「重い荷、お疲れ様でした」

すると花園はグラスを見たあと、郁を見上げてにやっと笑った。

「……なんかこういうの、年いった夫婦みたいだな」

「そうですか？」

「そうだよ。よくおばあちゃんがおじいちゃんに『あなた、おつかれさまです』とか言って、お茶を出すんだろ」

見た事ないけど、と花園は言いながらテレビをつけた。普段郁が弟と見ている賑やかなバラエティ番組がちょうど映った。

「あ、王様のブランチ」

「何の番組？」

「おすすめの食べとか、はやっている場所とか紹介する番組……かな」

「ふうーん」

二人はなんとはなしに、テレビを見始めた。すると畫面に、真新しいビルと、その後ろに広がる海が移った。

「あっ、お臺場」

2人は思わず顔を見合わせた。

「ここ、前行ったな」

どうやら今日は、お臺場付近のデートスポット特集らしい。ちょうど湯舟に花びらのうかぶバスルームが映って、郁は何とも言えない顔になった。

「行きましたねぇ……」

すると花園は、ちらりと郁を見た。

「楽しかった、か？」

郁はギリギリで笑顔を浮かべて言った。

「……貴重な験をさせてもらいましたね。あっ、ワン太ちゃん」

畫面に大きな犬の著ぐるみが映り、郁は思わずを乗り出した。

「ワン太ちゃん？」

「知らないんですか？　けっこう昔から人気のゆるキャラですよ」

大きな耳に、ふわふわの全。つぶらな瞳はくるしい。どちらかと言えば犬好きの郁に、ワン太ちゃんの可さはダイレクトに突き刺さった。ちょっとおっちょこちょいなキャラも、親しみが湧く。

「見た目だけじゃなくて、格も可いんですよね」

「知ってるけど……ふうん、ワン太ちゃん、好きなのか」

またテレビの畫面が切り替わり、海の上に浮かぶような植園のドームが映る。ガラスのようなその建に、郁は懐かしさを覚えた。

（あ……ここ、昔あっくんと行った事あるような）

レポーターのが、咲きれる薔薇の中へと足を踏みれていく。

『今日からこちら、《薔薇まつり》を開催しているようです！』

真紅に、薄桃に、淡い黃。さまざまな薔薇が咲き誇る様が畫面に大寫しされ、郁は思わずため息をついた。花は素敵だ。見るだけで、し幸せな気持ちになれるから。

「綺麗ですねぇ」

「花とか好きなの？」

「はい。ベランダで育ててるんです。こんな綺麗に咲いたことないけど……」

「じゃあ、行ってみるか、ここ」

「えっ？」

唐突な言葉に郁は驚いたが、花園は事もなげに言った。

「あんたがこれ、見たいならさ。行こうよ。今日じゃなくても」

そう言われて、郁は肩の力を抜いてうなずいた。きっと社辭令だ。

「そうですね。花園さんが、時間のある時にでも」

「じゃあ來週末――」

花園がそう言いかけたとき、部屋の中にチャイムの音が鳴り響いた。郁は慌てて立ち上がった。

「お客さんでしょうか？　私、帰りましょうか」

花園は壁際のモニターを覗いて、郁に向かって首を橫に振った。そしてため息をついてからスイッチを押した。

「どうかしましたか、千鶴さん」

千鶴さん――もしかしなくても、マヌカン様じゃないか。郁はビクッと肩を震わせて、小さくなった。

（私、今帰りますから！）

花園にそう振り手振りで聞くが、彼は再び小さく首を振ってモニターに向き直った。

「あら、他人行儀ね。會社の外なんだから、もっと親しくしてよ。前みたいに」

「申し訳ないけれど、し取り込んでいて。用件は？」

「ねぇ、開けてよ。ランチを食べにいきましょ？　園屋のテラスを予約したのよ」

「いきなりですね」

「そのあとうちのパパとの會食に一緒に行きましょう？　どうせついででしょ」

しためらったあと、花園は潔く頭を下げた。

「ってもらって申し訳ありませんが、今日は行けません。」

「夜は行くでしょ？」

「それはもちろん」

「ならいいじゃない。ドア開けてよ」

押し問答は続きそうだ。郁はその様子を見て、こっそり帰り支度をした。

（やっぱり、ここに居ない方が良さそう……）

抜き足、差し足で玄関に向かう。しかし、ドアの前で郁はうっ、と立ち止まった。

（い、居る……マヌカン様、このドアの向こうに……！）

ドア越しに、濃い気配をじる。てっきりマンションのエントランスから話しているかと思ったが、どうやらここまでやってきていたらしい。郁はすごすごとリビングまで戻った。すると千鶴は、インターホン越しに花園に噛みついていた。

「ちょっと、誰か居るでしょ？　一どういうこと？」

その言葉に郁はぎょっとした。

（い、いま玄関に行ったから、バレたって事……！？）

花園は軽くため息をついて、観念したようににやっと笑った。

「〝そういうこと〟です」

すると一言もなく、プチンとモニターは切れた。振り返った花園に、郁はおそるおそるたずねた。

「あの……私、今すぐ帰ります……」

「だめだ。今行ったらあいつに捕まって面倒な事になるぞ」

うんざりしたようなその口調に、郁はふと気になった。

「花園さんと、マヌカンの方は……お知り合い、なんですか？」

「まぁな。昔っから、家同士の付き合いで、顔見知りで」

「……顔見知り？」

「ああ。でも、違うからな！　男の仲とかじゃ、一切ないから」

なぜか花園は慌てて弁解を始めたので、郁はなだめるように言った。

「お付き合い、というやつですね。今日の會食も、そうなんでしょう？」

「彼の親父さんは、海外ブランドと太いパイプがあるから……」

「それは……お疲れ様です」

休みの日なのに、あちらこちらに気を使って、のんびりできる自由時間なんてない。可哀想だ……。そう思った郁は、自然と彼の目を見て、穏やかに言っていた。

「せめて約束の時間まで、しでもゆっくりして、お休みを過しましょう」

「い……郁」

花園に手を摑まれて、次の瞬間、郁は彼の腕の中に居た。

「……何で今日は、そんなに優しい事、言うの」

「今日は、って……。いつもそんなに厳しくないと思いますけど」

「だっていつも、すぐ帰りたがるだろ。俺を嫌がってさ……」

「嫌がってるわけじゃ……。でも昨日今日は、花園さん、大変そうだったので」

「同？」

「いえ、どちらかというと、申し訳ないなと。私たち普通の社員は、休日はゆっくり骨休めしますが、花園さんはそれもできないんだなと思うと。……し、反省しました」

「俺の事、見直してくれたったこと？」

伺うようなその言葉に、郁は憮然と答えた。

「もともと、花園さんのお仕事ぶりは良いと思っていましたけど……」

すると花園は、くしゃっと目を眇めて笑った。

「けど？　格が悪いって？」

「……それは、一概には言えませんが……」

言葉に詰まる郁の耳元で、花園が言った。

「郁……俺の名前、呼んでよ」

「彰、さん……」

郁の頬に、花園の指がれる。そのままそっと、をふさがれた。

「ん……っ」

短いキス。一瞬の事だったが、を離した花園の顔は、が滲んでいた。

「俺、いましたい。だめ？」

今更、いいもだめもないだろう。そう思った郁は、うなずいた。

「……仕方ないですね。ベッドにいきましょう」

日曜の午前だというのに、二人はベッドでけだるげにを寄せ合っていた。

事のあと。そんな言葉がしっくりくる空気だった。郁は心地よい疲れにわれて、目と指示た。

「郁……」

しかしその時、荒い息をつきながら、くたりと花園が郁にを預けた。

「俺が……意地悪な口きくの、やめたら……ぜんぶ好きになって、くれる？」

郁は困しながらも、深呼吸を繰り返した。

もう、行為は終わったのだ。平常心を、取り戻さないと。

「彰さんのこと……今は、いい人かもしれないって、思っています」

「……なにそれ」

「最初はし、怖かったけど……彰さんのこと、前よりしは知れたかなって思うので。今日は……何かしてあげたいって、思ったんです」

郁はし微笑んで、を預ける花園の髪を、そっとでた。

「だから……今だけは、安心して過ごしてください。お休みですから」

でる郁の手に、花園の手が重なる。

「うん……うん、郁」

答えるその聲は、泣いているような、笑っているような――どちらとも判別しがたい聲だった。