《完璧曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます》騙したの?
小さいお鍋に、お湯をぐらぐら沸かす。このお鍋しかないようだったから、郁は買ってきたパスタをぱきんと折って投した。らかくなった所をすかさず、菜箸でかき混ぜる。銀の泡に翻弄され、金糸のようにパスタが鍋の中で舞う。じゅうじゅう言っている隣のフライパンに、ソースの仕上げのルッコラを散らして蓋をし、ちらりと時計を見る。
「あと5分後に、できますから」
「手慣れたもんだな」
アイランドキッチン越しに、花園はじいっと郁を見つめていた。その譽め言葉は屈託ないものだったが、そんなに見つめられると、居心地が悪い。
「……大したものじゃないですが、胃には優しいかなと」
「ふうん」
頬杖をついた花園は、相変わらず目をそらさない。郁はとうとうを上げた。
「そこでじっと見てられると……その、張します」
すると花園は、しを尖らせた。
「ねぇ、そろそろ敬語やめない? 俺、年下だよ」
「……年下ですが、上司です」
花園はふと郁から顔をそらして、ぽつんとつぶやいた。
「もし、俺が上司じゃなかったら? 一斤屋で出會ってなかったら、付き合ってた?」
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その発言に、郁は笑って首を振った。
「お仕事以外で、彰さんみたいな立場の人と知り合う機會なんて、ないですよ」
「だから、もしもの話。合コンで俺がいたら?」
「う~ん……想像つかないですね……」
ふたたびじっと見つめられて、郁はたじろいだ。が、真剣に取る必要もないだろう。ただの雑談だ。
郁はゆで上がったパスタをソースに搦めながら、言った。
「もしそんな場所に彰さんがいたら――素敵だなって思うかもしれません。で、多分話しかけられずに帰ります」
フォークを添えて、出來上がったパスタのお皿を、ソファの前のてテーブルに置く。
「お待たせしました。どうぞ食べてください」
白い湯気越しに、花園は期待に満ちた顔でお皿に目を落とした。その目はキラキラしている。
「いただきます」
「お口にあうといいんですが……」
郁も隣に腰かけ、パスタを口に運んだ。とうがらしのぴりっとした辛さと、ほどよい塩気。今日もまずまずの出來栄えだ。こっそり花園を覗いてみると、彼はお皿を持って夢中でもぐもぐ食べていた。部屋著を著てそんな風に過ごしていると、彼も年相応の男の子というじがして、郁はふっと肩の力が抜けた。
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「味しかった。ごちそうさまです」
こういう挨拶は律儀な花園は、きちんと手を合わせてそう言った。郁はティッシュを差し出した。
「口の端、ソースついてますよ」
「え、どこ」
「ここです」
わからないようだったので、郁は手をばしてふいてあげた。すると花園がくすぐったそうに笑う。
「郁って、結構世話焼きだよな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
そう言って、花園はお皿を持ち上げた。
「洗うのは、俺がするよ。テレビでも見てろよ」
一緒にご飯を食べて、テレビを見ながらし肩の力を抜いて。
そんな風に過ごしていたら、あっという間に晝下がりの時間は過ぎてしまった。花園はふうとため息をついて、支度を始めた。シャワーにったあと、スーツ姿の彼が突然出てきて、郁はその変化に思わずドキッとした。
(あ……いつもの花園さんに、戻った)
細のストライプのったスーツに、鮮やかな水に太目の縞のったネクタイ。いつも一斤屋で見せている姿。
(ちょっと悔しいけど……いつも似合うものを著てるんだよね)
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伊達に紳士服の店員をしているわけじゃない。郁は彼を素直に褒めた。
「彰さんのスーツは、いつもセンスがいいですね。どんなものを著てきても、似合っていて」
「そうかな」
「はい。仕立てがいいだけじゃなくて……自分のこだわりがあって選んでいるんだなってわかります」
そう言う郁を、花園はふいに抱きしめた。
「……行きたくないな」
珍しく、弱音だ。郁は優しく彼の肩をでた。
「お疲れさまです、ほんとに」
「……帰ってきたら、また郁が居ればいいのに」
答えに窮する郁だったが、花園はなおも言った。
「そしたら……俺、どんなことでも頑張れる気がする」
郁は彼の手をぎゅっと摑んだ。
「無理はいけませんよ。お付き合いなので難しいかもしれませんが……ちゃんとの事、考えて飲んでくださいね」
「うん……」
そのまま花園は言葉を途切れさせた。郁は頭にあった提案を、口に出してみた。
「來週の週末も、ご飯を作りにきましょうか」
「え……」
「お弁當を免除してもらう代わりに。彰さんの予定が會えば、ですが」
すると花園は、郁の肩をぎゅっと摑んで顔を覗き込んだ。
「うん! そうしてほしい!」
その顔はぱっとように明るく、郁には眩しいほどだった
「じゃあ、出ましょうか」
郁と花園は、一緒にマンションを出て、駅で別れた。帰りの電車に揺られながら、郁のの中に、今までになかった気持ちが生まれていた。
(……あんな風に、喜ぶ人だったんだな)
スーパーでプリンを選ぶ姿も、パスタを頬張る笑顔も。郁は今日、初めて見た。そしてこちらが彼の本當の姿なんじゃないかと、ふと思ったのだ。
今までの意地悪な態度の數々を、忘れたわけではない。だけれど花園はきっと、今まで素直に甘えたり、助けを求める事ができなかったのだ。一人で辛い事を抱え込み、それでも誰かに助けてもらいたい気持ちはどんどん膨れ上がり、でも誰にもそれを伝えられずに、求める気持ちばかり大してねじくれていって。
(やっと今、私にけれられて……素直になってくれたのかな)
彼のその不用さを、悪だと切り捨てる事は、郁にはできなかった。
(心がぽっきり折れたら、もう治らないもの。そうなる前に、誰かに助けてもらう方が良いに決まってる)
その辛さを、郁は良く知っている。だから花園に対して、同心を抱いてしまったのだった。彼もまた、弱った顔を見せられない厳しい環境で、長年戦い続けてきたのかもしれない。自分や、淳史と同じように。
(……なら、出來る限り優しくしてあげよう。だってやっぱり、優しくし合うのが、いいもの)
誰だって、優しくされれば嬉しいのだ。今日の花園の素直な笑顔を思い出して、郁も人知れず笑みを浮かべた。
(私も……ちょっと嬉しかったもの)
『やさしさ』の効用は、してもらう側だけにあるのではない。
ご飯を作ってあげる。気にかけてあげる。そんな些細な親切でも、け取って喜んでもらえれば、してあげた方も嬉しくなるものだ。
喜んでくれた分、相手をもっと気にかけてあげたくなるものだ。
(……來週は、何を作ってあげようかな。また、喜んでほしいな)
頭の中であれこれレシピを考えながら、郁は穏やかな気持ちで帰宅したのだった。
週明け出社すると、従業員用のり口の裏側で、花園が待っていた。
「おはようございます」
まるで他人のように挨拶しながらも、郁は彼を見上げた。
(調、大丈夫?)
他の人も通るので、あまり親しくは話せない。が。郁のそのまなざしで、花園は何を聞きたいか分かったようだった。
(大丈夫だ)
わずかにうなずくその表は平靜だったが、目が嬉し気に笑っていた。ふとすれ違いざまに、彼が何かを郁の手に押し付けた。
(えっ、何?)
見てみたら、小さな袋の中に、ワン太ちゃんのマスコットがっていた。
(これ……)
くれるってこと?そう思って郁は顔を上げたが、すでに花園は先へ行っていた。
郁はマスコットをまじまじと見た。らしくて、ちょっととぼけた顔のワン太ちゃん。
「ふふ……」
郁は笑いながら、ふわふわのそれを鞄にしまった。月曜日の朝、なんとなく幸先が良い。一週間の良いスタートを切れたような、そんな気がした。
しかし、その期待は的外れだったようだ。郁は晝休み、それを思い知った。
「ちょっと中村さん、いいかしら」
例の千鶴さんに呼び出されて、郁はバックヤードに足を踏みれた。郁は努めて平靜を裝って聞いた。
「はい、何でしょうか」
「あなた、彰さんとお付き合いしているの?」
こんな事になるかもしれないと予測していた郁は即座に否定した。
「いいえ。まったく、そんな事はありませんが」
「でも、土曜日に彰のマンションに居たのはあなたよね?」
彼はギッと郁を睨みつけていた。とてもじゃないが、噓をつける雰囲気ではない。
「そう、ですが……花園さんが調を崩していのたので、」
「はっ。白々しい噓……。彰さんも、なんでこんな……」
「はい?」
聞き返した郁に、彼は腕を組んで言い放った。
「あのね、彼は私の婚約者なの。周りをちょろちょろするの、いい加減にやめてもらってほしいんだけど」
それは初耳だった。
「……そうなんですか?」
聞き返した郁に、千鶴は勝ち誇ったように顎をそびやかした。
「そうよ。彼から聞いてないの? まぁそうでしょうね。遊び相手に律儀にそんな事、言うわけないもの」
――裏切られた。郁の頭の中に、なぜだかそんな言葉が浮かんだ。
(花園さん、婚約者がいるなんて、一言もそんな事……)
そこで、郁は千鶴の言葉の意味が分かった。
(そうだ。この人の言う通りだ。遊び相手セフレに、そんな事いちいち言うわけがない。逃げられるもの……)
郁は冷靜な表を保ったまま、ぐっと拳を握った。
(もし、この人の言う事が本當だとしたら)
自分は人としてやってはいけない事を、知らずに行ってしまった事になる。
(他人の婚約者に、手を出すなんて)
郁は麻痺したような気持ちで、彼に向かって頭を下げた。
「そうとは知りませんでした。誤解を招くような行をしてすみません」
彼はにっこりと笑った。
「わかってくれればいいの。もう二度と、彼と二人きりになるような真似はよしてね」
「……はい」
「話が早くて助かるわ。それなら私も、貴の行為は水に流す事にするわ。今後は気を付けてね」
「はい」
風切るようにして、つかつかと彼は去っていった。なんだかどっと疲れた郁は、ため息をついた。
(……婚約者が、いたなんて)
花園に対して、怒りにも似た思いが沸く。しかし郁はそれを抑えて、まず理的に考えた。
(知らないうちに、人の婚約者に手を出した事になっちゃう……)
郁がそんな事をしたという話が広まれば、この職場にとても居づらくなるだろう。何しろ相手があのマヌカン様の千鶴なのだから。郁の口元に、皮な笑みが浮かぶ。
(花園さんは……私の生活とか、仕事とか……そんな事、どうでもいいと思っているって事ね)
婚約者がいるという事を黙っているなんて、あまりにも悪質だ。今後一切、花園との接は斷らなくては。たとえ脅されたって、もう聞けない。借金は、時間がかかってもちゃんと返しますと伝えればいい。仕事の方が大事だ。
郁は攜帯を取り出した。しかし、花園の番號をタップする寸前に、その指は止まった。
(ほんとに……千鶴さんは婚約者、なのかな)
ふとそんな疑問がよぎる。本當に婚約者ならば、休日にランチにわれれば彼を優先するはずじゃないだろうか。お弁當だって、郁のなどより千鶴の作ったものを食べるんじゃないだろうか。
しかし郁は、すぐにその考えを切り捨てた。
(馬鹿な期待はよしなさい。だって土曜日は……遊び相手の私が先に部屋にいたんだもの)
ドアを開けて鉢合わせれば、當然修羅場になる。花園は郁を優先したわけではなく、あの場でトラブルが起きないように行しただけなのだ。訪ねてきたのが郁なら、きっと郁の方が追い返されていたはずだ。
お弁當だって、郁が先に約束をしていたから、きっとそれだけの話だ。
(けど……ずっと……噓、ついてたんだ)
郁の作ったパスタを味しそうに食べた時も。『郁が待っていてくれれば、頑張れるかもしれない』と言った時も。
花園には、婚約者がいたのだ。
(……本當に?)
素直な花園を思い出すと、そんな思いが郁の頭によぎる。
攜帯を持つ手が、震える。千鶴の言う事を、花園に確認するのが怖い。
彼はなんて言い訳するんだろう。謝るだろうか。それとも『そうだよ、千鶴が俺の婚約者だよ。言う必要あった?』と、あの意地悪な顔で言うのだろうか。
郁のが、ひゅっと冷たくなる。ナイフを突きつけられたかのような、恐怖。
そうだ――怖いのだ。彼にそんな事を言われたら、きっと郁は傷ついてしまう。
(……優しくしてあげよう、って……思ったばっかりだったから)
彼は本當は、意地悪な人なんかじゃない。苦しんでいるから、助けてあげなければ。そう思いなおした郁の気持ちを、おもいきり踏みつけられてしまったような心地だった。
彼が見せた無邪気な笑顔を、郁はすっかり信じてしまっていたのだった。自分だけに見せてくれた、と愚かにも思ってしまったのだ。
(こんな事になるなら……やっぱり、優しくなんてしない方がよかった。あの人だって、なんで私に……あんな思わせぶりなこと)
花園のあのまなざしを思い出すと、が震えそうになる。
――俺の名前を呼んで。
――もっと一緒にいて
――俺の事、ちょっとでも、好き?
その必死の眼差しに、震える。
花園の意地悪な顔の裏に『何か』があると思い込み、郁はいつの間にか、心が傾いてしまっていたのだ。
(馬鹿みたい……。あれもぜんぶ、噓だったんだ)
あんなに『遊びだ』と自分に言い聞かせていたというのに。信じてしまった自分自が憎たらしい。
郁は重苦しいため息を最後に一つついて、攜帯をしまった。
花園に真実を聞くのも怖いが、かといってまた平気な顔で會うことなんてできない。
(とりあえず……保留だ。今は仕事。後で、考えよう)
重たい足取りで、郁は仕事場へ戻った。
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