《完璧曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます》の丈の幸せ
花園とあまり接しないように気を付けながら、郁は一日、一日と仕事をこなしていった。彼は無駄にメッセージを送ってきたりするタイプではなく、しかも今週は忙しいらしく、席を外している事が多かった。なので、花園と顔を合わせずに仕事することはできた。が、鬱々としているせいか仕事のミスも目立ち、主任や加奈に心配される始末だった。
(ああ……けない、こんな事で)
散々な一週間だった。しかし、郁はそんな気持ちを無理やり追い払った。
(違う! そんな事ない。今週は、すごいいい事もあったじゃないの)
郁は無理やり明るい事を考えた。
『友達と會う』と言って出かけて帰ってきた淳史は、郁に向かって言ったのだ。
『俺、明日から就職するよ。あいつが仕事、紹介してくれたんだ』
どうやら、知り合いの店のバイトらしい。けれど、仕事は仕事だ。郁は喜んで淳史を褒めた。
「すごいじゃん……!」
「うん、ありがとう」
最初はどうなる事かと心配していたが、淳史は毎日職場に通い、真面目に仕事をしているようだ。弟が回復したことが、嬉しかった。
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(だから、いいんだ。それで)
淳史が、また外に出れるほどに元気になった。これ以上嬉しいことがあるだろうか。
(だから……些細な事だ、花園さんの事なんて)
そう思いながらも、郁の帰宅の足は重い。実は金曜日の今日、花園からメッセージが來ていたのだ。
(明日も、ご飯作ってほしい……って)
どう答えるか迷って、郁はまだ返事を返していなかった。
無視――は、さすがに大人げない。けれどノコノコ行く気にもならない。
(なんとか……斷れないかな)
はああとため息をつきながら、郁はアパートのドアを開けた。
「ただいまぁ」
「あっ、姉ちゃんお帰り」
パタパタと走るようにして、淳史が玄関先までやってきた。
「今日は早かったのね。どうしたの?」
「あのさ、今日前払いで、しだけどお給料もらったんだ」
そう言って、の違うお札を數枚、淳史は郁に差し出した。
「今まで一杯世話になったから……これ、姉ちゃんにけ取ってほしい」
何を言い出すかと思ったら。郁は優しく首を振った。
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「それは、あっくんがちゃんと持ってなさい。あっくんが稼いだお金なんだから、好きな事に使いな。貯金してもいいし……」
すると淳史はひらめいたように言った。
「そうだ、じゃあこれでさ、明日どっかに出かけようよ」
「え……明日?」
「そうだよ。姉ちゃん、行きたい所とかないの? 食べたいものとかさ」
「うーん、逆にあっくんは?」
「俺、いっぱいあるよ、行きたいところ」
その無邪気な言葉に、郁はうなずいた。
「じゃあ、あっくんの行きたい所に行けばいいじゃない」
「わかった、予定立てるね!」
そう言っておくに引っ込んだ淳史を見て、郁ははっとした。
「あ、でも待って、明日は……」
花園との約束が。しかしそこで、郁は気が付いた。
(そっか、他に予定がってしまいました、って斷ればいんだ)
弟の初任給で、お出かけをする。決して悪い事ではないはずだ。
(これで、今週末は會わないで済む……)
こうやってずるずる先延ばしにする事は、本的解決にはならない。けれど郁は、まだ『真実』を聞く勇気が心の中に十分に育っていなかった。
(だから……とりあえず今週末だけは……)
「わぁーー! 相変わらず、建ってるなぁ!」
蒼天の下、聳え立つ大きな白いロボットを見上げて嬉しそうに言った。
足元から見上げるそのロボットは、確かに巨大で見ごたえがあった。昔ここに淳史と一緒に來た事を、郁は詳細に思い出した。
「かっこいいねぇ。前と変わらない」
「それが実は、このロボ、前とは違う種類なんだよ」
郁はまじまじと機を見上げた。たしかに、が昔のものと違う気がする……が、よくわからない。
「そ、そうなんだね」
しかし淳史はそんな郁の事は気にせず、もう走り出して寫真を撮り始めていた。夢中なその笑顔は、昔と全く同じだ。郁はしばらく、ロボットではなく彼を眺めて微笑んでいた。
「いっぱい寫真撮れた!へへ。前よりも」
攜帯をスクロールして、淳史は嬉し気だった。
「次はさ、姉ちゃんの好きな花、見に行こうよ」
そう言って歩き出す。すぐそばの駅から數駅乗って降りたそこは、この間花園とテレビで見た植園だった。大きな鳥籠みたいなドームの中に、育った植の影が浮かんでいるその様子を見て、郁は思い出した。
「そうだ……あの時もロボットを見たあと、ここに來たんだっけね」
すると淳史はうなずいた。
「そうだよ。あの時は、姉ちゃんが俺を連れてきてくれたじゃん? だから今回は、俺が姉ちゃんを連れてきたかったんだ」
し照れくさそうに言ったあと、淳史は列に並び、チケットを持って戻ってきた。
「ありがとう、あっくん」
ここは素直にけ取ろう。彼の気持ちを嬉しく思いながら、郁はドームへと足を踏みれた。
ガラスと鋼鉄でできた鳥籠の中は、昔と変わらず植たちの楽園だった。ふわりと立ち込めるミストの中に、南國の木々や花々が息づいている。郁はすうっと深呼吸して、みずみずしいドームの中を散策した。植たちと同じ空気を吸って、の中まで南國に居るような、傷ついた心が優しく癒されるような気分だ。
「姉ちゃん、こっちこっち!」
どんどん先へと行く淳史は、すでにドームの出口付近にいた。追いついた郁に、サーモンピンクのジュースを差し出す。
「グアバジュースだって」
「ふふ、味しい」
「あっちに姉ちゃんの好きな薔薇があるってよ」
淳史はそう言って庭へ出た。ジュースを手にしつつ、郁も彼を追った。いろんなに興味が移り変わる淳史は、すでに姿が見えない。
「どこ行ったんだか……」
淳史を探そうを見回したその先に、テレビで見た通り薔薇が咲きれていた。
「わ、きれい……!」
郁は思わず足どりが早くなった。が、その時肩に手を置かれて振り返った。
「あ、あっくん?」
「誰があっくんだよ」
郁の肩を摑んだのは、ここに居るはずのない花園だった。
「え……!?」
花園は険しい顔で郁を睨みつけていた。
「な、なんでここに」
もしかして彼も、千鶴と一緒に薔薇を見に來たのだろうか。そう思って郁はきょろきょろしたが、彼の姿は見當たらない。花園は意地の悪い笑みを浮かべた。
「殘念だったな、彼氏は先に行ったみたいだぞ」
「ち、違いますよ」
「噓つき」
郁は観念して、したくなかった説明をする事にした。
「だから……違いますって。あれは弟です。彼氏なんかじゃないです」
「まだ、噓つくわけ? ぜんぜん似てないじゃん。それに、弟とこんな所、二人で來るわけないだろ」
「それは……」
郁の肩を摑む手に力がこもる。
「自分がどれだけひどい事してるか、わかってる? 俺が一緒に行こうって、約束した場所なのに」
「――っ」
そんな事を言われるのなら、郁の方にだって言いたい事はある。息をつめた郁だったが、その時淳史がこちらへ向かって走ってきた。
「いくちゃん!?」
「あ、あっくん」
淳史の方を向いた郁に、ぎりっと花園は歯を喰い締めた。
「『あっくん』ね……」
驚いた淳史が、二人の間に割ってる。
「すんません、何か用すか?」
警戒する淳史に、花園は冷ややかに聞いた。
「あんた、本當に彼の弟なわけ?」
「え? そうですけど……」
「名前は?」
「中野淳史ですけど……そっちは誰なんすか? うちの姉とどういう関係で?」
「俺は花園彰。彼の上司だ」
どうしたものかハラハラする郁を無視して、花園は淳史に言い放った。
「分証見せろ。免許でもなんでもいいから」
不審な顔をしながらも、淳史は素直に財布を取り出した。しかし郁はその手を止めた。
(あっくんは、免許なんて持ってない。見せるとしたら保険証――)
長らく無職だった淳史は、郁の扶養家族として保険にっていた。保険証を見せれば、その事が花園にもわかってしまう。
花園はきっと、そんな淳史と郁を小馬鹿にするだろう。いや、もっと傷つけるような言葉を吐くかもしれない。
(私はいいけど、あっくんには――)
やっと、外に出れるまでに治ったのだ。こんな所でまた傷つけられて、臺無しにされてはかなわない。
「いいよ、しまって」
「でも」
「いいから、ね。先に行ってて。ちょっと仕事の話、するだけだから」
郁に強くそう言われて、淳史はしぶしぶとその場を遠ざかった。薔薇園の前から、じっと不安そうに郁を伺っている。
「……やっぱり、噓なんじゃん」
郁はため息をつきたくなった。彼にも千鶴がいるのだ。どうせ近々終わる関係だったと思えば、もうどうなったってかまわない。
「違いますが……もういいです、それで」
「開き直りかよ」
「もう、ここで終わりにしましょう。お金は、時間がかかってもちゃんとお返しします」
郁がそう言って頭を下げると、花園は震える聲でつぶやいた。
「そんなにあいつの事……大事なの」
郁は頭を下げたまま答えた。
「……はい」
「なんで。どこが好きなの。顔? ああいう可いのが好きなの?」
郁は首を振った。
「私たちは、ずっと支え合ってきたので」
「……っ……そう、かよ」
花園が聲を詰まらせる。郁が顔を上げると、彼は背を向けて去る所だった。
(あ……行っちゃった)
あっけない別れだった。どこか放心して、郁は遠ざかる彼の姿を眺めた。今日もいい仕立ての上著を著ているのに、その背中は打ちひしがれているようだった。
「姉ちゃん、大丈夫? 今の人本當に上司?」
戻ってきた淳史に、郁ははっとして笑って見せた。
「うん、平気平気! もう話はついたから」
「本當に……?」
淳史はまだ心配そうだったが、郁はつとめて明るく言った。
「ね、薔薇を見に行こうよ。私楽しみにしてたんだから」
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