《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》7

淺川と朝食を食べた週の土曜。菜胡は一人で外來の後始末をしていた。

大原は外來が終わってしすると帰っていく。だから土曜の午後は早い段階で菜胡一人になる。救急は來ないし、他の外來からヘルプを頼まれる事もほとんど無く、ただひたすら整形外科外來の掃除をし、月曜からの診察の準備をする。

診察臺の敷布を換し、リネン庫へ持ち込んで新しいものを必要數+アルファで持ち帰る。一週間の間に使った薬剤の數と在庫數を數えて薬剤科へ補充を頼んでから、処理済みのカルテを付へ屆ける。診察が終われば取りに來てもらえるが、紹介狀や診斷書を書く必要のあるカルテは避けていて、それらの処理の済んだものは菜胡が屆けている。診察機や椅子、取っ手、待合室の椅子、などあらゆるところを消毒用アルコールで拭き上げてから伝票の補充、カルテに使うハンコの印面の掃除、シンクの掃除、自分たちが使う作業臺の整頓などをして最後に床を掃きモップで拭く。この他に、月曜に來る患者の検査伝票の確認や、業務日誌を書いたら仕事はほぼ終える。だから菜胡一人でも充分なのだ。

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休憩も兼ねて、喫茶セットをれている棚の掃除もする。今は樫井と大原、自分の三人だが、近々一人増えるという。好きなお菓子はあるのかしら、コーヒーは飲める人? どんな先生なんだろう。そんな事を考えながらのんびり作業をするこの時間が、わりと好きだった。

この日は珍しく外科外來から呼び出された。大原のように処置のサポートは無理だと思いつつ向かえば、菓子のお裾分けだと言って紅茶を淹れてくれていた。

「あんたいつも一人だからさ、たまにはいいかと思って」

「ありがとうございます、嬉しいです」

十數分ほど外科でお茶をいただいて整形外科外來へ帰ってきた時、待合室の椅子の奧にワタ埃が見えた。清掃は基本的に専用のスタッフが居てやってくれるが、椅子の奧の方は気がつかなかったのだろう。菜胡は掃除用の箒を取りに診察室へ戻った。その時、カーテンの向こうの機付近に人の気配をじた。誰も居ないはずなのにカーテンの下に足が見える。手近にあった箒を手に持って、足音を忍ばせながら近づきカーテンを思い切り引いた。

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「あなた誰! 何してるの!」

スーツ姿の、背の高い若い男が居た。長い前髪をしていて、ややタレ目。左手薬指には指が見えた。細すぎない幹……そんなことを観察して菜胡は相手の出方を待った。

は診察機の上の棚に腕をばしていて、その手には未記の伝票が複數枚あった。

「わっ、待って、怪しいものじゃ」

手に持った箒を男に突きつけながらジリジリと距離をめる菜胡に対し、その箒の先を凝視しながら手にしていたものを機へ置く男。そして箒の先から菜胡へと視線を移した時だった。

視線が絡んだ。

一瞬か、あるいは數分かわからない。視線が絡み合った瞬間、金縛りにあったかのようにけなくなった。男と見つめ合う。息も止めていたかもしれない。耳に響く鼓の音がやけに大きく聞こえてきて息苦しさを覚え、プハッと吐いた時、込めていた全の力の均衡が崩れたのか、勢いをつけて踏み出していた足が前へスリップしだした。だが重は後ろ足にあり、箒を持つ手はそのままにバランスが崩れた。このままでは餅をついてしまう。悪ければ頭を打つ。菜胡は來る衝撃に歯を食いしばった。

ドサッ。

――痛……くない?

背中に衝撃をじる事はなく倒れもしなかった。代わりに、箒を持っていた右腕の手首がキツく摑まれていて、の前面が良い匂いのするらかくもないくもない何かに包まれていた。腰には何かが巻きつき固定されていてきが取れない。一瞬どういう狀況なのか分からず混していると頭上から聲がした。

「大丈夫?」

バリトンボイスが腰に響く。巻き付いていたのは男の腕で、その腕が背中をさすっている事に気がついて目を開け見上げれば、紺のネクタイと白いシャツ、スーツの裏地が目前にあり、えも言われぬいい匂いがした。そこでようやく先ほどの男なのだと理解できた。全を男に預け、持っていたはずの箒は床に落ちている。片手は男と手を繋ぐかのように絡み合い、もう片方の男の手は菜胡の腰にある。まるで社ダンスをするペアのような勢で、たがいに著させていた。

「豪快に転ぶところだっ……」

ふー、と息を吐いた男は、突如、何かに気がついて言葉を詰まらせ、菜胡を見つめてから抱きしめなおした。初カレと抱き合って以來の、男の腕の中だ。大きく逞しいつきに包まれると言い様のない安心が生じる。

――初対面で安心も何もないのに。

懸命に心の中で抗う。

「あの、助けてくださり、ありが――」

お禮を言おうとして男元に手を當ててその腕の中から逃れようとした。だが最後まで言わせてもらえなかった。菜胡を抱きしめる腕には力が戻り、更に強く引き寄せられた。次いで、菜胡の背中と後頭部に手が添えられたと思ったら男の顔が近づいてきた。あっという間だった。

「んんっ……」

それはまるで青天の霹靂だった。何をされているのかわからなかった。眼前には、目を閉じる男の顔があり、言葉が出せないのはが塞がれているからで、きが取れないのは抱き寄せられているからだ。

――えっ……

軽くれたと思ったは、顔の角度や強さを変えながら何度も繰り返し重なってきて、菜胡が正気を取り戻す頃は、から拡がる甘く痺れるような不思議な覚が全を包みはじめていた。がキュンとして腰に力がらない。縋らないと立って居られず、その甘い痺れに酔いそうで不安になり、悲しいわけでもないのに涙が目を濡らす。男をぽかぽかと叩き続けた。

「す、すまない……」

叩かれて男も気がついて、ようやく腕の力を緩めてくれはしたものの、揺でうまく言葉が出ない上、腰に力がらない菜胡はその場にへたり込んでしまった。男は何か言いかけたが、へたり込む菜胡の背中をさすり出した。

「何なん、ですか、どうして」

々聞いてやろうと思うのに、ドキドキが増しているのと息が上がっているのとで言葉が出てこない。

「俺は棚原紫苑、來週から整形外科醫としてここに――ちょっと失禮」

話途中で、棚原と名乗った男の攜帯電話が鳴った。菜胡の背に手を當てながら會話をする。

「いま整形外科外來を見させてもらってます……はい、わかりました、行きます」

電話を切ると棚原はニッと笑顔を見せた。

「樫井先生と約束があったんだ。じゃあまたね、石竹さん。來週からよろしく」

パタパタと遠ざかる足音。それが聞こえなくなるまで菜胡は立ち上がれなかった。床に落ちたままの箒に手をばし、のそのそと立ち上がり聲を出した。

「はあー?!」

それから退勤するまで、菜胡は無心にかし続けた。ちょっとでも止まるとすぐ棚原と名乗った男を思い出してしまう。

――なにあの男! いきなりキスなんか! 勝手に伝票持ってた! あんな! キス……気持ちよかった……あんなに気持ちいいものなの? 知らなかった……それになんかいい匂いもした、香水? しっとりした匂い。ホッとするような、のあたりがキュってなるような、落ち著く匂い……落ち著……かない!!! ファーストキスだったのに!!

翌日曜も、一日中、頭から離れなかった。買いに行って野菜を見ても、道を歩いているカップルを目にしても、豆大福を買っても、洗濯を畳んでいても、テレビを観ていても、何をしていても棚原の事が頭から離れなかった。

――最悪! こんなに! こんなに……。

初対面の人に心をされるなんて。

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