棚原は、地方の都市にある整形外科クリニックの長男として生まれた。中學生に上がる頃、両親は離婚して五歳下の弟は母親に著いて行った。その頃にはもう醫師になる夢を抱いており、勉強になると思い父親のそばを選んだ。

大學もあとしで卒業という頃の事だ。同じ大學の、別の學部に通うと際していた棚原は、彼との將來を考えはじめていた。出しゃばるでもなく自分に盲目的でもない、芯のある彼に惹かれ、いずれは彼と一緒になり父親のクリニックを継ぐつもりでいた。卒業してすぐは無理だが何年かしたら帰る。その時に……と思っていた。

ある時、彼と會う約束をして待ち合わせのカフェへ向かった。姿を見つけ聲を掛けようとしたら彼の目の前に友人が座っていて、二人で楽しげにわされる會話が聞こえてきた。楽しそうならもうし待とうと踵を返した時、聞こえてきた會話に凍りついた。

『大病院の息子でしょ？　うまいことやったじゃん』

友人が切り出したことで、彼は饒舌だった。

『それがさ、話聞いたら大病院じゃなくて開業醫だったの！　地方のしょぼいクリニック！　でもイケメンで一緒に歩くには優越だよね。弟は離婚した母親に著いて行ったって。母親居ないのは點數高くなーい？　気が楽っていうかさ。だからキープ。それよりこの前の合コンで連絡先換した人、良いじなの、昨日もさあ――』

『まさか夜通し？　やるなあ。これから棚原くんと會うっていうのに』

『あの人わりと鈍いし単純だから大丈夫。実習研修で疲れていてそれどころじゃないもの』

棚原は耳を疑った。怒りも湧いたが、同時に悲しさも覚えた。彼は、＂棚原紫苑＂というひとりの人間ではなく、自分を形している環境にだけ興味があったのだ。まずそこに失した。選んでもらえたと思っていた。彼はたおやかで出しゃばらない。かといって盲目的に自分に従っているわけでもなく芯のあるだと尊敬し、し、何度もを重ねた。彼も同じ気持ちなのだと思っていた。

研修などで忙しく會えない時は確かにあったが、その間にもできうる限り、連絡れていたつもりだったから、他の男と関係を持っているとは思いもよらなかった。単純で鈍いと侮られていた。想いが通じ合ってを重ねていたのではなかったのだ。

実家のクリニックをしょぼいと稱したその覚も信じられない。たしかに規模は小さい。だが父親が長いこと守り続け、地域に差したクリニックだ。それなりに誇りも持っていて、何も知らない彼に侮辱される謂れはないはずだ。

彼の本を見抜けなかった自分に対してもけなさをじた。

その場で彼には別れを告げた。何故だと縋ってきたが、れられるのも嫌になって手を振り払った。他の男と関係を持ったなのだと思ったら吐き気がするほど嫌悪が沸いた。

『どうして？　棚原くんの事が大好きなのに……！』

『俺じゃないだろう、お前が好きなのは金だろ、この見た目だろ。母親がいなくて兄弟もいない、そういう家庭環境が好きなんだろう。失した。合コンで知り合った奴にめてもらえばいい』

それ以降、何人か良いなと思うに出會えた。の関係を持つ前に、彼の言やこちらからの反応をよく観察してみれば、見た目や実家が開業醫、母親が居ないという家庭環境を重視しているような言や態度が見え隠れしだし、一歩踏み込む前に嫌気が差してしまった。棚原自を見てくれるはいた。だが、今度は棚原自が彼を信じきれず、束縛めいた事をして想盡かされてしまった。

それからは真剣な際をするのはやめた。諦めた。一度だけ遊びでを抱いてみたが虛しかった。遊びと割り切っているのに、己が特別な存在になれたと勘違いされ、結局は長く続かなかった。

背が高く、がっちりしたつき、タレ目は優しいイメージを與える。薄い、通った鼻筋、そういった見た目に言い寄るは職場にもいてうんざりしていた。だからナース達には仕事以外の話をせずに黙々と対応し働いた。飲み會の類には一切參加しなくなって數年後、＂棚原先生は嫌い＂の噂が出來上がった。の空気が漂うとが拒絶反応を示し、キスはもちろん抱き締める事もできず、びた目つきでれられると蟲唾が走った。に対して純潔や潔癖を求めているわけでは決して無く、好き合えばいいとすら思っているのに、大學時代の彼の振る舞いが未だに尾を引いていて、には臆病になっていた。

このまま、二度とできないのかも……思っていた。たった一人の、癒し癒される相手が居ればいい。でもまたあの頃のたちと同じだったら、と思うとなかなか踏み出せない。そんな愚癡を、同じ病院の先輩に飲みの席で吐いた事がある。

「なら、ダミーの結婚指でもしてみたら？　なくとも、お前の肩書きや見た目で近寄る連中は減るんじゃないか？」

それもそうかと、翌日、ジュエリーショップに走った。どうせなら好きなブランドにして、相手も居ないのに結婚指を買ってきて自分ではめた。が寄って來なくなるなら何でもやろうと思った。近づいてくるは確かに減った。

『棚原せーんせ！　ねえ、週末の……え、先生、結婚指？　結婚してたの？』

『ん？　ああ』

妻の座を狙う奴らは減った。それでも來る奴は、想像のできないバカだと括って相手にしない事にした。

指をはめて一年が経った頃、そのアドバイスをくれた先輩から『下町の病院で醫師を一名募集している』と聞いた。環境を変えたいと思っていたから手を挙げた。

「俺の友人がそこの整形外科醫長をしているんだ、一人で外來と病棟を診てる」

一日あたり何人の患者を診て、院患者が何人いるのかわからないが、両方を一人でだなんて大変過ぎるだろう、開業醫なら外來だけで済むが……一どんなブラックなのかと慄いた。

「とはいっても、小さな病院だから雰囲気は良いと思うよ。そいつは穏やかな奴で、そこに勤めて長いよ、気にってるらしい」

古い病院ならスタッフ數はそんなに多くないだろうし、嫌いなタイプのが一人くらいは居るかもしれないが、一人なら対処できる。そう思い、指はそのままに赴任を決めた。

指定された日に病院を訪れ、院長と事務長への挨拶を終えた。樫井との約束の時間までまだしある。ついでに外來を下見したくなり、教えられた長い廊下の先の診察室を目指した。午後は外來診療がないためその暗さに苦笑する。コンクリートの壁に掛けられた絵畫が一層の古めかしさを醸し出していた。

――なるほど、たしかに古い造りだな。

診察室の扉は開いていて燈りがついていた。

――誰かいるのか？　ナースか？　ならちょうどいい、挨拶できる。

だが誰も居なかった。掃除用がり口に置かれたままでどこかへ行っているらしい。掃除の途中なのだとわかる。

室を見回して診察臺をり、椅子に座ってみる。機の伝票を眺めている時、小柄なナースがやってきた。カーテンを思い切り開けた彼の手には、り口に立てかけられていた箒があった。それをこちらに突きつけていた。

「あなた誰！　何してるの！」

――まさかの不審者扱い？！

突きつけられた箒を持つ彼に視線を移した時、視線が絡んで離れなくなった。ビリッと來た。けなかった。それは彼も同じだったのか険しい表が一瞬和らいだ。どのくらいかわからないがお互いにけず居た時、彼が踏み出している足が前にった。後ろに倒れてしまう！　咄嗟に手をばして彼の手首を摑み、思い切り自分に向けて引いた。彼の上がにぶつかる格好になって、反で倒れないよう腰に手を回して抱きとめた瞬間、甘くてまろやかな、しっとりとした匂いがふわりと漂った。嗅いだことのない匂いにぞくぞくっとした。

――なんだ、この匂い……

その匂いのもとを確かめたくて、じろぐ彼を抱きしめた。確かに彼から発せられていて、扇的なその匂いに発されて理が吹き飛んだ。気がつけば彼に口づけをしていた。離したくない。重ねては離れる口づけを何度かして、彼の目に涙が浮かんでいるのに気がつきようやく我に返った。頬を上気させ虛ろな目をしている彼はその場にへたり込んでしまう。

――可い……

そう思えたのは初めてではないだろうか。後に、彼は菜胡という名前であること、整形外來の擔當である事がわかり、棚原は心喜んだ。