《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》4

南川の手が済んで二週間ほど経った頃だった。しばらく菜胡を抱きしめていない求不満から、二人きりになるにはどうしたらいいかを棚原は真剣に考え始めた。醫局で學會の資料作りをしていてもつい考えてしまう。

――ああ、俺は中學生か?! 菜胡に好きだと言えばいいだけなのに……でも菜胡に拒絶されたら嫌だ生きていけない……菜胡が足りない……。

一人妄想に耽っていたら、背後が騒がしくなった。同時に不快な聲が聞こえた。

「棚原せんせぇ、ここに居たぁ。晝休憩一緒に如何ですかぁ?」

「何故?」

「何故ってぇ、休憩は疲れを取るものでしょぉ、癒してあげますけどぉ」

「斷る」

棚原の一番嫌いなタイプのだ。名前は知らないが病棟の看護師で、菜胡と向かい合わせて座っているのを見かけたことがある。斷ったのに引き下がらない様子が卻って薄気味悪い。

「日本語わかるか? 斷ると言っている」

「怖ぁい、またあとで來まぁす」

去り際も鬱陶しい。去っていく彼の背中を睨め付けてため息をついた。

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「棚原先生、彼気をつけてください、しつこいですから」

離れた席の外科醫が教えてくれた。気にった醫師ができるとああして付きまとうのだと。

「あいつ何なんですか?」

「重癥病棟の淺川というナースですよ、前に整形外來にいたんです、彼

だからあの朝、菜胡といたのか。面識があったわけか……。

「なぜあんなスタッフを放置しているんです?」

外科醫に愚癡っても仕方ないとはわかりつつも、つい言ってしまう。

「彼、あんなですけど現場では頼りになるんですよ、機転が利くし怖じもしないから、対応の難しい方は彼のお得意だし、急時は頼りになりますよ。だから誰も何も言えない。まあどこかできちんと言わないといけませんよね、綱紀がれたままなのは良くない。師長に話してはあります」

――なまじ使えるだけに簡単には切れないわけか……菜胡に悪さしなければいい。

だが淺川はまた來ると言っていた。病棟へ行けば淺川がいるかも知れないし、ここにずっと居るのもまた相手しなければならなくなる。どこか靜かに資料作りができて、菜胡の事を考えられるところ……思いつくところは一つしかなかった。

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土曜の午後の外來は靜かだ。り口の扉を閉めれば邪魔されないし、大原が居れば協力してもらえるだろう。

「いいかな」

片付け中の菜胡に聲を掛けた。診察室には彼一人しかいなかった。

「あれ、大原さんは?」

「土曜は十四時で退勤です、夕方には南川さんのお見舞いに來るって言ってましたから病棟に居たら會えると思いますよ」

こちらには目もくれず、診察臺のシーツを替える菜胡。

――いや俺は菜胡が居ればそれで。

「そうか……ここで學會の資料作りしてもいいかな、醫局でやってたんだけど邪魔がって進まないんだ。しつこい人が居てね……」

「もちろん、どうぞ」

奧の診察機に、と促された。

「なぜ奧?」

「落ち著いてできるかなって。それにもしここにそのしつこい人が押しかけてきたら、患者さんが寢てるってことで追い返せますし……」

カーテンで仕切られた向こうに菜胡がいて、その安心だけで驚くほど作業に集中できた。その間の菜胡は話しかけてもこないし近寄りもしない。大きな音を立てもせず放っておいてくれた。たまにどこかへ行っては帰ってきて何かを片付けて、と忙しなくいていたが、一番驚いたのは診察室を出て行く時に鍵を掛けた事だった。何も言わないが、恐らく棚原を集中させようとしてくれたのだろう。そういう気持ちが嬉しかった。

視界も遮れて、余計な人の襲來も無く、靜かな環境を作ってくれたおかげで作業はほぼ終わらせる事ができた。ふと気がつくと靜かだった。菜胡は出ているのか? カーテンを開ければ、もう一つの診察機に突っ伏して寢ていた。

――そか、寢てたのか……

スースーと靜かに寢息を立てる彼をゆすっても起きる気配がない。著ていた白を掛けてやった。側にある、通常は患者が使う丸椅子に腰掛けて寢顔を眺めた。ふくふくした頬が可らしい。その伏せられた瞼の奧ではどんな夢を見ているのだろう。目が覚めて目の前に俺が居たら驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。

それから何気なく診察室を見回した。一週間経って減った薬や伝票類がたっぷり補充されている。使っていて適當に箱に戻しているスタンプもきれいに掃除され、順序よく箱に収まっているし、診察の際に使う資料だって整頓されていた。そしてシンク脇にはカップが二つ。

――毎週、一人でここまでしてくれていたのか……コーヒーを淹れてくれようとしてた?

一生懸命にいてくれていたと思うとしさが増した。手の甲で可らしい頬をでる。

「たなはら……せんせ……」

ドキッとした。まさか夢を見てくれているんだろうか。あまりにもしくて、頬に口付けた直後に彼が目をうっすら開けた。

「たなはらせんせいだ……え」

まだ寢ぼけているような視線、口調だった。

「おはよう、菜胡」

頬に口づけながら聲をかける。

「え、あれ? 私……」

ガバッと起き上がった菜胡の顔は真っ赤だった。まだ寢ぼけているのか焦點の定まらないじが可い。

――もし一晩を共に過ごしたら、こんな可い姿が? 毎日……見られ……!

妄想を振り払うように頭を振る。

「すみません、もしかしてお邪魔でしたか?!」

「あ、いいや大丈夫だよ、とても集中してできた。ありがとう」

「それならよかったです」

へにゃっと笑顔になった菜胡が可すぎて、もう無理だった。自分の白がかかったままの菜胡を抱き寄せた。

「ねえ、何の夢を見ていたの、もしかして俺の夢?」

「……先生の匂いがして、幸せな気持ちになったのは覚えてるんですけど……あ、そうだ」

腕を軽く叩いてくる。

「あの、土曜は大原さんが十四時で帰られるので、それ以降は私ひとりです。もし集中したい時がきたら機使ってください」

思わぬ提案に顔が綻ぶ。

「いいの? 菜胡の邪魔にならない?」

「なりません、むしろ」

「むしろ?」

「いつもひとりなので、誰かがいると心強くもあります……寂しいってわけじゃないんですけど、ここって廊下の突き當たりで、孤島みたいで、寂しいわけではないんですよ、でも、あの、だから」

菜胡を強く抱きしめる。抱きしめても抱きしめても抱きしめ足りない。

「ありがとう、毎週來ちゃう……可い……!」

しすぎて壊れそうな理を必死に保つ。もういっそのこと好きだと言ってしまえばいいのに、付き合って、と一言言えばいいのに、まだ"今じゃない"がして、必死に堪える。

時刻は十七時近く。窓の外は日沒を控え薄暗くなり始めていた。ずっとここで抱き合っているわけにもいかず、思いを斷ち切って菜胡を解放した。

「よし。菜胡を充電したから嫌だけど最後に病棟見て帰ろう。菜胡ももう帰れるんだろう?」

「帰れます。……病棟で嫌がらせでもされるんですか?」

「ん? 師長さんはじめ皆さん良い方だよ」

「いま、嫌だけどって」

「ああ、ここに來るきっかけになったしつこいナースが居るんだ。それに彼程じゃないけど食のナースが多くてさ、樫井先生のようにうまくあしらえないんだよ、けないだろう」

「あー、皆さんお好きのようですよね、近所の焼屋さんでよく姿を見かけます」

何か勘違いしているような菜胡。

「あ、ああ、うん。おね、うん。じゃあ行くね、ありがとう、お疲れさま」

勘違いの様子が可笑しくて、笑いながら外來を後にした。だがすぐ忘れに気がついて小走りで戻れば、菜胡も帰る支度をしていた。その菜胡目がけて駆け寄って、抱きしめて口づける。

「キスするの忘れてた」

もう、と小さな聲で呆れる顔もとてつもなく可い。腕の中の存在がおしい。このまま家に連れて帰りたい。菜胡といたい。その思いを何とかコントロールし病棟へ向かった。しの間、白からほんのりと菜胡の匂いがするのも、棚原のヤル気を上げた。

* * *

金曜日は棚原の休みの日だ。お掃除ロボットを稼働させ、洗濯機を回しながら遅めの晝食を作る。この日は焼きそばにした。野菜を刻んで麺を炒め皿に盛る、その全てで、菜胡を思っていた。十一時だから菜胡は忙しくしてるんだろうな。またレントゲン室まで辿り著けない患者さんを案してるんだろうか。晝食後、近所のスーパーで當面の食料を買い込んだ帰り、攜帯が鳴った。元職場の先輩からの著信だった。転職してから二ヶ月が経って久しぶりの會話で、夕食のいだった。

「お、なんか好きな子でもできたか」

飲んでいたお茶を噴くかと思った。

「なっなんでですか、わかりますか?」

やや照れて焦る棚原を前に、顎に手をやってニヤニヤしている。

「いい顔になったなって。今のところはどうなのよ、働きやすい?」

「穏やかでいいところですよ、古い病院なので施設も古いんですけどね。患者との距離が近いのにも驚きました、戸いますが、人間味のある毎日かな……」

それから菜胡の存在を告白した。一目惚れに近いこと、彼の匂いがたまらなく好きで、今は気持ちを伝えていないが、拒まれる事もなく相手もまんざらではない気がしている事を話した。

「なるほど、お前の雰囲気をらげてるのはその子のおかげか。よかったな。指の事も話したんだろ?」

くぃっと顎を棚原の左手に向けて軽くあげる。

――え、指……?!

「いや、話してない、かも……え?」

「それはダメだろ、初心な子なら不倫になると思って気持ちを抑えたり遠慮するぞ? 早く話したほうがいい」

――まって、あの時泣きそうな顔をしていたのは……そういう事?

『菜胡をお嫁さんにする奴は幸せだな』

その後だ、泣きそうな顔をしていたのは。

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