《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》第三章 そんなつもりはなかった 1
北関東にある町の、ごく普通の家庭に菜胡は次として生まれた。両親は二人とも健在で、定年退職をした父親は、自宅の庭を畑に作り替え、自家用の野菜を育てる事を趣味に余生を楽しんでいる。姉が一人いて、結婚し近くに居を構え三人の子育て中だ。
叱るということをしない穏やかな父、その反面厳しい母、それから姉や親戚など多くの人のをけて、菜胡は育った。
菜胡のには生まれつきの痣がある。単純管腫と診斷されたそれは、主に右の房に薄く広がっていて、よく見れば腕や太ももにもある。このためい頃からしょっちゅう大學病院の皮科へ通っており、その中で接していた皮科外來のナースに憧れを抱いたのはごく自然な流れだった。その頃から看護師になる夢を抱き、稚園に通う頃から『おおきくなったらかんごしになる』と言い続けてきた。
高校験の年。県にある衛生看護科のある二校を験し合格した。高校生としての基本的な勉強に加えて、基礎看護なども並行して學んだ。二年の後半になると病院での実習が始まった。そうして衛生看護科で三年學んだ後に都の看護學校へ進學し、更にそこで二年。卒業後は同じ看護學校の先輩が複數就職している縁で、下町の病院へ就職した。
同期は五人居て、一人が手室、三人が病棟、菜胡は整形外來に配屬となった。病棟と手室は関わりがあるため、四人は何度か食事に出かけたりしていたが、外來の菜胡には聲がかからなかった。菜胡自もそういう付き合いは苦手なところがあったから寂しいとじる事も無かった。どうしたって同年代のの子が複數集まればバナに発展するもので、そういう話題になった時、話せる気がしなかった。初カレに言われた事が尾を引いていては避けていたからだ。
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看護學校にってまもなく、同じクラスの男子生徒と仲良くなり、やがて付き合いが始まった。毎日が楽しくなった。二年生の後半で始まる実習でも教え合い支え合えたらと期待を膨らませていた。
手を繋ぐ程度の付き合いが二週間ほど続いた頃、菜胡の部屋で勉強をしようという話になった。初めて男を部屋にあげる事に張もした。室にるなり急にベッドへ押し倒され、服をがされた時、彼がきを止めた。
「なんだ? これ」
彼の視線は右房にあった。痣だ、と解った。
「気持ち悪い……」
この痣は決して人に染るものではなく、また悪のものでもない。かったりすることもないので菜胡は特に話もしなかったが、それが気にらなかったらしい彼は怒り出した。
「それなに? 何で黙ってたの? あるって知ってたら付き合わなかった、萎えた、帰る」
半狀態で放置され、一言も発することができないまま、彼は部屋を出て行った。
なにが起きたかわからなかった。汚いものをったかのように言われ、そういう目つきで見られた。好きになりかけていた。この人とならと思え、を預ける覚悟ができたところだった。
だから彼からぶつけられた言葉は菜胡の心にトゲとして殘り続け、これ以降、に発展しそうになるとトゲが痛んだ。
痣のことを伝えなければまた怒らせてしまうかもしれない、でも痣を知ったら気持ち悪いと離れていくかもしれない。それだったら好きになんてならない方がずっと気が楽……。
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幸い、菜胡には姉がいて、跡取りだとかそういうのを考えなくていい。だからもうなんてしなくていい。
そんな風に思うくらいだから、同世代のバナは聞きたくなかったし関わりたくなかった。話を振られた時、躱かわせる気がしなかった。
* * *
初めて整形外來に案された日、外來所屬のナースが大勢、整形外科外來に居て出迎えてくれた。既婚者ばかりだった。い子供の急な調不良にも対応ができるよう配慮されての配屬かわからないが、その中で獨なのはついこの間まで整形外科外來に居たという淺川だけだった。
その淺川から何故か睨まれている気がしてをすくませた。蛇に睨まれたカエル狀態で、その強い目つきに耐えられず思わず視線を逸らしてしまった。思えばこの頃から淺川は菜胡を敵視していたのかもしれない。
整形外來の前任者という事で、一週間、菜胡と共に行をして仕事を教えてくれるのが淺川だった。気の強そうな彼に怯えつつ、彼から學べるものは學ぼう、そう思った。
彼は何事もテキパキしていて怖じもせずける人だった。し先の事を予測してける察力にも優れていて、診察の呼び出しが遅いと詰め寄る患者への対応も上手かった。この余裕は慣れだろうと思うが、菜胡もああなりたい。この頃の淺川にはそう思わせるものがあった。
外來三年目になる頃、淺川が寮の部屋に男を連れ込むようになった。寮は男子制ではないが、薄い扉の部屋では、どうしたって淺川の聲がれ聞こえてくる。病棟勤務になり夜勤などもあるため、朝晩関係なく聞こえるそれにはさすがに辟易した。
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気にしないように一年過ごしたが、何かとストレスにじるようになり、ようやく寮を出ようかと考えはじめた。時期としては三月だからちょうどいいはずで、週が明けたら庶務課に相談に行こうか、そう考え出した三月の後半の、ある土曜の午後だった。不審者が診察室に現れた。
外科外來に呼ばれていて戻って來たら、人の気配がして、武の箒を手に踏み込めば、スーツを著た背の高い男が診察機をしていた。相手と目があった瞬間、全がビリッとしてけなくなった。
――な、に……?
一瞬か數分かわからないくらい、視線が絡んでけずにいたら、勢いよく踏み出していた足が前にりバランスを崩した。転ぶと覚悟して、やってくる衝撃に耐えるべく歯を食いしばり目を閉じた菜胡は一瞬なにが起きたか理解できなかったが、不審者が強く腕を引いてくれたおかげで後ろに転ばずに済んだ。その代わり、強く腕を引かれたため不審者のに抱き留められた。
背中に回されている手は大きく溫かい。頭上から聞こえてくる聲は腰にくる良い聲だし、ふわりと良い匂いもした。初カレとだってここまで著したことはなかったかもしれない。こんなに安心するのかと思ったものの、相手が不審者ということも思い出して離れようとじろぎをした。だが放してもらえず、更に強く抱きしめられてしまった。
――なになに?!
混した。に何かがれた気がした。目の前には不審者の顔がある。言葉を発せない。これはキスをされているのだ、と正気になった頃、重なるから拡がる、痺れにも似た気持ちよさが全を駆け巡った。
――気持ちい……。
深く絡んでくる不審者とのキスは気持ちがよかった。怪しい人なのに、ダメなのに、と抗うも次第に腰に力がらなくなって、不審者の元の服を摑んで必死で堪える。だが気持ち良さと共にふわふわとしてどこかへ行ってしまうような不安も湧いてきて、悲しいわけでもない涙が目を濡らした。
何度も離れては重なってくると差しれられる熱に頭がパンクして、不審者のをぽかぽかと叩き、ついに膝から力が抜けてずり落ちた。床にへたり込んだ菜胡の背をさすりながら、不審者は自ら名乗った。
「すまない……あ、俺は棚原紫苑」
棚原と名乗った不審者は攜帯で誰かと會話をし、樫井先生と約束しているのだと言いながら足早に外來を去った。何か言っていたような気がする。整形外科醫だとかなんとか……。
一人殘された菜胡はぶしかなかった。
* * *
翌週から棚原の外來診療がはじまった。九時よりし前に、樫井に連れられてやってきた棚原は、土曜とは違ってワイシャツにネクタイをした上に丈の長い白を羽織っていて、髪も前髪をワックスでまとめていた。カッコよかった。
あんな事があった後で複雑な気持ちのまま仕事できるだろうかと不安もあったが、思いのほか、棚原の診察はやりやすかった。それでも初日であるし、土曜の事を思うと張してしまう。笑顔も強張っていたのだろう、棚原がふいに菜胡の頬を優しくでてきた。箒を扱うのがうまい、などと揶揄われたりもしながら、なんとか初日を終えた。
仕事中の棚原はとても真面目だった。患者に対して丁寧に応対するし指示も分かり易い。無駄にイライラしてをぶつけてもこない。働きやすい人だと思った。
かつて助っ人として數日だけやってきた他の醫師には、そのようなをわにする人もいた。樫井が穏やかな人柄だから余計にその苛立ったをわにする様が威圧的に見えた。だが棚原はそんな事なく、樫井と同じくらいに穏やかに診察をこなす。しだけ見直した。
その初日の診察中、彼がポソッとつぶやいた。
『なんだか、ここは気が抜けるね』
以前は都心の大きな大學病院にいたという棚原にとって、ここ下町の病院は古いし患者との距離も近いから驚いただろう。それに比べるとここは気を張らなくていい場所だと言われた気がして、なんとなく嬉しくなった。大きな病院での、患者との関係は菜胡だって解っている。実習もしたし親の付き添いで大學病院へ行くこともあるから知っているからこそ、この病院での距離が際立つように思えた。
棚原は、診察の合間にふいに距離を詰めてくる。いい匂いだなとじる間も無くキスをされる。軽いだと見られているんだろうか、菜胡は複雑だった。
あの土曜の、初対面でのキスは菜胡にとって初めてのキスで、抱き締められるのも初めてだし、いい匂いだと言われるのも初めてで、戸いや恥ずかしさなどがりれ、大原と樫井が外來を去って棚原と二人きりになってしまうと途端に張した。
ほぼ毎日、隙を見つけては抱き締めてくる棚原に思い切って聞いてみた。
「この間からなんなんですか、私そんなに軽く見えてるんですか」
「軽くなんて見てないよ。むしろガードが堅そうだなとは思うけど……やっぱり、あの時の匂いは菜胡ちゃんからだった、なんだろう、香水?」
香水など一度も使った事が無い。何の匂いだろうか。とても落ち著いてホッとするとも言われた。
「それと、何でかわからないけど、この前から君が気になってる……」
菜胡だってそれは同じだった。始まりは不審者で最悪な出會いだったのに、なぜか菜胡に嫌悪は無く気になっていた。棚原に抱きしめられればいい匂いがするし、彼とのキスがもたらす気持ちよさは忘れられるものではなかった。また気持ちよくなりたい……そう思った瞬間、顔が熱くなった。
――なに考えてるの! ばかばか!
咄嗟の思考に恥ずかしさを覚え、棚原のに押し付けていた。キスをしてこようとする棚原を、「人でもないのにキスなんて勘違いする」と止めたことがある。勘違いかどうか試してみたいと、そのまま深いキスをされた。あのように優しく、熱く口付けられたら好かれていると勘違いしてしまう。菜胡は必死に気持ちを抑えた。棚原は結婚しているのだから、好きになるつもりもないし、好きになったらいけない人だからだ。
それに、この痣を知ったら離れていくに決まってる。気持ち悪がるに決まってる。だから距離を取ろうとするのに、棚原は距離をめてくるしれ合おうとしてくる。その度にいい匂いに包まれ、落ち著くと言われて悪い気はせず、トゲトゲしていた心が丸くなっていくのをじた。角のある金平糖が口の中で溶けて丸くなっていくように、棚原に抱きしめられてじる匂いや覚は、菜胡の心を安定させて落ち著かせた。
――でも、好きになんてならない。
會ったばかりの人に抱きしめられて安心する自分に戸うし、キスをされて気持ちよさに溺れたくなる自分に驚いた。棚原と居ると、これまでにないを沸き起こさせた。
* * *
いつも外來に來ていた常連の患者が救急搬送されたり、認知癥が発癥するなどで慌ただしい日が続いた。その間も棚原は隙を見つけては菜胡と過ごしたがった。抱きしめながら、病棟へ行くのを嫌がって深くため息を吐いた。匂いに癒されホッとすると言われて嬉しい気持ちが湧いてきて、やがて自分のそばで気が安らぐならその時間を守りたいと思うようになった。
ある日の診察中に菜胡が患者とわした會話について、診察後に詰められた。
「菜胡ちゃんをうちの孫の嫁にって言われたことはないの」
「何度かありましたよ。大原さんがその度に、『うちの娘はどこへもやらないわ!!』って聲高らかに宣言してくれて」
そんなやり取りで待合室が笑いに包まれた事があると棚原に話した。
「私、こんなだし有り得……」
棚原は菜胡を抱きしめ、肩口に顔を乗せて小さな聲を絞り出した。
「いやだ……菜胡、やだ」
いつも自信たっぷりな棚原が弱気だった。表もそうだが、聲も震え、菜胡を抱きしめてくる腕はいつもより強かった。
――どうしたんだろ……患者さんの孫に嫉妬? まさかそんな……。
「先生? どうかなさいましたか」
「菜胡、お嫁に行っちゃうのやだ……どこにも行かないで……俺の――」
子供のように懇願してくる棚原の腕を宥めるようにさする。
俺の、何なんだろうか。妻帯者である棚原の、菜胡は一何だというのか。
今、菜胡の心を占めているのは棚原だけだ。好きか嫌いかで言えば好きだが、の好きだと言っていいかもわからない。だが気になっている存在なのは確かで、たとえ患者の孫からプロポーズされたとしても斷るしか考えつかない。
ぎゅうぎゅうと自分を抱きしめる棚原の心に居座っている不安を、自分が取り除いてあげられるんだろうか。
* * *
それからしした頃、外來が終わりいつものように二人きりになった。椅子に座った棚原が、両腕を菜胡に向けて広げた。おいで、と言われた気がして近づけば、手を取られてあっという間に膝に乗せられた。その日院した患者との會話で、またしても菜胡の結婚が話題にあがった。先日のように棚原が揺してしまうのではと思ったが……。
「菜胡をお嫁さんにできる人は幸せだな――」
ドキッとした。
棚原は結婚している。左手の薬指に指をはめているから確かで、だから自分が棚原のお嫁さんになる事はあり得ない。好きでもないのだからお嫁さんになれなくたって構わないはずなのに、棚原の言葉が心に影を落とした。悲しみにも似た気持ちだった。が締め付けられ、切なくて苦しくて、涙が溢れそうになって思わず棚原の首に抱きついた。
「ばか……なんで泣きそうな顔してんの」
――言えない。
「わかんない」
菜胡の後頭部に棚原の大きな手が當てられる。寸分の隙間も無いくらいに、ただ靜かに抱きしめあった。
「泣くなよ……」
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