《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》2
どのくらいそうしていただろうか。診察臺に座り、々なことを話した。これまでの気持ちのこと、あの時の気持ち、どうして泣いていたのかなど、答え合わせをするように、ただただ話し続けた。
「まだ二人居るでしょうか……私見てきます」
時計に目をやれば、十七時が近い。準夜勤ならもう始まっているだろう。り口に向かおうとする菜胡の手を摑む。
「待て、聞いてみるから」
ポケットから出した攜帯電話でどこかへかける。
「棚原です、今お時間ありますか?」
『ええ、大丈夫よ!』
――の聲がする……どこかで聞いたような?
「いま整形外科外來に居るんですが、病棟にナースの淺川と科の陶山先生が居るかどうか見てきてもらえませんか、知り合いの見舞いとでも言って……ええ、待ち伏せされていて逃げ込んだんですけど出られなくなってしまって。二人が病棟に居たらまた連絡を……はい、すみません、よろしくお願いします」
電話の向こうのは元気に快諾した聲が聞こえた。
「大丈夫だ、おばちゃんに頼んだ」
「おばちゃん……あぁ! 食堂の」
「元いた病院で、おばちゃんの旦那さんの主治醫だったんだ。ここに來て居たからビックリした、世間は狹いなあ」
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「あ、それで……? 昨日、陶山先生に手を取られたとき、おばちゃんが助けてくれたんです、棚原先生から頼まれてるから、何かあったらここに逃げて來いって」
はは、と笑い、白狀した。
「うん、頼んだ、勝手にごめんね」
ううん、と首を橫に振る。とてもいいタイミングで助けてもらえてよかったのだ。心強い味方ができたんだと嬉しかった。
「三月末にここに來たときに會ってね」
『未だは苦手かい? その指を本にしてくれる子ができたら教えてくださいね』
彼は棚原の指のワケも知っていた。ダミーの指なんて、と罪悪を抱いていた事を話したことがある。
『でもそれは先生の心を護る指だろう? 何が悪いもんか。先生の気持ちを考えず迫る方が悪いんだ』
そんな風に言われて、心が軽くなった。それからはまるで親戚の仲の良いおばちゃんのような覚で接していた。大きな病院にあってこんな間柄になれるなんて思いもしなかった。
ここへ赴任する時は既に彼の夫は退院していたから會えずじまいだったが、まさかここで會えるとは思ってもいなく、再會した嬉しさから思わず心のうちをこぼしてしまった。
『実は、気になる子がいる……』
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『まあ! どの子? 先生が好きそうなのっていったら……菜胡ちゃんだろ、あの子はびたりしないし素直な良い子だよ』
『なんでわかるの、おばちゃん……!』
驚いた。赤らめた頬を隠すでもなく、おばちゃんに驚いた。年の功だろうか、何かじとったんだろうが、おばちゃんが気がついているという事は、他の人にもバレているのかもしれない。
『ヤダよお顔赤くして初みたいな顔して! 地味だけど素直な良い子だよ。いっつもきれいに食べてくれる。最近きれいになったのはあんたのおかげかね』
『うん……すごく可いんだ……患者さんにも好かれていて、おっとりしていて優しそうなのに、叱るときは叱るんだよ……もし彼がここで変なのに絡まれてたら守ってやってしい』
あんなにらしい菜胡が、他の人から言い寄られないはずがない。せめて食堂、おばちゃんがいる場所でくらいならいいだろうと、守ってくれるよう頼んだ。
『わかったわ、任せて! その代わり――』
「で、これがその報酬」
苦笑いして見せてくれた攜帯の畫面には、棚原とおばちゃんの寫真があった。嬉しそうに満面の笑みを浮かべたおばちゃんを、棚原が抱きしめている。おばちゃんくらい歳上のはそう苦手じゃない様子に顔が綻ぶ。
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おばちゃんは、頼まれた通りにあの時、助けてくれた。
「ありがとう、先生……」
「ん。もう人なんだから名前で呼んで?」
「し、紫苑、さん」
もごもごして名を読んだ時、攜帯が鳴った。
『先生、居たわよ。二人とも居たわ。外來の前にも誰もいないわよ。菜胡ちゃんと一緒なの?』
「ありがとうおばちゃん! うん、一緒にいる。これからデートしてきます」
『んまー! いいわね、菜胡ちゃんのごはんは明日の夜までキャンセルにしておこうか? それじゃまたね先生!』
微かにおばちゃんの聲が攜帯かられ聞こえた。テンションの高いのがわかり、その理由も何となく想像がつく。
「菜胡のご飯は明日の夜までキャンセルだって、どうする?」
いじわるそうな笑顔で菜胡を覗き込んできた。
「どっどうすると言われましてもっ」
菜胡を抱きしめはっきり言った。
「今日は菜胡と離れたくない……うちに來て?」
その言葉の意味するところを理解している菜胡は、棚原の目を見て頷いた。
* * *
おばちゃんからの電話を切って、そっと診察室の扉を開ける。時刻は十七時に近くて、廊下は薄暗かった。そこに誰も居ないことを確認してから、棚原は醫局へ戻った。
「車で來ているから、そうだな、病院出た先の書店で待ち合わせよう。濃紺の車だから」
菜胡はやり殘したことがないか確認してから退勤した。同じタイミングで帰る外科外來の先輩たちから飲み會にわれたが、當然、斷った。
「すみません、今夜は約束があって」
寮へ戻り急ぎシャワーを浴びた。全部がしいという事は、そういう事だ。菜胡は右の痣を見た。
――いつ言えばいい? 車の中で? でもまだそういう空気じゃないのに言ったらおかしくない?
悶々と考えながら、結局はその場の雰囲気に任せることにした。言えると思った時に言う。そう決めて、とにかく淺川が帰ってくるより前に寮を出なければならない。手早く作り置きのおかずとお泊まりセットをまとめた。
病院を出て通りをし歩いたところにある書店の駐車場には濃紺の車が停まっていて、菜胡が姿を見せると運転席から棚原が降りてきた。
「すみません、お待たせしました」
「いいよ、それ荷?」
菜胡が下げていたカバンと紙袋をさっとけ取って、後部座席へ置いた。どうぞ、と助手席のドアが開かれる。助手席に乗り込めば、棚原がシートベルトを締めてくれたが、どさくさに紛れて菜胡に口付けた。はたから見ればただのバカップルでしかない振る舞いに、恥ずかしいやら楽しいやらで、思わず笑いが溢れる。
「よかった、菜胡が笑ってくれている」
運転席に座りながら棚原も笑顔だ。膝の上にある、握られた拳に手を當てながら、車は靜かにき出した。
「二十分くらいかな。途中で晩飯食べて帰ろう。あ、夜景もきれいだよ」
見知った信號をいくつか曲がって、大通りに出る。何車線もある通りをスイスイと走り抜けて、車は進んだ。まだ夜景は見えず、明かりが點き始めた賑やかな街を抜ける。
「昨日、作り置きのおかずを作ったところだったんです、それを持ってきたんですけど明日の朝ご飯に如何でしょうか」
「え、うれしい! 何作ってくれたの?」
顔は正面を向いたまま、時々菜胡の方を見てくる。
「きのこの佃煮と団子です……お口に合うかどうかわかりませんが」
「やった、好きなやつ! 明日の晝に食べよう」
「朝、じゃなくて?」
「うん、晝」
助手席の菜胡を見てニッと微笑んだ。その意味に気がついた菜胡は顔を赤らめ、無言で頷いた。
車は高速道路に上がった。高架を走るから夜景がよりよく見える。窓の向こうに夢中になった。特徴的なオブジェが屋上に乗ったビル、タワー、上層階は雲に飲まれている高層ビル群。それらの燈りで、低く垂れ込めている雲はぼんやりと照らされて、まるでぼんぼりが點いているかのように曇天を彩っていた。
カーブを走り、トンネルを抜けて、列車と並走した後に高速道路を下りた。幾つかの街を通り過ぎた住宅街にある、煉瓦造りの建の前に停まった。古めかしい建には何の看板もない。壁には蔦が生い茂っていて、店にしては佇まいが暗い。目的はこの煉瓦造りの建ではなく、その隣の小さな食堂だった。
「ここ唐揚げが超絶味しいんだ、菜胡にも食べてもらいたい」
ワクワクした顔で『唐揚げ専門店とりや』と書かれた暖簾をくぐる。こんなにワクワクした棚原は初めて見た。仕事中はほとんど気を引き締めて――たまに不意打ちでキスもしてくるけれど――いるから、そういう年のようなかわいい一面は滅多に見ない。プライベートが垣間見えて、菜胡も笑顔になる。
「っしゃーせー! 開いてるお席へどうぞー!」
元気な聲に出迎えられた店は狹かった。小さめテーブルが四つあり、うち二つのテーブルは食事中だった。ジュワジュワと調理中の音や、だしの香りが充満していて食をそそる。二人は壁際のテーブルに著いてメニューを開げた。専門店と稱するだけあって唐揚げがメイン。というか唐揚げしかなかった。唐揚げだけの皿か、定食セットのみだ。唐揚げは二種類あり、醤油唐揚げと塩唐揚げ。棚原は両方食べられるミックスを、菜胡は醤油唐揚げをそれぞれ定食で注文する。出來上がるまでし時間がかかるだろうから、と、棚原が口を開いた。
「面接みたいになっちゃうけど――菜胡はどうして看護師を選んだの?」
痣のことを話すなら今だろうか。だが食事中にする話でもないかもしれない。
「あとでお見せしますけど……小さい頃から大學病院の皮科の常連だったんです。そこの看護師さんが先生からの指示にテキパキと応えているのがかっこよくて、その姿に憧れました」
「なるほど。菜胡の患者への対応はその憧れた看護師からきてるんだな」
目の前に好きな人が居て、その人とい頃の夢について話すなんて、當時の自分は思いもよらなかったし、なんなら一ヶ月前までは想像もしていなかった。
「お待たせいたしました〜!」
まだ揚がったばかりの、弾ける音が殘る熱々の狀態で盛られた唐揚げからは香ばしいいい匂いがする。それはたちまち鼻腔を刺激し、白米と豚、漬といった一般的な定食を、二人は手を合わせて食べ始めた。
「あつっ……」
はふはふしながらひと口かじる。菜胡は貓舌で、口をつけるまでだいぶ冷ましたつもりだったがそれでも熱くて、舌の先を火傷してしまった。
「大丈夫か、貓舌なの?」
氷のった水を差し出してくれる。それを一口含んだ。
「舌の先やられました〜、貓舌です、子供ですよね」
棚原は手をばしてきて、頬をでた。
「あとで治してやる」
――治してやるって、どういう……?!
食事を終え、車はいよいよ棚原の自宅へ向かう。菜胡の張はますます増してきた。何か話していないと口から心臓が出てきてしまいそうな程だ。
「ごちそうさまでした。らかくて食べやすくて味しかったです、豚とも合うのも良い発見でした。今度作ってみよう」
「だろう? 唐揚げだけ持ち帰る事もできるからたまに買うんだよ。揚げはハードルが高いからさ」
「ご飯だけ用意したら良いですもんね、便利ですね」
車はやがて高層マンションの建ち並ぶ街にっていき、地下駐車場と書かれた坂を降りて行く。駐車スペースの指定の箇所に車を停めたら棚原がドアを開けてくれた。人繋ぎをして上階へ行けるエレベーターに乗り込む。十四階を目指して上がっていくエレベーターは前面がガラスで、そこから街の燈りがよく見えた。
「部屋から見える景はもっと綺麗だよ」
ポーンと音がしてエレベーターが止まった。フロアは靜かで、廊下には絨毯が敷かれている。手を引かれて廊下を進み、『一四〇二』と書かれた部屋の、重厚な扉の中にる。靴をいで広い廊下を、間取りを説明しながらリビングに向かった。
「ここが洗面所で、隣が風呂、寢室はここ。ここからの夜景が一番綺麗なんだ。あっちは俺の書斎みたいなもので……ちょっと座って待ってて」
定期的にハウスクリーニングを頼んでいるという部屋は清潔があり、広くて居心地が良い。観葉植と、ソファ、壁に掛けられたテレビがあるだけの、シンプルな部屋だった。
菜胡をソファに促してキッチンに消えていく。ガシャガシャと氷の音がして戻ってきた棚原は、氷のったグラスと炭酸水のボトルが乗ったトレイを持っていた。菜胡の隣に座ると自の膝の上に抱き上げる。
「あの、なんで、重いです、よ……」
「重たくなんかないさ」
グラスの中の氷を口に含み、おもむろに菜胡に口付けてきた。すぐに棚原の氷で冷えた舌が菜胡の舌を捕らえ、氷のカケラを送る。冷たい氷は互いの熱でたちまち溶け消え、溢れたは唾と混じりあって口の端からこぼれ落ちた。首筋に流れていくそれを棚原の口が追う。
「ん……」
初めての時のように、棚原の舌からもたらされる甘い痺れは菜胡のの力を奪い取り、一人で座っていられないくらいになった。くったりと棚原にもたれかかり、肩口に顔を預けた菜胡の頬をでる。
「舌、まだ痛い? 見せて」
もう火傷の痛みは無かった。だが舌の先をほんのしだけ出して見せる。
「よし、もう大丈夫だな」
診察室ではなく、帰る時間を気にしなくていい、完全にプライベートな空間にを置いている安心が二人を包んだ。靜かに聞こえてくる音楽に耳を澄ませながら、窓の向こうの夜景に魅る。著している事に浸っていて無言の時間が過ぎた。
トクトクと聞こえてくるの音――。菜胡のものか棚原のものかわからないくらいに溶け合っていた。ふいに菜胡の視線の先を追った棚原が思い出した。
「あ、そうだ。夜景だな。寢室からの方がタワーも見えて俺は気にってるよ、おいで」
膝から菜胡を下ろして寢室へ導する。
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