《夜明けを何度でもきみと 〜整形外科醫の甘やかな〜》5

初めてのお泊まりデートの日は朝から曇天が広がっていた。午前は外來診療を行い、午後はそれぞれ病棟での対応と外來の片付けに追われた。

例の事があって二人の関係が公になったため、樫井からは『菜胡はいずれ異になるだろう』と言われていたが、異もなくあっという間に一年が経った。菜胡にとっては五年目の整形外科外來だ。

寮は取り壊され更地になった。跡地は地域住民も利用ができる広場に決まったと大原が言っていた。防災も兼ねた多機能な広場で、病院利用者以外でも時間ならば立ちることができる。稚園や保育園のお迎えのバスの待合なども行えたらいいと計畫されているうえ、病院の両脇は墓地だから、お參りに來た人や見舞いに訪れた者、また患者の運の場にもなるだろうとそういう案が出てのことで、現在は整地作業が行われていた。古めかしいコンクリート建ての寮が懐かしいとは思わないが、四年を過ごした場所が消えたのは、ほんのし心寂しくもあった。

先に仕事を終えた菜胡が、棚原の攜帯に短くメッセージを送る。

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「食堂にいます」

もともとは外來の待合室で棚原を待っていたが、ある時、退勤のおばちゃんから話しかけられた。

「菜胡ちゃんどうしたの、どこか合でも悪いの?」

「いいえ! あの、棚原先生と、その、待ち合わせを……」

おばちゃんは一日働いて疲れている顔をしていたが、パアアと表を明るくさせた。

「そういう事なら食堂にしなさいよ! 廚房には誰かしら居るし安全よ、それに裏口も近いし。給湯もあるからあったかいお茶でも飲んでのんびり待ったらいいわ」

そういう事があってから、待ち合わせは食堂になった。大抵は菜胡が先に終わる。ほうじ茶をカップに注いで、持って來ていた本を読んで待った。本に夢中になり過ぎて、目の前に棚原が座ったのも気づかない時もあった。

「今度は何の本?」

「あ、えと、ファンタジーなんですけど……主人公が異世界へ召喚されてしまうんです。國のり立ちや文化がまるで違うのに、彼はその國に馴染めて、おかしいなって思っていたら実はそ――わ、紫苑さん!」

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頬杖をついて、楽しげに菜胡を見ていた。

「いつ來たんですか、お疲れさまでした」

「真面目な顔で読んでるからさ、邪魔したらいけないと思って」

菜胡と自分の分のほうじ茶カップを片付けて、手を差し出した。

「おまたせ、行こうか」

「はい」

ごく自然に、差し出されたその手に摑まる。

菜胡と棚原が同棲している事を知る人は多い。あの事があってから棚原は特に過保護になり溺するようになったと揶揄われているが、そのたびに真剣な顔をして答えた。

「菜胡にとって俺の腕の中が一番安心できる場所でありたいし、もう菜胡を泣かされるのは嫌だから」

照れもせずそう答えられれば周りは黙るしかなく、不信で冷たいイメージしかなかった棚原に、人には甘いイメージも付いた。だがそれで言い寄るが増える事はなかった。菜胡への気持ちは揺るがないものと皆がわかっていたし、二人の仲を裂こうとする輩は居なかった。

車を走らせてすぐ、フロントガラスに雨粒が落ちてきた。

「あら、雨ですね」

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「一日曇ってたからなあ。今夜だけで明日は晴れる予報だから、湘南まで足をばせるな」

首都高速道路は車の臺數は多かったがおおむね順調にホテルに到著した。予約していた名を告げてチェックインを済ませ、部屋で著替えた。棚原はジャケットにネクタイ、菜胡はワンピースにパンプスとアクセサリーをし。

「紫苑さん、かっこいい。いつも白だから、そういう姿、新鮮。かっこいい」

焦茶のジャケットに白いシャツを著て、シャツの襟は立てた。ベージュのパンツに焦茶のベルトと靴を合わせ、ポケットには菜胡のワンピースと同のポケットチーフを挿した。

「菜胡も似合ってるよ、そのワンピース」

薄いクリームのワンピースには、同の糸の、大きな花の刺繍が裾に一周ぐるりと施されていて、一見地味だが、華やかできちんともある。右手には棚原の指をはめ、ハーフアップにした髪をまとめて、茶のパンプスを履いた。ペアルックというほどではないが、カラーは揃えたつもりだった。

レストランはホテルの上層階にある。席は全て窓の外を向いており、夜景を眺めながら食事を楽しめた。この展ならカップルでの利用が多いわけがわかる。

レストランと同じ階にある、こちらも夜景がしく見えるバーに移して、ピアノの生演奏のジャズと味しいお酒を愉しんだ。部屋へ戻ってきた棚原はネクタイを外してベッドになだれ込んだ。

「あー、味しかった」

「お仕事終わりで疲れたでしょ? お疲れさま、ありがとう」

アクセサリーを外してパンプスをぎ、結っていた髪を解いた菜胡が棚原のすぐ前に立ち、背を屈めて棚原に覆いかぶさるように口付ける。クリームのワンピースから覗く鎖骨が妙に扇的で、そのまま菜胡の腰に腕を回して抱き寄せ、あっという間に形は逆転した。

よれたシーツの上にある菜胡の小さな手に、棚原の手が重なって、指が絡む。

「菜胡だって今日一日仕事してた。お疲れさま、ありがとう」

ちゅっと軽く口付ける。何度も顔の角度を変えながらが重なって、やがて棚原の舌が菜胡のそれを求めて割りってくる。

「ん……し、おんさ……」

「菜胡……」

視線は熱く絡みあったまま、がわずかに離れた隙に互いの名を囁き合うも、すぐに吐息へと代わる。

ベッドの枕元に備え付けのスイッチを作して室を暗くした棚原は、菜胡に口づけを落としながらその背に手を回してファスナーを下げた。お酒を飲んだせいか、はたまた棚原に移されたのか、火照った背中が涼しくじた。するりとがされていく菜胡も、棚原のシャツの前ボタンに手をかける。

* * *

雨は夜半になるほど強くなった。時おりガラス窓に打ち付ける、パタパタという雨音が聞こえて菜胡は目を覚ました。

寒くはないが、雨音というだけで寒いような気になる。布団から出ている棚原の手を布団の中に仕舞いつつ、自も棚原にを寄せた。溫かく大きな棚原の存在は菜胡の一番安心できる場所になっていて、そのに顔を押し付けながら眠るのが一番の幸せだった。そうしてく菜胡に気がついた棚原が目を開けた。

「ん……どうした」

「ごめんね、起こした? 雨の音で目が覚めちゃって」

パタパタと雨音のする窓に目をやってから菜胡をぎゅっと抱き寄せてくれた。

「大丈夫、俺が居るから」

いつもこうして言ってくれる。棚原の腕の中に捕われれば、雨の音よりも大きく聞こえる彼の心臓の音に意識を集中してみる。

「……私ね、昴さんに『兄さんの何を知ってるの』って聞かれて何も答えられなかったんだけど、知ってる事、いっぱいあった」

「ん? 知ってること?」

菜胡の顔を覗けるくらいに腕を解く。

「紫苑さんは、甘めのコーヒーが好き」

「はは、好き。甘すぎもだめだけどさ。他は?」

「無意識に右耳の耳たぶをいじってます、これはイライラしてる時や焦ってる時によく」

手をのばして右耳の耳たぶを軽く摘んだ菜胡。その手を棚原が捕らえて手のひらに口付ける。

「そうなの? 気がつかなかった、自分ではわからないもんだなあ」

「それから、左足の親指の靴下がいつも一番先にヘタってくるの。歩き方の癖なのかな」

布団の中で素足がれ合う。くすぐったさに笑いがれる。

「あー、確かに! 靴底もそこが薄くなる。まだある?」

「えっと、鶏の皮が苦手」

目を見開いて、菜胡の手を握ったまま自の顔を覆う。

「気づいてた? 恥ずかしい……」

「唐揚げを作ると、皮のなめなやつを選ぶから、最近は皮を予め取り外してますけど、ふふっ」

「あのムニョっとしたじがどうもなー。ガキだろう」

「かわいいです」

「かっかわ――」

菜胡がばして口づけてくる。

「それから? まだ知ってることある?」

「あとはね……私の匂いが大好き」

菜胡を抱きしめなおして、肩口に顔を寄せる。スーハーと深呼吸しているのがわかるほどに。

「うん、大好き。落ち著くし、安心するし、疲れが取れる。初めて嗅いだ時は驚いた。甘ったるくて、丸いじの匂い……でも菜胡も好きでしょ? 俺の」

「うん、紫苑さんの匂いも大好き」

「ほかは?」

「――大好きって言うと、泣きそうな顔で喜んでくれる」

棚原は額を菜胡のそれにそっと當てた。

「だって、菜胡からだよ、嬉しいよ」

「ふふ……紫苑さん、好きよ、大好き」

「俺も。菜胡の全てが大好き――」

雨音を気にしなくなった二人の小さな笑い聲と囁きは再び吐息へと変わり、荒々しく窓を打ち付ける雨音にやがて掻き消されて行く。

「……このまま、したい。菜胡を直接じたい……」

「ん……きて、……し――」

* * *

雨上がりの早朝の空は輝いていた。洗濯したてのように真新しいが降り注ぐ。

「気持ちいいくらいに晴れたな」

「海が楽しみね」

そのに、部屋に備え付けのガウンを羽織って窓辺に寄り、目覚めてゆく街を見下ろす。ここは棚原のマンションがある街とは違うのに、朝日が街にできていた闇を照らし始め、人々の活が活発になっていく様は同じだった。海をいく船、遠くに見える電車、駅に向かって歩く人が増えだして、街も目覚めていく。

「あ、ねえ、紫苑さん見て、あそこに船――」

部屋から見える港に船が港するのが見えた。クルーズ船なのかわからないが、大きな船に菜胡のテンションがあがる。海も船も非日常の世界だから、余計に見ってしまう。船が來たよ、と言おうとした瞬間、窓に添えていた手が取られた。

「ん?」

振り向けば棚原が優しい笑顔で立っていて、次いで左手の薬指に冷たいじた。銀に輝く指が通されて、その一粒ダイヤの指が意味するもの――。

「菜胡、俺と結婚しよう。菜胡を生涯すると、この夜明けに誓う。そして今朝のような夜明けを何度でも菜胡と迎えたい。してる」

菜胡の左手を持ち上げて口づけながら棚原がはっきりと告げた。その目は菜胡をまっすぐ捉えていて、冗談など微塵のかけらもないくらいの真剣なものだとわかった。

「菜胡、返事を聞かせて」

返事などせずとも、菜胡の心は決まっている。棚原もわかっているはずなのに、言葉にさせたかった。

「はい、よろしくお願いします」

菜胡は嬉しさに眥を濡らした。好きな人と生涯生きていく事に憧れを抱かなかったわけじゃない。棚原とそうなりたいと期待を抱いたこともあった。だがそれは、いつか、という希でゆるく考えていたから、このプロポーズには驚かされた。

いつからそう思ってくれていたんだろうか。いつ指を用意したんだろうか。でもそんな事よりも、今はただ喜びたかった。涙を浮かべながら両腕を棚原に向けてあげれば、首に抱きつけるよう背を屈めてくれ、ほぼ同時に、菜胡の腰に腕が回された。

窓の向こう、遠く水平線からし込むは抱き合う二人を溫かく包み照らした。それはまるで祝福のにも似ていた。この先二人が歩む道は真っ直ぐではないかもしれないが、きっと二人なら手を握りあって越えていける。そう思わせた。

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