《香滴る外資系エリートに甘く溶かされて》2-3. 遠い夏の夜の記憶
「————ってじでさ、最近奧さんの機嫌が悪くてほんと嫌になっちゃうよ」
「うーん、そういうふうに言われると傷つきますよね……」
「そうなんだよねぇ……長年夫婦として支え合ってきたし、こんなことで妻を嫌いになることはないけど結構ショックで」
溜め息を吐きながら愚癡をこぼす相川あいかわさんは今日初めてお會いしたお客様だ。絵梨花さんを指名することが多いらしいが、ちょうど別の卓で接客中なのでヘルプとして私がついている。
きっちりとした嗜みの紳士は隨分落ち込んでいた。なんでも最近、家にいると奧さんからの八つ當たりが激しいそうでお疲れ気味らしい。そういう訳で今夜は仕事終わりにそのまま夜の街に繰り出したのだという。
「あー、だめだね。せっかく気分転換しようと思って遊びにきたのに暗い話になっちゃったや」
「そんなことないですよ。奧様のことを大切に思っていらっしゃるのが伝わってきて、相川さんは素敵な旦那様なんだなってしました。でも、辛いことが続くと誰かに話を聞いてしくもなりますよね」
相川さんのグラスについた水滴をハンカチで丁寧に拭う。本心からの言葉だった。相川さんの年齢を鑑みるに、奧様はちょうどがれやすい時期なのだろう。その世代のはホルモンバランスが崩れて苦労すると耳にしたことがある。
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「今すぐには難しくても、きっといつか元の穏やかな奧様に戻られると思います。ただ、そうは言っても、相川さんが落ち込んじゃった時はいつでも遊びにいらしてくださいね」
あまりにも奧様のご調が優れないようならお醫者様に診てもらってもいいかもしれませんね、と控えめに言い添える。余計なお世話かも知れないと思ったが、心配でつい言ってしまった。
「リリちゃん……だっけ。ありがとう。なんだか心がし楽になったよ」
らかな笑みを浮かべた相川さんに謝された。ここのお店の子たちは無理に話を盛り上げたりしないから、なんだか落ち著けるんだよねと話す紳士の顔は先ほどより晴れやかだ。
「相川様、失禮致します」
その後も和やかに會話を楽しんでいると、黒服の柳さんがやってきた。相川さんに了承を得て、柳さんは私に耳打ちした。
「1卓に加賀谷様、本指名」
手短に伝えられた容に頷くと、相川さんに指名がった旨を伝える。素敵な紳士は私に改めて謝の言葉を伝えると、快く送り出してくれた。
加賀谷さんの待つテーブルへ移する前に、バックヤードに立ち寄って軽く化粧直しをする。ハンドバックから手鏡を取り出したタイミングで柳さんがやってきた。
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「リリちゃーん、店から1ヶ月足らずで本指なんてやるじゃん」
柳さんはグラスを磨きながら軽い口調で話しかけてきた。七瀬ママの右腕を務めるこのチャラ男はの子の扱いに至極長けていて、あらゆる面から私たちのサポートをしてくれる。異に苦手意識のある私の懐にすらスッとって來た凄腕のお兄さんだ。店後のちょっとした研修を擔當するのも彼なので、私もすでに々とお世話になっている。
「あー、ありがとうございます……」
ファンデーションが崩れていないかチェックしつつ、曖昧な返事をした。私の微妙な反応に何かを察したのか柳さんが揶揄うようなテンションで話を続ける。
「加賀谷様はとんでもないイケメンだし、リリちゃんとしてもラッキーじゃないの?あんな男、なかなかいないよ。それとも、もしかして初回で口説かれたのが響いてたりする?」
あれは凄かったよねぇ、初回の第一聲での子口説き始めたお客様は俺も初めて見たわ!と柳さんは笑っている。柳さんもなかなかのイケメンなのだが、加賀谷さんは…終始にこやかで優しいのに、ふとした瞬間に男の気をじるというか……何にせよ魅力的過ぎて心臓に悪い。
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『俺は気になる人への表現は惜しまない方だと思うよ』
それに加えてこの前のあの囁き。あんなアピールをされてしまうと本當にどうしていいか分からない。初回から好意を滲ませた視線で私を見てくれていたが、さすがにけ流すのがしんどくなってきた。
「いや、ほんとに…ああいう態度取られると正直どうすればいいかわからなくて……私、経験全くないので」
「え、マジ?リリちゃん落ち著いてるし、今まで何人かと長く付き合ってきたじなのかと思ってたわ」
「よく言われます。私、そもそもに興味なくて」
アイメイクも軽く手直しする。今夜はけのある夏らしいペールブルーのドレスを著ているので、濡れのあるアイシャドウを選んでみた。清楚さを演出しつつも、適度にっぽく仕上げているつもりだ。
「待って、なにそれ。詳しく聞きたいんだけど。今度詳しく教えてよ」
「あはは、良かったら相談に乗ってくださいよ。そろそろ1卓行ってきますね」
最後に艶のあるリップを塗り直した。柳さんに見送られながらバックヤードを出る。フロアは華やいでいて、どの卓のお客様も楽しそうだ。時々、自分がこうして働いているのは夢なんじゃないかと思う。
「加賀谷さん、いらっしゃいませ。今夜も遊びに來てくださって嬉しいです」
「リリちゃん、會いたかったよ。なんだか今日は……大人っぽいね」
「ありがとうございます。加賀谷さんこそ、今日も素敵ですね」
にこりと笑顔を浮かべて加賀谷さんに挨拶をする。彼はいつもの笑顔をこちらに向けた途端、じっと私の姿を見つめ始めた。どうやら、今夜のドレスは彼好みらしい。
今日は同世代のお連れ様が2名いるようだ。ちらりと目線を向けた途端、彼らの顔に喜が浮かんだ。
「この子が噂のリリちゃんかー!」
「いやぁ、確かに人だね。可いのにセクシーというか、ドキドキする」
「え、俺も口説いてもいいかな?」
「橘たちばな、お前今すぐ帰れ」
「うわ、加賀谷こわっ」
「お前、リリちゃんの前だとんな意味で豹変するんだね……」
會話が一気に盛り上がったので私は目を瞬かせた。3人はかなり気安い仲のようだ。加賀谷さんはハッとした表で私に説明してくれた。
「いきなりごめんね。この2人は會社の同期の橘と佐倉さくら」
「そうそう。今日は久しぶりに3人で飲んでたんだけど、加賀谷が————」
「うるさいよ、橘」
笑顔の加賀谷さんが橘さんの口を方手で塞いだ。ちょっと続きが気になる。
「加賀谷が最近、気になるの子がいるって言うから君に會いに來ちゃったんだ。上司の榊原さんからもこのお店の話は聞いてたから、一度來てみたかったんだよね」
らかな微笑みを湛えながら佐倉さんが教えてくれた。海外のが混じっているのか、素の薄い髪と明るいブラウンの瞳が印象的な方だ。加賀谷さんと何か話し込んでいる橘さんは溌剌とした印象の人で、焼けたからしてスポーツやアウトドアが好きそうな雰囲気をじる。
「そうなんですね。お會いできて嬉しいです」
「2人ともちょっと靜かに…騒がしくてごめんね」
「こういう賑やかな雰囲気も新鮮で楽しいですよ?」
さっきまで相川さんと一緒に楽しく飲んでいたおかげか、程よく酔いが回ってきた私は悪戯っぽい笑みを浮かべて加賀谷さんを上目遣いに見つめる。バックヤードで思い悩んでいたことなどすっかり忘れて、大膽に加賀谷さんの右腕にれてみた。
「————っ、リリちゃん!」
瞬時に加賀谷さんがをこちらに向けて、私と視線を絡ませる。驚喜のを浮かべた瞳に熱心に見つめられて恥ずかしくなってきた。
「……うわ」
「これは……想像以上だね」
「俺、榊原さんが面白がって話盛ってんだと勘違いしてたわ」
「うん、僕もそうだと思ってた」
話の容はよく分からなかったが橘さんと佐倉さんの聲に彼らの存在を思い出した私は、加賀谷さんから離れてテーブルに著くよう促した。
「本來であればお1人ずつ隣で接客させて頂いてるんですが、今夜は々混み合っていまして…しばらくすれば私以外の者も席に著きますので、ご了承いただけると助かります」
今日は予約なしでの來店がいくつかあって、キャストの數が足りていない。橘さんと佐倉さんにその旨を伝えて謝ると「いや、俺らはリリちゃんだけでいいよ」と言われた。
「僕は既婚者でね。妻が嫉妬するから元々遠慮しようと思ってたんだ。その分、加賀谷とリリちゃんのやり取りを堪能させてもらうよ」
「俺も別にに飢えてねぇしな。佐倉はさっさと結婚しちまったし、加賀谷はリリちゃんにご執心だけど俺ら結構モテるんだぜ?」
「橘、お前は本當に帰れ」
「わっ、その顔はマジで怖いって加賀谷。リリちゃんに見られたら泣かれるぞ」
その顔が気になって、バッと加賀谷さんの方を向いたが間に合わなかった。いつも通りの明るい笑顔が私を見ていた。
「加賀谷さんの怖い顔、気になります」
「ほんと超怖いよ、殺されるかと思った」
「まさか」
相変わらず加賀谷さんは笑顔だが、橘さんが突っかかる度に確かになんだか機嫌が悪そうな雰囲気が出ている。彼の意外な一面を見た気がした。
それからは4人でお酒をえつつ、仕事の話や佐倉さんの奧様の話で盛り上がった。なんと佐倉さんは社婚らしく、恐ろしくハイスペックな夫婦じゃん……と1人で慄いていると、不意に加賀谷さんのスマホが鳴った。
「榊原さんからだ。ちょっと行ってくるね」
加賀谷さんはスッと立ち上がると、長い腳であっという間に店から出て行った。
「この時間に電話だなんて、お忙しいんですね」
「うーん、多分業務外の話だとは思うけどね。どこかで取引先と飲んでるから來いとかそんなじじゃないかな」
それは業務なのでは?と思ったが言葉を飲み込んだ。野暮なことは言わないでおこう。
「そんなことより、リリちゃんよ」
「はい、何でしょう。橘さん」
「君はあの加賀谷に気にられてる訳だけど、どう思ってるん?」
「…と言うと?」
「いやぁね。加賀谷いないからぶっちゃけちゃうけど、さっき3人で飲んでる時のあいつの様子は相當でね。好きな子ができた、かわいい、かわいいってずっと言ってたんだよね」
「……………そうですか」
薄々気づいていたとはいえ、こうして加賀谷さんのご友人から話を聞くと気恥ずかしくて言葉に詰まった。今も視線が泳いでいる自信がある。
「いやー、ほんとびっくりしたわ。加賀谷ってあのルックスだからさ、死ぬほどモテるんだけど誰かを好きになったって話を聞くのは初めてで」
「ね、本気で驚いたよ。しかも、加賀谷の君への対応は僕たちの目からすると異様なレベルだね」
「間違いない。仕事中はほんっとに冷靜沈著ってじで、超クールなんだぜ。そうかと思えば、俺たちと飲んでる時は口が悪くなるし…あんなににこにこ嬉しそうしてるとこなんて見たことない。っていうかあんな表できるんだな、あいつ」
「前にの子に告白されてる場面に出くわしたことがあるんだけど、1ミリも興味ないですって顔でバッサリ斷ってて、見てるこっちまで辛い気持ちになったね」
なかなかに散々な言われ様だが、お2人が言いたいことはなんとなく伝わった。頬を赤らめてにこにこしている印象が強いので、私としても意外でしかない。私が無言でいると、佐倉さんが言葉を続けた。
「リリちゃんが仕事でここにいるのは分かってる。どんなにイケメンだろうが加賀谷は客の1人に過ぎないのかもしれない。でも、彼のことをなからず知っている僕たちから見るとあいつのリリちゃんへの思いれは尋常じゃないんだ」
「ほんとになぁ。本當は俺たちからこんなこと言うべきじゃないってわかってんだけど、あいつのことちゃんと見てやってしいんだ」
「そうそう」
「なー……って、肝心なこと聞くの忘れてたわ。リリちゃんて彼氏いたりする?ガチで聞きたいんだけど」
「……彼氏いないですよ。本當に」
本當の私は、彼氏いないどころか一度もいたことがないだ。これからも作る気はない。お客様の前で失禮だと承知の上で溜め息を吐いて、お酒を煽りながら考えを巡らす。
そもそも私が異を苦手になった、というより異を避け始めたのは中學の頃からだ。私が通っていた中學校は男子生徒の數が多く、何かと子は好奇の目に曬されていた。私はの発達が早かったこともあって、その中でも特に男子たちの興味を惹いてしまった。幸いにも的な実害には遭わずに済んだが、思春期男子特有の粘つくような好奇心とに塗れた視線に常に纏わりつかれ、とにかく不快で仕方なかった。
今でもあの表現しがたい無數の視線を思い出すと気分が悪くなる。それ以來、異をなんとなく避ける癖がついてしまった。法學部に進むことにしたのも、ひとりで立派に生きていけるような知識をにつけたかったからだ。
時が過ぎて、今ではこうしてラウンジ嬢として働ける程に異への苦手意識はマシになっている。これから社會生活を営む上で問題ない程度には克服できたと考えていいだろう。
ただし、————延いては的接のことを考えるとあの頃のトラウマがほんのし甦る。だから、彼氏は作らないと決めていた。に興味なんてないと言い聞かせて、意図的に考えないようにしていた。
「榊原さんからの電話、大したことない話だった……あれ、リリちゃんどうしたの?」
————でも、もし加賀谷さんが私のことを本気で想ってくれているなら?
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