明瀬ちゃんが言った言葉の意味が理解できず、私は問い返す。音とはどういう意味か、明瀬ちゃんの言葉が何を指しているのか、私には見當も付かない。

「どういう事？」

「きっと視力が落ちてるんだよ。聴覚に頼ってるんじゃん？」

ゾンビ映畫にありがちな設定だね、と明瀬ちゃんが一人納得していた。こんな時でも映畫の話が出來る神力に、しばかり服する。

私は映畫については詳しくないが、彼等が私達の姿を見失い彷徨う姿を見て納得できるものはあった。彼等が追いかけてくる気配は無い。

渡り廊下を駆け抜けてＡ棟に辿り著いた。ほんの數十秒の距離が途轍もなく遠く思えてしまう。私の前を走っていた矢野ちゃんが急に足を止めたので、私は勢を崩しそうになった。顔を上げると、矢野ちゃんが足を止めた理由が分かった。

嗅覚が麻痺していて、むせ返るようなの臭いに気が付けなかった。Ａ棟校舎の２階廊下も、凄慘たる狀況だという事に。渡り廊下の慘狀以上だった。

Ａ棟校舎の廊下の床を埋め盡くす死とと。そして彼等と。

彼等が蠢きまわる姿が見えた。皮が裂け、筋が出し、に空いたからはが零れる。は生乾きになり破れた制服に散っていた。

廊下に居るの彼等は十數人で、その中に見知った顔があった。顔が酷く変して変わり果てた姿になっていても、ずっと一緒に居たクラスメイトの面影は、嫌という程殘っていて。

友人の変わり果てた姿を見て、矢野ちゃんが無言で私の肩を強く摑む。彼等の口から垂れた片、それが滴らせたの跡の続く先には、クラスメイトの死の山があった。

ついさっきまで、あのお晝の時間まで、変わらぬ姿でいたのに。その顔も、その聲も、ハッキリと思い出せる程に。

けれども、それなのに。

早鐘の様な悸が、揺や慟哭が原因ではなくて。恐怖で覚が麻痺しているのか、涙も嗚咽も出なくて。

「なんで、こんな事に」

矢野ちゃんが滲ませたその聲に、私は正気を取り戻す。此処まで來た目的を、忘れてはならない。

未だ鳴り響くサイレンの音に、彼等は気を取られている様で、私達の方を見ようともしなかった。

教室の前の廊下には、生徒毎に割り振られたロッカーが並んでいて、私の表札が付いたロッカーの前まで足音に気を配りながら進む。アルミ製の冷たいダイヤルを回す。指先が急いて何度も目當ての數字を行き過ぎる。

何処からかの悲鳴が聞こえてきた。サイレンの音の間をってハッキリと。廊下の端から斷続的に聞こえてきて、それが助けを求めている言葉だと、理解してしまう。

ロッカーを開けようとした手が止まる。私は手元を見つめたまま、ロッカ－の中から竹刀袋を摑んで取り出す。

明瀬ちゃんが私の肩を揺すって何かを指差した。廊下の隅に倒れている生徒が私達に手をばしていた。クラスメイトの佐々木さんだった。気が付きたくなかった。

佐々木さんの脇腹から流れ出たが、床に広がって彼の顔までも汚している。千切れたスカートから覗く太の付けには、その先が無く、びきったゴムの様に千切れた皮が床をる。

サイレンの音に塗りつぶされている筈なのに、彼の掠れた聲が、助けを請う悲痛なびが、私の耳に屆いている様で。

佐々木さんの側に立っていた數人が私達に気が付いたのか、き聲を上げながら歩き始めた。飛び出そうとした明瀬ちゃんの手を、私は強く摑む。明瀬ちゃんが何かを言おうとして、それでも言葉を呑み込んだ。

魔の杖を隠した竹刀袋と部活道をれた鞄を擔ぐ。廊下にいる彼等の數は十數。サイレンの音で攪出來ている今なら、橫を駆け抜けられるかもしれない。

「そんなに數が居ないから……。居ない？」

私の思考が、何か違和を訴えた。

私達が科學室にいる間に、この學校に一何が起きたのかは分からない。けれども、何らかの切っ掛けで生徒達は人を喰らう化へと姿を変え、彼等との接を重ねて、その數を増やした。

目の前でクラスメイトが襲われる恐怖から、生徒達はパニックになり、逃げ遅れた何人もの生徒が喰い殺された。

詳細はともかく、大方の流れは予想が出來る。だとすれば。

彼等の數がなすぎる気がする。

Ａ棟２階にあるのは二年生と三年生のクラスで計８クラス。１クラス４０人と計算しても、３２０人の生徒が晝休みこの階に居た。

彼等の現れたパニックで、生徒が外に逃げようとしたとしても。そうだとしても、幾ら何でも、死者の勘定が合わない気がする。

この廊下にいる十數人の彼等と、廊下の至る所に倒れ重なった數十の死と。合わせてみても３２０人の生徒數には遙かに屆かない。

全員が外に逃げた可能は確かにある。中庭の慘狀とＢ棟校舎の階段の様子から、外に多くの生徒が居たのも確かだた。

けれども、ほぼ全ての生徒が教室にいる晝休み。一年生も合わせれば全校生徒５００人近い生徒が居るにも関わらず、最も生徒數が集中している２階廊下に、これだけの人數しかいないのはおかしい気がする。

「何か見落としてる気がする」

そもそも一、何が起きたのだろうか。これだけの人が短時間のに、明瀬ちゃんの言う様なウイルスに染する事があり得るのだろうか。

明瀬ちゃんが矢野ちゃんに話しかけた聲で私の思考は途切れる。

「早く外に出よう」

「駄目だ」

Ａ棟の階段の下から大量の人の波がせり上がってきていた。き聲を引き連れた、たどたどしい歩行。無數の彼等が、階段を埋め盡くしていた。階段を溢れ出しそうな彼等の波に押され、その不格好な歩行ながらも無理矢理に階段を上がってきていた。幾重にもなったき聲が反響して、それが聞こえたのか廊下の彼等もき出す。廊下の天井を見上げて矢野ちゃんが言う。

「外にいたのが、サイレンの音で集まってきてるのかもしれない」

「じゃあ上に行くしかないじゃん」

明瀬ちゃんの言葉に矢野ちゃんは迷った様子だった。學校から出する必要があって、けれども、この階段を下るのは不可能で。私は途切れた二人の會話を継ぐ。

「今は上に行くしかないよ」

３階に上がって、彼等から逃げるほかない。私の言葉に矢野ちゃんが遅れて頷いた。

魔の杖は手元にあるが、この數をどうこうできる程、私の魔法は萬能ではなかった。私が明瀬ちゃんの手を引く。足の痛みが酷いのか苦痛に満ちた表をしていた。階段の上には誰も居ない様で、私達は階段に向かおうとした。

その瞬間。その一瞬。

それは塊の様に見えた。境界線が見えない、一塊の何かが。