10-2

上を見上げると上空を飛んでいく一機のヘリの姿が見えた。空の真ん中に浮かび上がったような黒い影に、私は必死に手を振った。パンデミック発生後から、初めてヘリが飛んでいるのを見た。必死に聲を上げ、帽子を手に、空へ向かって合図をした。

いつしか忘れていた可能が、救助という希が、俄かに私の中で沸き上がってくる。二ヶ月間、たった二人で生きてきた。何の希も無く、その生を繋いできた。何のゴールも見えず闇雲に。だが、それは、急に訪れた。暗雲の中にしこんだ一筋のの様に。

救助の可能がある。なくとも、ヘリを飛ばせる程、力のある組織がいる。それは、私達が何となく思い描いていた救助というゴールを、し明確にしてくれるもので。

しかし、私の合図に何の反応もなくヘリは通り過ぎていく。高度を下げる気配はなく、そのまま何処かへ飛行していく。ヘリの行き先を確かめる為に追いかけることに気を取られていて、上からの影に反応が遅れた。頭上の音で、私は上を見た。

「っ！？」

空中から降ってきた影に、私は咄嗟に地面を蹴る。地面を転がって肩を思い切りぶつけた。帽子のつばで遮られた視界の先に、地面に著地した一のゾンビの姿が見えた。私は急ぎ立ち上がり、一歩退く。予期していなかった遭遇に、私の心臓は急激に跳ね上がる。

屋の上から跳んできたというのか。その運能力からして、走れる方のゾンビ、「スプリンター」だと気付く。地面に四肢を著くようにして著地したその姿が、ゆっくりと顔を上げた。白く濁った死んだ目が、私の方を見る。この距離では、視認出來ているのだと直する。いや、それよりも。

その姿に、見覚えがあった。その顔は青白く乾いたはひび割れている。はの気が失せ、赤の素は消えていて、乾いた土の様なをしていた。目の周りは深く窪んでいて深い影が落ちていた。頬の辺りは皮が腐り落ちたのか無くなっていて、その下のが薄汚れた赤をしていた。腕や首筋の辺りも、同様に皮の下のが見えて、その所々にが開いている。服裝は大きく破れていたが、白のシャツと紺のスラックスで制服姿だと分かる。

そんな姿でも、そんな姿にり果てても、私は彼を知っていた。

「小野間君……！？」

それは、間違いなく彼だった。かつて言葉をわした彼に違いなかった。

かつて闇夜に沈めたあの景が、脳裏を過る。あの炎に呑まれた景が、鮮明に蘇る。手が無意識のに震えていた。目が離せなかった。

「なんで、こんな……私はっ！」

杖を握り締めて私はく。これが運命だとでも、宿命だとでもいうのだろうか。こうまで世界は私に牙をむくのか。

一瞬。反応が遅れた。その姿で、彼は牙をむいて、地面を蹴る。勢いよく、私の言葉も屆かずに。

私はを翻すが、その勢いを躱しきれず。彼の手が私のマントの裾を摑んだ。咄嗟に、杖の先に炎を燈す。しかし、一瞬の躊躇いが私の意識に割り込んで。

私のマントを力強く引っ張られて、その勢いに恐怖のが一瞬で全てを呑み込む。その牙が私の眼前に迫った。その口へ杖を突っ込んで、押し留める。杖の先が彼のを抉り、乾ききった皮を裂いて中からが出する。それも構わず噛み付こうとしてくる勢いに、帽子が地面に落ちた。

私は左手を「ゾンビ」の腹へと押し當てた。

「詠唱省略！　穿焔！」

杖を持っている故に、呪文を省略する。分かっていても、自にかけた暗示は自分で解けるようなものではなく。杖か呪文が無ければ、魔法の発は出來なかった。

私の左手の先で炎が渦を巻き、超至近距離でゾンビのへと炎をぶちあてた。放った炎がゾンビので破裂して、間近で火炎が散る。火のを孕んだ衝撃波が、返ってきて私を襲う。千切れ、殘骸の様になった布を焼き、その下の皮を燃やす。しわだらけになり変した皮が、炎に焼かれ黒く焦げ、そしてめくれ上がる。出した皮の下、赤い繊維の集合を炎が舐めた。

炎をぶつけた衝撃で、大きく吹き飛んだゾンビが空中へと舞い上がり、勢いよく地面に落下した。頭から落下した反で、関節はひしゃげて曲がり、首は明後日の方向を向いた。から捻じれて曲がったその首の先、顔が肺の辺りにのめり込んで見えなくなる。

「なにも……！　私はなにもっ……！」

至近距離でぶつけた炎の熱にあてられて、目眩がした。荒い呼吸を繰り返すと、火のを吸い込んだが焼けていた。咳き込む度にが滲み苦しくなる。心拍數が跳ね上がっていた。摑まれたあの一瞬の恐怖が、摑んできたあの力強い手が、一拍遅れて恐怖へと変わっていた。そのが私の全てを支配してしまう。

噛まれる寸前だった。それは即ち、死へと直結していた。決して油斷していたわけではない。しかし、この二ヶ月、ゾンビとの接を避け続けてきた私の中で、死という概念が薄れつつあったのは確かだった。

「間違って……ない」

今の戦闘の音で、ゾンビが集結しつつあることが忍び寄ってくるき聲で分かった。ヘリの行方は見失ってしまっていた。私は家までの最短ルートを諦め、ゾンビを撒くことを考える。前方の道にゾンビの姿が見えて、私は咄嗟に踵を返す。

「……相手している場合じゃないのに」

進行ルートを遮られて、ルートを変えた。いつもの行範囲から外れてしまっている。ゾンビの狀況と、道が正確に把握できていない。不用意にゾンビの群れと遭遇すれば、撃退しきれない。走りながら地図を開いて確認する。それに意識を向け過ぎていた。

曲がり角から咄嗟にびてきた腕を、私は一瞬遅れて躱す。崩れた姿勢から地面を踏み締めて、咄嗟に杖を振り切った。加速をつけた杖が勢いよくゾンビの顔をぶちのめし、その顔はあっけない程簡単にくぼみが出來る。私は後方へ跳び退く。

顔が歪んだゾンビを筆頭に、數十のゾンビが道を埋め盡くしていた。彼等が私の姿を認めて、一斉にきを上げながらき出す。彼等の突き出した腕が無數に重なり合って、一塊の生の様で。

私は周囲を見回す。後方の家の庭の壁、高さ２ｍもない高さのコンクリート造りの塀。杖を背に擔ぎ、塀へと私は思い切り駆け出した。コンクリートの塀へと跳んで、その天辺に指先を掛ける。ざらついたが痛みに変わって、私は顔をしかめた。足元の出っ張りに足を掛けて、よじ登る。

塀によじ登ると、寸前までゾンビが迫ってきていた。私の蹴り上げた靴が、彼等の指先を掠める。壁にそのを押しつけ、皮に傷を作るのも気にせず私へと手をばしてくる。その指先が壁の縁にかかって、私は踵でそれを思い切り踏み締める。靴の裏にらかいが殘って、千切れた指が落ちていった。

ゾンビの運能力では、この高さを乗り越えてくる事は出來ない。このまま庭へと著地して、ゾンビから逃れられる。そう踏んでいた私の考えを打ち破るものがあった。

後方にスプリンターの姿があった。ゾンビの群れとは外れていた一のゾンビが疾走してくる。「走る」ゾンビのその跳躍力をついさっき目撃したばかりだった。あの跳躍力ならば、この高さを飛び越えてくる可能が高い。あれだけでも、排除する必要がある。

「闇より沈みし夜天へと、束ね掲げし矢先の煌、狹間の時に於いて禱の名に返せ」

塀の上で、立ち上がる事も出來ないまま、しかし私は詠唱と共に右手を払う。轟、と空気を震わせて。その一瞬で空気を焼いて。私の目の前で、空中で、火の手が上がった。炎が私の右手のきに吊られるようにして大きく揺らめく。見えない松明があるかのように、炎はその勢いを緩めることはないまま、何もない空中で燃え上がっていた。

走り込んで來たゾンビが、壁の前で群がる他のゾンビの群れの頭上を飛び越えて跳んだ。數メートルの距離をものともせず、私の予想よりもずっと早く高く跳んでいた。

「穿焔！」

勢いよく目の前まで迫ってきたゾンビへと、私は思い切り右手を振り下ろす。直徑３０ｃｍ程の炎の塊が勢いよく轟音を鳴らして、真っ直ぐに飛翔して。直撃として跳躍中のゾンビは吹き飛び、下に広がるゾンビの群れへと落ちていく。しかし、その熱風の反をけて私はのバランスを崩す。

よろめいた。そう自分で気付いた時には既に、私の視界は反転し勢いよく景は流れ。弾かれるように私の乗っていた塀は視界から外れて、背中に風をじ。

そして。

鈍い衝撃と音が最後に聞こえた。