《無能力者と神聖欠陥》7 ググ/キリ、テト、銀の箸

首の熱さ、痛みはすっかり消えていたものの、ググの中に不安だけはまだ殘っていた。

男が店を去ってから一時間程。

平日なので、それから他に客は訪れていない。普段からこんなものだ。

無痛のうなじに手をやり、それからググはもう片方の手をばし、天井の角に備え付けられたテレビモニターを手で起させた。

番組は、どうやらアイドルの寮の部屋紹介らしかった。

自分と同じくらいの年齢だろうか、青年が部屋の椅子に腰掛け、インタビューをけている。

の明るい髪に、ほんのしつり上がった目しいアーチを描く眉。

凜としているも、どこかい顔立ち。

『休日はだいたい外出してるんで、自分の部屋はあまり使わないんですけど。楽曲を作ったり、演出について考えたり、ゲームをするときにはこの部屋にこもります』

意外と低めの聲で、彼が言った。

ググは、蕓能人には興味がない。

彼の名前も知らない。

椅子に座り、膝に肘をつき頬杖をついて、ググはテレビから視線を外した。

五歳になる年の四月、最寄りのクリニックで頚椎に埋め込まれた「開発小板チップ」。埋め込まれる年齢や季節は國によって違かったりもするが、自分だけでなくこの世界の人間にはそれが義務付けられている。

ググは、小板チップの実は映像でしか見たことがないが(ひょっとしたらクリニックで見たことがあるかもしれないが、記憶がない)、それは見た目も大きさも板というよりはほぼ米粒と変わりのない、ただの白い半明の粒だ。

ググが生まれるはるか昔、まだ金がとして存在していた頃、その金をれる布や革でできた「財布」が存在していたらしいが、頚椎に小板を埋め込まれるようになってからは、その財布というものは今や不要になり、小板で資金を管理できるようになった。

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この小板が無ければ。

買いができない/國の用意する通機関に乗れない/戸籍が無い/病院に行けない/通話ができない。

この小板があれば。

お互いの生報を換できる。よって、お互いの噓偽りのないプロフィールを知ることができる。それは、生年月日/型/出/はたまた、職業/生學上での別/自分で追加すれば、趣味から何まで。警察は換しなくても、位置報を把握できる。

ただ、地頭のよさがあれば、この小板と掛け合わせて、もっとんなことができ、それができる人間は「有能」とよばれ、できない人間は「無能」の烙印を押され、「石頭」と呼ばれることになる。

では、見ず知らずの男に社會で生きる上で必須の小板を破壊された挙句、「石頭」の自分には、一なにができるというのか?

答えは決まっている。

「何もできなくなる」

ググは、頭を抱える。

さっきはまだ現実を見たくなくてテレビモニターのボタンを手で押し、手で起させたが、本來であれば拡張視界を起こしてそのままそこからモニターにれずに自分の手前に浮かんだ文字にれてモニターを起させることができたし、それが普通なのだ。

幸い、店のモニターが古かったため、手ボタンなんてものがついていたが、昨今のモニターには大用の部分は無くなっている。

気が進まないが、確認しなければどうしようもない。

目をつむり、わざわざこめかみを人差し指でコンコンと2回たたく。現在の拡張視界のバージョンでは不要になったコマンドだが、自分を落ち著かせるためにそれは必要だった。

恐る恐る瞼を上げる。

と、視界の右端には「連絡先」の欄が表示され、そこにはちゃんと登録済みの母の名前、同じアパートに住む隣の部屋の住人の名前があった。

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それが確認できた瞬間、どっと全の力が抜け落ちる。

安堵による深く長いため息を一つする。

ググは、天井を見上げた。

小板チップがまだ自分の中に埋め込まれていて無事であるならば、普段通りの生活を送ることができるということだ。それでいい。

だったら自分は一あの男になにをされたのか、という懸念點があるものの、自分が今平気である以上、この時點でそれを気にしていても仕方がない。

それに、ここはあまり治安のよくない地域だ。犯罪は首都と比べないが、変わった人間はよく出くわす。恐らく、何かのいたずらに遭ったのだろうし、ググとしてはそう思い込みたいところだった。

ちょうど安心したところで、やっと次の客がってくる。

それからは夜の九時ころまで、客のりが続いた。

満席とまでは言えなかったものの、夕食どきなのもあり、観客も訪れ、その間ググから暇な時間は消える。つい先日まではググの他に中年のアルバイトの男がいたために夕食どきはそれほどググの仕事に負擔はなかったものの、ある日突然その男が無斷欠勤をしてから出勤をしなくなってしまったために、それからはこの時間帯はググにとってはとても忙しくなってしまった。

「良々鶏」は、この地域の他の飲食店と比べ早めの閉店で、夜十時。

この日の閉店間際の客は聞き分けのいい客だったため、ラストオーダーが九時ということを前もってつたえていたところ、閉店時間の夜十時にはしっかり退店してくれた。

十時數分前に、ググは裏口のドアも施錠されているのを確認してから、表の口ドアのパネル表記を「本日は閉店しました」に切り替え、そこも施錠する。

自分の夜食——賄い——を最後に用意しておいて、ざっと店を清掃し、本日の売上を算した。

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これで、あとは自分が食事を済ませ、裏口から出て、また施錠をし、帰るのみだ。自分の食事で使った食洗いは、明日出勤してから。

自分用のチキン定食をテーブルに並べ、著席しようとする。

と、後ろのほうで「カチャ」と軽い音がし、ググは反的に振り返り、立ち上がった。

裏口前に、見知らぬが1人でぽつんと立っていた。

黒いサテン生地のパジャマ。切りそろえられて側へ巻かれているボブヘアーに、白い

その白い両頬にはべっとりと、赤黒いのようなものがついている。

裏口のドアの鍵は、しっかりと施錠したはずだ。いや、したつもりになっていただけか?

営業時間外の來客、それも見るからに不審者な彼に対し、あまりにも突然のことだったためにググはなにも言えなくなる。自分から何と聲をかけるべきなのかわからないのだ。

の年齢はわからない。自分と同じくらいにも見えるし、自分よりも年下に見えるといえば見える。

はググをじっと見つめたあと、店をキョロキョロと見渡して、やっと口を開いた。

「ご飯屋さん?」それは子供のように高い聲で、舌っ足らずな口調だ。

「そう……なんですけど、もう閉店で」

いかにも怪しい人だ。できれば追い出したい。

が、閉店と告げたのにも関わらず、彼はテーブルに置かれたググの賄いを見て近寄ってくる。

ぺた、ぺたと音がするので彼の足元を見ると、足だった。

「おなかすいた」

今にも泣きだしそうな潤んだ瞳と弱々しい聲で彼はそう言い、ググを見上げる。

そんな様子で見られてしまっては、仕方がない。

「今から作るのは無理だから……これでいいならどうぞ」

ググが言うなり、彼は椅子に座る。

定食を見つめ、それからまたググを見上げ、「チキン?」とググにきくころには、涙となってこぼれ落ちそうだった瞳の水分はすっかり消え失せていて、表も明るいものになっていた。

「キリ、チキン、知ってる」

どうやら、彼はキリというらしい。

キリがググに笑いかけ、そのまま素手でチキンを摑もうとしたので、ググは慌てて箸れに刺さっていた銀の箸を渡す。

するとググから箸をけ取った「キリ」と名乗るその彼は、ググがいままで見たことのないような奇怪な箸使いでチキンを黙々と食べ始めた。

「…………」

あきらかに不審者。

迷子にだなんてなる年齢でもないだろう。

それとも、ワケありなのだろうか。

本來自分が食べるはずであった定食を喜んで食べている彼の姿を一瞥してから、ググはまず裏口のドアへと向かった。ドアノブに手をかけ、引くと、どうやら施錠されていなかったのか、ドアは開いた。ポケットから裏口の鍵と表の鍵両方がついたキーリングを取り出し、今度はしっかりと裏口を施錠する。

そして次は、表のり口だ。

鍵のレベルは、どこの店とも変わらないレベル5。

解錠は、原則として鍵に生登録をしている人間にしかできない。

解錠しようとしたり、解錠できたとしても、それは法律に反する立派な犯罪であるため、その時點で小板チップが違法知機関を作させ、神経機能を一度停止させ、全にショックを與える。そして、対象は気絶する。

表のり口も施錠したところで、ググは振り返って彼を見た。相変わらず、奇怪な箸使いでゆっくりと定食を食べていた。

警察に連絡して、保護してもらうか。

いや、ひょっとしたら説得すれば自力で元いた場所に帰ってくれるかもしれない。

溜息をつきたいのを我慢して、彼のいる目の前の椅子を引き、ググは席についた。

「ここはチキンやさんなの?」

ググから聲をかけるつもりだったが、咀嚼しながら先に口を開いたのは彼のほうだった。

「そうだよ」

、キリの口のまわりにはべっとりと甘辛ソースがついている。「口の周りがすごいけど」

ググが指摘すると、キリはにっこりと笑った。

自分でとる素ぶりがないので、ググはしかたなく紙ナプキンを引っ張り出してキリの口を拭いてやった。ついでに、ソースと同じくべっとりと両頬についていたも拭き取ろうとしたが、は時間が経ったものなのかし乾いていて、完全には拭き取れない。

「キリ、チキンやさん好き」

「ありがとう……」

「でも、はじめて。來るのは」

キリが白米を食べはじめたところで、今度はググが自ら聲をかける。

「あの、怪我してる?」

「なんで?」

がついていたから」

「けがしてないよ」

「じゃあ、どこから來たの? 家は?」

「部屋」

「……その部屋は、どこにあるの?」稚園児と會話をしている気分だった。

「どこかわかんない」

「場所だよ。たとえば、ここみたいに、第二新釜山、とか」

「だいにしんぷさん?」

「この市の名前だよ」

「し?」

まるで會話にならず、思わず、両手で頭を抱える。

目の前のキリを見ると、キリのほうが目を丸くしている。この様子だと、ふざけているつもりではないらしい。

「名前は? キリ?」

「キリ!」キリはググを見つめ、「なまえは?」

どうやらググの名前をきいているらしかった。

「ぼくはググ」

「ググ?」

「ところで、家族は?」

「かぞく?」キリがまた首をかしげる。

「お父さんとお母さんは?」

「おとうさんとおかあさん?」

「ママとパパ……」

の知能の低さからするに、一人暮らしは有り得ない。きっと、保護者と同居しているのだろう。そう思っての質問だった。これを確認してから、彼と生報を換し、彼の家族に連絡をして彼を引き取ってもらえればそれでよかったし、それが無理ならば、一旦警察に保護してもらう他ない。

「あ」キリが思い出したかのように口を開け、「ママ! パパ!」

「どこにいる? 名前は?」

「ママとパパ、すいそう」

「すいそう、って?」

「中にるの。魚といっしょの。中にるやつ」

二度目の頭を抱える時が訪れた。

「魚じゃないけど、すいそうにいて、でもぜんぜんあえないの」

「……ふたりの名前は?」

「ママ、パパ」

「ああ……」ググの眉間に、思わず力がる。

「あ、お父さん、いる」

ググは、眉間に指をやりうつむいていたが、顔を上げてキリをみた。「パパとは違うの?」

「ちがうの。パパはパパ、お父さんはお父さん、それでふたりだよ」

「お父さんはどこ? 名前は?」

「お父さん、しせつ。名前わすれちゃった」

もう、お手上げだった。

「キリ……キリちゃん」

ググがキリを呼ぶと、キリはどことなく嬉しそうにググを見る。

「迷子みたいだし、ママかパパ、それかそのお父さんにむかえにきてもらおうか。警察はいやでしょ? 一回、ぼくら、生報を換して……それから、ご家族にぼくが連絡をするから……」

「キリ、まいごじゃない」キリの皿はもう空だった。「キリ、逃げてきたんだよ」

「え?」

すると、その先のことがききたかったものの、タイミングよく表のドアがドンドンと強く叩かれる音がする。

キリがびくりとを震わせた。

ググは振り返り、ドアのほうを見る。誰かがドアを叩いているようだった。

椅子から立ち上がり、おそるおそるドアに近づく。

ドアの上半分はガラスのため、ドアを叩いていたその人の上半を確認できた。

黒いマスクで目から下が覆われている。キャップを深く被り、青のニットを著た若い男だ。見るからに警察ではない。

「開けろ」

きいたことがあるような低めの聲で、彼が言った。

「開けてくれないなら、開ける」

「え、ちょっと」

ググが何をどうする間もなく、カチャカチャとドアの鍵部分から音かし始める。

しつこく震えるその音を聴きながら、ググの直し、何もすることができない。

に集中するように下を見つめた彼の目が、どんどん充していく。

正気の沙汰ではない。

レベル5の鍵を解錠しようとしているのだ。

拡張視界によって、ドアの取っ手まわりに赤く表示され點滅しはじめたのは、「危険」の文字だった。

「そんな」

『解錠』。

危険、の文字が消え、次に現れたのはその文字だった。

ドアはガラガラと音を立て橫にスライドし、開く。

男はドアに手をつく。青ざめたからは何粒も汗が浮かび上がり、息は荒い。

苦痛により表は険しいものだったが、低めの聲の他にも、その顔はググにとって見覚えのあるものだった。

「テト……」

後ろでキリがぽつりと呟く。

テト、と呼ばれた彼は、震える手を膝につき、肩で呼吸する。

ただの「有能」であれば、本來ならば施錠しようとした段階で本人の小板によって神経機能は一旦停止されているはずだし、そこを乗り越えたとしても、今度は解錠した段階で頭から後ろに倒れて意識を失っているはずなのに。

彼は、両足で立ち、意識は失っていない。

「キリ」彼が荒い息のまま言う。「帰ろう」

したままの瞳は、苦痛によるものなのか、涙がにじんでいる。

「もう、大丈夫だから。約束したんだ、父さんと。帰ってきたら、もうずっと一緒にいられるから。だから、」

彼が一歩前に踏み出す。

「いや!」

キリが立ち上がり、手を前に突き出した。

途端、銀の閃が店に走った。

いや、そうではない。

の全ての箸れから全ての箸が飛び出したのだ。

に輝くそれらは、ググの理解が追いつかない速さで飛び出し、テトの周りを取り囲み、先端はまるで今にも彼を八つ裂きにしたがっているかのように、全てテトのほうを向いている。

一本もれてこそいないが、目と鼻の先に箸がある。全を取り囲んでいる。

ただものを摑むためだけの食にしかすぎない箸の先端は鋭利ではなかったものの、キリがここまでできるということを今ここで確認したググからしてみれば、この箸でキリが人間を蜂の巣に仕上げることもできるのは容易に想像がついた。

テトの目は見開く。勿論、一歩もけはしないし、一歩もけないどころか、1ミリもけない狀況だ。

もし、しでもけば、箸が迫ってあらゆる角度からテトを串刺しにしてもおかしくはない。

「キリ……」

テトの額から、汗が伝う。

キリが手を下ろし、テトによって解錠された表のり口から走って店外へ出て行く。

テトを取り囲んでいた無數の箸は、命を失ったかのようにガシャガシャと大きな金屬音を立てて床に落ちて行く。

テトは膝から崩れ落ちた。

ググが思わず駆け寄ると、テトはググを見上げて言う。

「あの子を……追ってくれる? 僕はし休めば大丈夫だから、とにかくあの子を」

狀況を把握するのが難しかったものの、ググはとっさにこくこくと頷く。

キリがどこへ向かったのかは、當然わからない。

まず、自分がなんでこんなことに巻き込まれているのかもわからないし、そういえば今日は変わった人によく會っている。まず、自分の小板にいたずらをしたあの男。それに、おかしな。それから、見覚えのあるこの青年。

しているも、ググの頭はわりと冴えてはいた。

そうだ、とググは思い出す。今日テレビで見たあの人。今日だけというわけではなく、たまに店でテレビを見たり、電車に乗った際の広告、買いに行った際の広告で見たことがある。

あの蕓能人。アイドルだ。グループ名は忘れたが、メンバーの一人だ。

名前は、テトに違いない。同じ大學に通う子生徒がたまに口にしているのを耳にする。

テレビを見上げると、ちょうどまたその彼が映っていた。今度はバラエティ番組ではなく、音楽番組だった。

そしてその彼が今自分の目の前にいて、あの奇妙なキリという人を追ってきたのだ。

「早く」

テトに言われ、ググははっとし、それから急いで店を出た。

とにかく、店を右にでて、まっすぐ走る。

他に何かを考える余裕などなかった。

キリは、案外近くにいた。店から歩いて十分、走ればすぐの公園にいた。

夜なのにそんなところにいればすぐにわかる。

店のドアを解錠し終えたときのテトのように、全力で走ったググの息は荒いものになった。

誰もいない公園のり臺の下に、キリは座り込んでうつむいていた。

ググがキリのほうへ駆け寄る音をきいて、キリはしんどそうに顔を上げる。

「かえりたくない」

消えるようなか細い聲で、キリがググに聲をかけた。

ググはしゃがみ、キリを見つめる。

「帰りたくないって、どうして?」自分でもびっくりするほど、優しくて靜かな聲がでた。

「かえっても、ずっと部屋だもん、キリ。とじこめられるんだよ、キリ」

「閉じ込められてたの? だれに?」

「みんな」キリがまたうつむいて、「キリね、外にでたかった。テトがいたら、もっとよかった」

キリの聲が震え、鼻をすすったので、彼が泣いていることがわかり、ググは揺する。

ググが黙ってキリの肩にれると、キリは続けた。

「もどるの、ちがうよ。こわいよ。さみしいよ」

キリがそう言ったときだった。

さっきまでそんな気配は無かったのに、土砂降りの雨がはじまる。

り臺の下と言えど、雨と風が激しく勢いが強いせいで、一瞬にしてキリとググはびしょ濡れに寢る。突然の豪雨に、公園の目の前を聲をあげて走りながら橫切る地元の住民らしき人々がいた。

ググが驚いて空を見上げたとき、橫でびしゃりと音がしたのでキリを見ると、キリが橫に倒れている。

ググが反的にすぐにキリを抱きかかえて上を起こし上げ顔を見ると、キリの口はし開き、表は虛ろなものになっていた。

「しっかり」

「……キリ、もうけない……」小さな口からか弱い聲と言葉がれる。「つかれたのかも……」

涙で潤んだキリの目を見て、ググはキリを背負う。

力が抜けきっている狀態のものの、キリのは軽かった。

雨に打たれながら、ググはキリを背負ったまま歩き、公園に出る。

店に戻るのではない。向かうのは、自分の住むアパートの一室だった。

キリは「帰りたくない」と言ったし、「閉じ込められる」とも言った。詳しくはわからないが、そんな想が出るならば、キリがいたところはそんなにいいところではないはずだ、とググは思う。ならば、このままあのテトという青年に彼を引き渡すのは、違う気がしたのだ。

その時にはもう警察に保護してもらうなどなく。

ググの頭の中は、なぜか自分がどうにかしなければ、という考えが無意識にあった。

キリがなにもいわないので右肩にあるキリの顔を覗き込んでみると、キリは目を瞑っている。寢たのか、意識を失っているのか。雨が土を打ち付けるうるさい音に包まれる中耳をすますと、かすかにキリが呼吸している音が聞こえたので、ひとまずは安堵する。

ちょうど公園から徒歩二分くらいのところに、ググの暮らすアパートがある。

階段を登り、2階の自分の部屋の前にたどりつく。

キリを背負いながらのドアの解錠はわざわざ鍵を使わないといけないせいで一苦労だった。ここが石頭として生きる上での不便な點のひとつである。両手がふさがっているときは、結構不自由だ。

キリを落としそうになったもののなんとかドアを開け、玄関で靴をぎ、部屋の照明をつける。寢室のドアを開け、キリをそっとベッドに寢かせた。

ググと同じく雨でびしょ濡れになったキリがゆっくりとだるそうに目を開ける。

「どこ……?」

「ぼくの家。あのひとに説明してくるから、ぼくが戻ってくるまでここで寢てて」

「いかないで」

ググがすぐに部屋を出ようとしたところ、キリがそっとググの手を握る。

「……だいじょうぶだよ、戻ってくるから」

ググが聲をかけると、キリは手を下ろし、再び瞼を下ろした。

アパートを出たころには雨は小雨になっていて、店に再び到著するころにはさっきまでの豪雨が噓だったかのように止んでいた。

走って店に戻ると、テトはテーブルに突っ伏していた。

鍵のかかっていないドアをググがあけると、テトはすぐに顔をあげググのほうを見たが、ググがキリを連れてきていないことに気づくと、彼は落膽したのか呆れたのかで、顔をしかめる。

「キリは……」

それでもテトがきくが、ググは返す。

「ごめんなさい」それから口からでたのは、噓だ。「見つかりませんでした」

「くそ……」テトの手が拳になり、力が込められる。「時間がないのに……」

二人の間で數秒、沈黙が流れたが、テトが溜息をついて、それからつらそうな表を消して自分の近くに立っているググを見上げる。

「あの子のことでなにかあったら、連絡して」

テトが手招きをする。

ググがさらに近寄ると、ばされたテトの人差し指と親指がググの左耳をそっとつまんだ。

報の換は、相手のどこかにれ、相手が承認すれば、可能になる。

一般的には指先と指先でれ合うため、耳たぶにれられたググが思わず目を丸くしてテトを見ると、

「ああ、これ。僕たちの間ではやってるんだ……癖でやっちゃった。きみに気があるわけではないからね」

拡張視界により、ググの前に「承認」「非承認」の文字が浮かび上がる。

ググが承認を選択すると、テトの生報が表示された。

ホンダ・テトラ/新生1995年生/新大邱テグ出生/AB型/識別番號・・・

「言っとくけど、僕の報、売るなよ。あと特に苗字とか」

「や、やらないですよ、できないですし」

「できたらやってた?」にやついて、テトがググを見る。

「別に……そんな」

「みんながしがってるんだ。僕の連絡先をね」

それはさておき、とテトが立ち上がる。

「じゃ、ありがと」

店を出ようとするも、テトはまだしふらついている様子だった。

「だいじょうぶですか?」

「うん、まだ気持ち悪いし、合も悪いけど……歩けはするから。このままキリを探す」

その言葉をきいて、罪悪が生まれるも、ググはそれでも現狀をテトに言うのをやめた。

あれでよかったのか。

でも、もう戻れない。

「ありがとね、ググ」

名前をそえて禮を述べ、テトの目は細まって、ググに微笑みかける。

そして思い出したかのようにテトは振り返り、

「意外とピアスいっぱい空いてるんだね」

そう言って、彼は店を出て行った。

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