７

川村マリヤは沈黙に包まれた厠に降り立った。

聞き耳を立てるが、他に気配はない。

慎重に個室から出て、窓の外を確認してみる。

閉まる個室の戸の音を聞きながら眺めた最古の木造建造群は、郭を黒く染めて幽玄と鎮まっていた。

個室を振り返れば、使い方すらよく分からないトイレに蠅が集っている。

そんな文明の差を前にして、ようやく実が湧いて來た。

『ホントに來たんだ……私、過去にいるんだ……』

碌な照明のないご時世なので、度は期待していなかったのだが、見回した厠の中は中々どうして、それなりにを視認出來た。

黃昏時の名の通り、人がいる事が分かっても、その表までは読み取れない程度の明るさだ。

しかしながら、刻一刻と暗さが増すのは自明の理。

今のに殘る二つ個室をチェックする。

『よし、誰もいない。ホント、中々に好條件ね』

そう満足した時だった。

外から、カロンコロンと下駄の音が近付いて來る。

慌てて元いた個室に踵を返した。

先程まで近未來に溢れていた室は、時代相応のトイレへと様変わりしていた。

プンと立ち込める悪臭に眉を顰めながらも、息を殺して様子を探る。

今彼は、時代のドレスコードを守って袴こそ履いているものの、短い金髪を隠す黒髪のウィグを被っていない。

もしこの時代の人間と鉢合せをしてしまったら、確実に違和を與えてしまう。

々と不都合が生じるのは火を見るより明らかだ。

冷や汗の浮いた背中を淺い息で鎮めていると、案の定何者かが這って來た。

響く下駄の音から、音源の歩幅の小ささが伺える。

沈著冷靜な自を取り戻す為に、ルーチンワークとしてマリヤは目を閉じ、音源を探った。

『十代になるかならないかってとこかな？』

職業柄、マリヤは老若男の平均値を把握している。

故にこの推測には確信があり、果たして、彼の予測は正鵠を告げていた。

「お父上。そこにいらして下さいませ。お心変わりは嫌でご座いますよ？」

出口に向けたい聲は、戸いと恐怖に震えている。

意志が薄弱して行く様がけて見える様な聲音に、若い男の聲が応えた。

「ああ、お前が出て來るまでここにいるよ。だから早く行っておいで」

「絶対に、でご座いますよ」

念を押すの聲が、グッと低くなった明度の中に溶けて行く。

覚束ない下駄の音を響かせて、コンコン、と薄い度のノックで個室に問い掛ける。

痛々しい程怯えながらも禮儀作法を弁えた行に、良家の匂いをじた。

「もし、どなたかっていらっしゃいますか？」

當然、この問いに対する答えはなく、彼は半ベソを掻きながら用をたし、月明かりの下に待つ父親と合流する。

筈だった。

ゴンゴン！

『!?』

ノックが、返った？

そんな筈はない！と危うくマリヤはびそうになった。

この厠には、彼以外誰もいなかった筈だ。

それなのに、ノックは返された。

『どういう事？』

自の想定と余りにも違い過ぎる現実に、騒ぎがする。

「た、大変失禮致しました。どうかご無禮をお許し下さい」

扉の向こうでは、マリヤとは別の意味でが畏している。

足音は隣の個室に移し、先程と同工程が繰り返される。

「もし、どなたかっていらっしゃいますか？」

コツコツ！

尋ねる為のノックと、返禮のノックの音。

『どういう事？』

確認した。

確認したのだ。

確かに見て回り、そして確証した。

ここが無人であると。

では、と信したのは一何だ？

自然とが震えて來る。

『何で？何でノックが返ったの？私が見た時、ホントは誰かがいたの？でもいなかったじゃない？どうなってるのよ？』

「もし」

「……!!」突然浴びせられた聲に、マリヤは我に返る。

『まずい！早くウィグを!!』

無意識に摑んでいた縄から手を放すと、顔を顰めたくなる臭いがした。

しかし、今はそんな些事に構っている場合ではない。

「ホ、ホントごめんねお嬢さん。私今這ったばかりで……怖いかもしれないけど、し待っていて貰えるかしら？」

適當な言葉を並べつつ、震える手で數滴の薬品を頭皮に垂らした。

すぐに、首元の通信デバイスであるNITが反応した。

骨伝導に乗ったい男児の聲が、的確な指示をくれる。

［頭皮細胞群の分化全能を回復。並びに分化指向の変更を確認。これより、急速分化を開始します。頭部を大きく振って下さい。］

指示通りにすると、髪が一瞬で濡れ烏の羽に生え変わり、地の金髪を覆い盡くした。

怪盜ルパンも形無しの変裝にさほど反応も見せずに、マリヤはび続ける黒髪を急いで纏める。

『こんな薄気味悪い場所、ホント、すぐに出てやる』

出來る限り沈著たろうとするマリヤの耳朶を、しかし次の瞬間、ゾッとする聲が打った。

「父上、おりました」

それは、聞き紛う事なきの聲。

だが、違う。

何かが違う。

決定的に、潛在的に、さっきまでとは百八十度。

違う。

つい今まで、は怯えた聲をしていた。

い時分に誰もが抱く、暗闇への恐怖に彩られていた。

それが何だ？

何だ？

この嗜的な聲は。

「父上の仰る通りでした」

ケラケラとけたたましい聲では嗤う。

そこに、異常なサディスティックさを滲ませて。

「し多めに戸を叩いただけで、あっさりと馬腳を現しましたよこの。全く愚かでご座いますね。私自が二度叩く事を何故考慮しないのでしょう。理解に苦しみます」

「そうだな。だがいいじゃないか、これで晴れて材料は揃ったのだ」

「左様でご座いますね。それでは、如何致しましょうか？」

言葉の意味が呑み込めず、マリヤの思考はホワイトアウトした。

『何の話をしているの？……材料？二度叩いた？どうして？』

無數に浮かぶ疑問符が、狀況判斷にエラーばかりを並べた。

それでも危機は募り、思考は藁をも摑む勢いで手掛かりを求める。

冷靜の保持に焦燥し、焦燥が堆積して憔悴に導いて行く。

『何だか分からないけど、絶対ヤバい…』

だが、そんな苦渋もここまで。

運命は、の狂聲にあっさりと告げられる。

「やはり人も新鮮な方が味なのですか？」

『え？……何？…………人…………？』

その瞬間、マリヤの思考が何かを摑んだ。

聞くだに忌むべきその単語が、気掛かりだった言葉をゆっくりと結び、最悪の像を現す。

グニャリと景が歪み、手足の覚が遠退いた。

カラカラに乾いた口の中が、ザリっと不快な音を立てる。

バイタルアプリが異常を検知し、オートで起。

視界に赤い明滅を加える。

気が付くと、親子の聲は扉の前から響いていた。

「當然だ。出來るだけ傷を付けずに捕えろ」

「かしこ參りました。……ふふ、申し訳ございません。私、初めての支度故、どれ程怯えるものかと心が躍って仕方がありませんでしたが……ふふふ、これは予想以上です」

「ああ、面白かろう。何せ源平の頃より我が一族に伝えらし伝の鍋だ。今日はお前の婿殿が元服を迎えた記念の日。いずれはこうした材料調達から一人でさねばならんからな、しっかりとやり方を覚えておくのだぞ」

『鍋にする？』

「はい父上。ご指導ご鞭撻の程をお願い致します」

『何を？』

個室の扉に、何かが打ち付けられる。

その音が、マリヤの思い描く最悪の予想を確信に変えた。

『ああ……私を……か』

二度三度と打ち付けられる打撃に、蝶番が嫌な音を立てる。

無駄と理解しながら、マリヤは扉から離れた。

心拍が、呼吸が、汗腺が、生命の危機をんでいる。

最早聲は出ない。

呼吸すら、上手く出來ない。

拍は収まりを見せず、自分でも分かる位に手足が冷えていた。

バイタルアプリの警告燈がの様に真っ赤に広がって行く。

染め視界に浮かぶリストに、過剰ストレスが加わっても、どうしていいか分からない。

それでも、扉の向こうから男が問い掛けて來る。

「ああそうだ。お嬢さん、一応君の希を聞いておこう。お前さんは“黒と白、どちらがいい？”」

「……っ『イヤ』」

蝶番がガチャガチャと鳴き続ける。

その音が、呪詛の様にマリヤの神経を蝕んだ。

『イヤよ』

耳を塞ぎ、目を閉じて、マリヤはへたり込む。

最早彼の逃げ場は自分の中にしかなかった。

それでも、狂気は途切れない。

「開けなさい、お嬢さん。もう帳も降りたのだから手間を取らせないでくれ」

「早く開けて下さい。逃げ場なんてないのですから」

「早く開けなさい」

「開けて下さい」

「開けろ」

「開けろ」

「開ケロ」

「開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ『死にたくない』開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ『死にたくないよ』開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ「イヤ！」開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ「やめてよ！」開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ「もうやめて！」開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ「やめっててば！お願いだから」開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ「お願い……だから……」開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ開ケロ

「……………………え？」

気が付くと、全てが収まっていた。

扉を叩く音も、それを急かす聲も、全くない。

すっかり暗くなった厠には、蟲の聲さえ鳴り出した。

狀況が分からない。

頭の中がボンヤリとしている。

『いなくなったの？』

恐る恐る目を開くと、天鵞絨の様な濃い闇があった。

それだけで、また頭が真っ白になる。

拘束されたのか？と一瞬考えたが、手も足も問題なくく。

そうしてれた土壁のザラリとしたが、僅かな安心を與えてくれる。

しかし、けなかった。

こうとさえ思えなかった。

いたら、すべてが終わるとじた。

奴等がここを離れたかなんて、分からない。

それがハッキリするまで、マリヤはく気にはならなかった。

『ここにいればまだ安全……よね』

ホッとをで下ろした。

その時。

バンッ!!!!!!

木戸を突き抜けて現れた白い腕。

それは、まるでをじさせない白いに赤黒い蔦の様なが絡み付いていた。

悲鳴も嗚咽も悲嘆も瞠目も許さず。

それは真っ直ぐに彼の首筋を摑み、そして。

「そんじゃ、“白で詰み”な」

諸行無常の言葉のままに、マリヤの意識を刈り取った。