「ふむ……。どうやら、ここには先客がいたようですね」

夜の小學校。

その校舎の中を、ゆっくりと歩く人影があった。

純白の法が、月明かりに照らされている。

その顔は病人のように悪く、その雙眸そうぼうは、どこかここではない場所を見つめているように、虛ろで覇気がない。

そして彼の後ろには、黒いフードを被った人間たちが続いている。

全を黒い布で覆っている彼らは、ずるずると何かを引き摺ずるような音を立てながら、一言も聲を発することなく、法の男の後ろを歩いているのだった。

「ぁあ……これはこれは、なるほど。ぁあ、実に興味深い。これを突破するのは容易なことではなかったでしょうに。いやぁ、が躍りますねぇ」

無殘に破壊されたバリケードをしげしげと眺めながら、彼――法の男は、そんな言葉をらした。

バリケードの殘骸を見た限り、ちゃんとした知識のある人間が作り上げたものであることは疑いようがない。

それでもなお、このバリケードが破られたということは、

「それを凌駕りょうがする、より強い力を持った人間が、この近くにいるということ。そして、わたしのすべきことがまだ殘っているという証左に他ならない。ぁあ、謝します。我らが神よ」

バリケードの殘骸を踏み越えて、法の男は廊下の奧へとその足を進める。

やがて、一番奧の廊下へとたどり著いた。

低いうなり聲を上げて徘徊はいかいするゾンビたちを目に、法の男は教室のドアを開ける。

不快なにおいが法の男の鼻をかすめたが、その程度では、彼の行を止めることなどできない。

法の男は、教室の中をぐるりと見渡す。

図工室という特殊な教室でこそあるものの、中は他の教室と大して変わらないように見える。

のゾンビが一匹徘徊しているが、それだけだ。

「……ぁあ。ぁああああ。ぁあああああ……っ……」

だが法の男は、教室のある一點を見つめると、床に膝をついて、聲を上げて泣き始めた。

彼の聲につられるように、法の男の後ろに立っている黒い人影たちも、法の男が頭を下げている方向に向かって頭を下げている。

まるで、目の前にあるモノに対して、最上の敬意を払っているかのように。

それは、あまりにも異様な景だった。

「――ぁあ、よかった。本當に、よかった。わたしは運がいい。本當に運がいい。わたしたちの神が、わたしに味方してくださっているのをじますねぇ」

法の男の目の前には、頭がに塗まみれた男の死がある。

頭蓋骨が陥沒骨折しており、顔面もひどい狀態だ。

金屬の棒のようなもので、何度も何度も何度も毆りつけなければできないような傷を負っている。

……それは、安藤の死だ。

毆られすぎているため、顔面の識別は困難を極めるだろうが、法の男にとって、そんなものは些細ささいな問題だった。

なぜなら、法の男にとってそれはただのの塊であり、彼が敬意を示したのは、そんな大ゴミに対してなどではないからだ。

その死の、の真ん中あたり。

そこから、僅かにがれ出している。

法の男にとっては、それ以上に重要なものなど、この場に存在しない。

「そのゾンビがあなたの死に目も向けていないのが、あなたが『資格』を持っていることの何よりの証！　し手間取りましたが……ようやく見つけることができましたよ。――わたしたちの真なる希……！　わたしたちの、セフィラ……！！」

法の男はに打ち震えるように、がたがたとそのを震わせる。

しばらくしてそれが収まると、彼はゆっくりとを起こし、その死の元へと歩み寄った。

「……おや？　もしかしてあなた、この前わたしたちから逃げた、坊やではありませんかね？」

安藤の死の頭を摑み、その潰れた顔面をしげしげと眺めながら、法の男はそんな言葉をらす。

その一致に気付いた男は、優しげな笑みを浮かべる。

「あれだけ必死の形相で我々から逃げておきながら、こんなところで一人ぼっちで死んでいるなんて……あなた、本當に面白い人ですね」

法の男は安藤の頭から手を離すと、その死を足蹴りにした。

まるで、その死に対して禮儀を払うことすらおこがましいとでも言うかのような、そんな不遜な態度だ。

「セフィラは、貴方のような低能な猿が持つにはあまりにもったいない。このわたしが、有効に活用してさしあげましょう」

そう言って、法の男は安藤の死の部に自らの腕を突き刺した。

何かをまさぐるようなしぐさをしたかと思うと、すぐにその手は引き抜かれた。

法の男の手の中には、ビー玉ほどの大きさの明な玉が握られている。

安藤のに濡れた手の中で、それ自が淡いオレンジのを放っていた。

「橙だいだい――『栄ホド』のセフィラですね」

法の男はそれを確認すると、その玉を自の懐へとれた。

そして、安藤の死のほうへと向き直り、

「本當であれば、あなたにも救いが訪れるはずだったのですが、頭がその狀態では致し方ありませんね。……お前たち、彼を殘さずに食べて差し上げなさい」

法の男がそう言うや否や、彼の後ろで靜寂を保っていたローブを纏った人間たちが、安藤の死へと群がっていく。

そのローブの隙間から、おぞましいほどの數の手を出して、安藤の頭を、肩を、腕を、を、腹部を、下腹部を、ふとももを、ふくらはぎを切り開き、その中をまさぐっていく。

彼らは決して人間ではなかった。

なにか、他の別の、理解が及ばないものだった。

「……さて、と。これからどうしたものでしょうかねぇ」

法の男は、安藤の死が彼らに食い荒らされていく様子を満足そうに眺めながら、今後の行について考えを巡らせる。

「駒こまの數も十分ですし、また『資格』を持つ人間を探しましょうか。この辺りにもう一人ぐらいはいそうですからね」

『資格』持ちの年が殺されていた以上、この近くにもう一人『資格』持ちの人間がいることは確定的だ。

『資格』があるのと無いのとでは、この世界における生きにくさが恐ろしいほどに違う。

『資格』持ちは、『資格』持ちにしか殺せないと言っても過言ではない。

法の男は、そう考えていた。

「しかし、死からセフィラが奪われていなかったところを見ると、彼を殺した人間は、何も知らないのでしょうね」

彼を殺した襲撃者がセフィラの存在を知っていたならば、彼からセフィラを奪わない理由がない。

セフィラの効果は、ゾンビから襲われなくなるだけではない。

ゾンビウイルスの発癥の抑制や人機能の適応化など、その効能は多岐にわたる。

いずれも、この世界で生きていくために役に立ちこそすれ、邪魔になることはない。

耳障りな咀嚼音そしゃくおんを聞き流しながら、法の男は思考の中へと沈んでいく。

「この辺りで複數人の人間たちが篭城できそうな場所……そんな場所はまだまだいくらでもありますね。非効率的ではありますが、他に人間たちが篭城していそうなところを、片っ端から回っていくことにしましょうか」

その言葉を聞いて、化けの一匹が法の男のほうを向いた。

「ん？　どうしたのです？」

法の男は化けに近づき、その口に耳を當てるような勢をとる。

しばらくすると、法の男は頷き、

「……なるほど。たしかに、神の救いをけれようとしない愚かな人間たちがたくさんいそうですね」

法の男は、化けたちの意見に同意するようなそぶりを見せる。

まるで化けたちの言葉を、理解しているとでも言わんばかりの態度。

「さて、それでは行きましょう。ここでの用事は終わりましたからね」

法の男がそう言うと、化けたちは安藤の死から離れた。

彼の死があった場所には、量の痕と片が殘っているだけだ。

彼らが殘さずに人を食べたことを好ましく思いながら、法の男は窓のほうを向いた。

「どうかわたしたちを見守っていてください、神よ――」

窓の外には、満天の星空が広がっている。

地上にはほとんどがないため、世界が終わる前よりも星たちがはっきりと視認できる。

法の男は、窓から星空を見上げて、その腰を深く曲げた。

背後にいる化けたちも、それに倣って異様な勢をとる。

「――この『知恵コクマー』の名にかけて、喜んでこの世界を救うための礎いしずえとなりましょう」

そう言って、法の男――『知恵コクマー』は、化けたちに微笑みかけた。