《ブアメードの23

池田敬は落ち込んでいた。

せっかく、辿り著いた小さな手がかりは、外れだった。

塚本科は町の診療所といった小さな個人病院で、院長の塚本は診療を終えて、待っていてくれた。

年齢は、六十は過ぎているだろう、白髪じりの薄い頭の代わりのように髭を多く蓄え、腹は出ている。

簡単に事を説明し、持って來たパソコンで畫を見せるまでは素直に応じてくれたものの、

「こんな、暗い映像じゃ顔もよう見えんし、しかもこんなダミ聲の醫なんて知らん」

と言って、老眼鏡を外した。

本當に全く見當がつかない様子だ。

「そう言わないでもう一度、見てみてください。

だみ聲って先生の聲に似てますし…

それにほら、この人、先生のことを知ったじで言ってますよね、その…ヤブ醫者でろくな…」

「失敬な!」

池田の失言もあり、塚本はそう言って、あとは考えようともしなかった。

「所長、ミスが多すぎです」

中津の言葉に、もはや池田は反応しない。

「なんでも結構です。他にお気付きの點はございませんか?」

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中津が取り繕うように言った。

「ああ、映畫が始まる前に出てた最初のナースの恰好をしていた司會者、マスクでよく見えんかったが、そのきゃんきゃん聲をどこかで聞いたことがあるくらいか」

「ああ、同じ帝薬大の同級生なんで、ここに來たことがあるかもしれません」

と、靜が説明する。

「ああ、なるほどな。

一度だけだが、確か風邪か何かできたことがあるのかもしれん。

こんな子供のような聲は、気がないなと思った記憶がある。

まあ、それぐらいだよ、もうこれ以上はわからんー。

勘弁してくれ」

勝元は突き放すように言った。

「あの、この映像しか、手がかりがないんです。

兄はまだ、どこかに捕まっているのかもしれないんで、どうか、お気を悪くされずに…

誰か、候補でもなんでも、思い當たりませんか?」

靜は諦めきれずに、食い下がる。

「わからんと言っているだろうが…ああ、それより、君が佐藤さんかね」

「はい…?」

「佐藤って、お父さんが有名な、あの帝都大の佐藤教授だろ」

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「ええ、まあ…父をご存知でしたか」

「彼の娘さんの頼みじゃなけりゃ、こんな依頼はけなかったよ。

いつだったか、一志君と世間話をしているうちに、お父さんがあの佐藤勝教授ってのを知ってね。

彼はお父さんとあまり上手くいってないようだったが、お父さんの著書を褒めたら、まんざらでもなさそうだったな。

私はね、神の一隅!

あのフレーズが好きでね、とても引き込まれたよ」

勝元は急に機嫌を直す。

「そうだ、この映像の醫者は、伝子のことをあれこれ言っているし、科學者でもある、って言っているじゃないか。

お父さんに訊いてみたらどうだい」

<いや、それ先に言うか?俺の次善の策だったのに…>

池田が心の中で悔しがった。

「あ、そうですね…

でも、父が知っていますかね?」

靜は気乗りしない面持ちで言った。

<それみろ、靜ちゃんはお父さんと上手くいっていないんだよ>

「どっちにしろ、私は知らんし、駄目で元々だろう。

それに、伝子工學は君のお父さんの専門分野だ。

本當に、これが拐ビデオだとでも言うなら、このはそれなりの知識と施設も持っていて聲も変わっている、ときたもんだ。

嚢中の錐と言うし、そんな目立つなんて、その世界にそうはおらんだろう」

「わかりました。聞いてみます…」

靜は気乗りしない様子で言った。

その傍らで池田が

「のうちゅうのきりってなんだ?」

と聞くのを中津が表をきつくし、無言で諌めた。

「では、今日はお忙しいところ、ありがとうございました」

「お兄さんが見つかったら、ぜひまた來てくれ。

あと、お父さんの本にサインをもらえるとありがたい」

帰り際の玄関で、塚本は半ば強引に靜の手を取って握手する。

<俺でさえ、まだ握ったことないのに、くそ。

それに、佐藤教授に訊いてみる、というのは俺も考えていたアイデアだ>

池田は苦々しく思った。

「お父さんは、もう自宅にいらっしゃるんですか」

靜を家に送ることにした車の中で、運転中の中津が訊いた。

「もう七時を過ぎてますし、帰っていると思います」

「あの、ところで『神のいちぐう』ってなんなんです?」

今度は助手席の池田が訊く。

「ああ、それは、父が書いた『インフレーション進化論』っていう論文の解説本があって、そのキャッチコピーみたいなものです。

出版社が作った言葉なんですよ。

父の論文は、伝子の進化についてで、簡単に言いますと、古生代っていう時代に生命の細胞が有糸分裂から減數分裂へ発展していく過程において、ある特別な狀態があった、というものです。

父はそれを『伝子の進化過程における特異點』と呼んでいました。

そのままですけどね。

その點というのは、伝子配列が異常に不安定な狀態で、言い変えれば、とても変異しやすい狀態というか…」

「カンブリア発って奴ですか」

中津がそう言ったのを聞いて、既に半分、話についていけていない池田は焦った。

「ええ、よくご存知ですね。

生命の樹がそこから大きく、また、たくさんの枝を分けていった、というものです。

父もカンブリア発直前がその特異點であった、と論じました。

そして、その不安定な狀態の伝子を古い地層の中に生き殘っていた原始のウィルスの中に見付けて、學會の注目を浴びたんです。

父はそのウィルスをパームウィルスと名付けました。

出版社がその論文に目を付けてくれて、父にロングインタービューって形で、わかりやすく解説したものを出版して…」

「勝元先生のお目にとまった、という訳ですね」

「ええ、そうみたいですね。

父のこととはいえ、なんだか照れくさいですけど…」

靜はし苦笑いして、話を進める。

「それで父は、その本の最後に、その特異點というのは後にも先にもその時だけ、伝子の飛躍的な進化にとってはまさに神が與え賜うた千載一隅の好機であった、と結びました。

ご存知かどうか、特異點から始まった宇宙は“神の一撃”から、と呼ばれることがあって、それなら生命進化の特異點の始まりは『神の一隅』、とめて呼ぼう、って。

ちょっと強引ですよね」

「いちぐうって、千載一隅のいちぐうですか、なるほど。

あのところで…」

池田は頭をかきながら、またわかった風を決め込んだところで、話題を変える。

「えっと、お家に帰られてからのことを…」

「立派な家ですねえ」

靜の家に到著した池田は、目を見張る。

カイヅカイブキの垣が続き、その切れ目にある門から見える建は、石造りの瀟灑な洋館だ。

「あの、ひいお爺ちゃんの代からあって、最近、それらしくリノベして使ってます。大きいだけです。

それじゃあ、送っていただいて、ありがとうございました。

父から話が訊けたら、すぐ報告します」

靜は照れくさそうに、大きな門の前に停まった車を降りた。

「ほんとに我々が付いていなくていいですか」

「はい。家族だけの方が父も話しやすいと思います。

それにあの…探偵さんに依頼してることもまだ言ってないんで…

こういう言い方は失禮ですが、いらっしゃると返って面倒なことになるかも…」

「ああ、そうですね、ではこれで」

走り出した車の中で、池田は玄関に向かう靜をできる限り、目で追っていた。

「お名殘惜しそうですね」

中津が冷めた口調で言った。

「中津、いい加減にしろよ、お前。

今日という今日は…」

「本當のことを言ったまでです。

探偵が事実を言って、許されないも何もないと思います。

気にらないなら、運転変わってください。

私はもう休みたいんで」

池田と中津の言い爭いは事務所に帰るまで続いた。

「お父さん、ちょっと話があるんだけど…」

靜は風呂上りの勝に聲をかけた。

「遅く帰っておいてなんだ?急に」

そう言いながら、勝はキッチンの冷蔵庫から、ビールを取り出した。

洗いたての頭はし薄くなっているものの、黒々としており、広めの額の下には、遠視用の黒縁の眼鏡をかけ、その奧の知を攜えた眼をより大きく見せている。

「ちょっと見てほしいものがあって」

靜は、キッチンの大きなテーブルに著いた勝の側に行き、スマートフォンを渡す。

スマートフォンにはパソコンの畫面を直接撮影した様子が映っている。

正確には、見せる、と言うより、聴かせる、といった方がいいかもしれない。

要は、聲だけ聴かせればいい。

そう結論に達した池田が、急遽、車の中でノートパソコンを再生。

醫者が長く話している部分を、靜のスマートフォンで撮影しておいたのだ。

余計な説明を省き、その正を聞き出す。

し音は悪くなるが、この特徴のある聲なら、知っている人であれば、すぐわかるだろう。

靜が伺った勝の顔は、想像を超えた変化を起こし、明らかに揺の表を浮かべ始めた。

「何?どうしたの?」

靜が怪訝そうに尋ねた。

「こ、この畫、一どうしたんだ?」

「この聲の人、知ってるのね」

靜はめきたった。

「しっ…いや、知らん!

いや…こんなは…」

勝は、取りし、滅多に出さない大きな聲で否定し、スマートフォンをテーブルに投げるように置いた。

「どうしたの?」

靜の夕食を出す支度をしていた累が、そのただならぬ様子に気付いた。

黙っている二人と対照的に、テーブルに置かれたスマートフォンの音が際立って聞こえている。

「何これ?」

累がスマートフォンを取り上げた。

勝は一瞬、スマートフォンを取られまいとしたが、すぐに手を止め、背中を椅子に投げ出して、観念した様子を見せた。

「これは…零さん!?」

累は驚いて、スマートフォンと勝を互に見た。

勝は黙ったままだ。

「お母さん…その人、知ってるの?」

最近は母親と余り口をきいていなかった靜は、久しぶりに母親に顔を向けた。

「ええ…知って…え、ちょっと、待って、これって、一志じゃない!?」

「扱いやすいってなんだよ」

そう一瞬聞こえたその聲で、累はすぐにそれが一志とわかった。

「そう、そこに映っているのは、お兄ちゃん。

お父さん、お母さん、知っているなら、教えて。

今すぐに」

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