瀬里奈は焦っていた。

ここは、警視庁屋上のヘリポート。

十八階建て、発癥者が溢れる地上から、百二十三メートル上に広がる、一般人はほとんど見ることのできない視界。

谷津田らが乗ったヘリコプターと同様の、十人乗りのスズ４１２が待機している。

◇

特別捜査本部の設置してある大會議室に乗り込んだ瀬は片本警視を捕まえて、事件の鍵を握る、ウィルス発見者である勝の必要を説いた。

何かと前例踏襲、事なかれ主義で済まそうとする他のキャリアと違い、理解力があって話の通じる相手は、片本を置いて他にいなかったのだ。

それと合せ、國立染研究所から、ほぼ同時刻に同様の依頼をけた本部は、勝を最重要參考人と位置付け、やっと重い腰を上げてヘリコプターでの搬送を決定。

しかし、人員が足りないことから、ヘリコプターで勝を迎えに行く要員に、言い出した瀬も選ばれた。

◇

＜よりによって、ヘリなんて…私、高所恐怖癥なのに…＞

ヘリコプターに搭乗するのは、瀬の他に、志田と落谷という、坂辻発癥の現場に立ち會った際にいた、捜査一課の刑事二人だ。

「また、お會いするとは何かの縁ですかね。

さあ、佐藤教授のところまで一飛び、一緒にお向かいに參りましょうか」

ローター音に負けない大きな聲を出したのは落谷だった。

優男の雰囲気に違わず、気障な臺詞回しをする。

「よ、よろしくお願いします」

瀬にとって、普段なら苦手を通り越して嫌悪するタイプだが、ヘリコプターでの移、という難題を抱えている今、それどころではなかった。

志田が先に黙って乗り込むと、落谷がレディファーストと言わんばかりに、先に乗るよう促した。

「ど、どうも…」

瀬は向かい合った四席二列シートの後ろに乗り込むと、落谷もその隣に続いた。

ヘリコプターは屋上を離れると、ぐんぐん加速して、高度を上げていく。

「きゃ！」

初めてヘリコプターに乗る瀬は思わず、聲を上げた。

「大丈夫ですか。顔が悪いですよ」

落谷が心配しているのかどうか、口元に笑みを浮かべて聲をかけた。

「だい、大丈夫です。

ちょっと高い所が苦手なだけで…」

「高所恐怖癥ですか？

誰にでも苦手なものはありますよ。

そうだ、外を見ずに、僕と今回の事件のことについて話でも…」

「おい落谷、たいがいにしておけ、お前の悪い癖だ」

前のシートに座っていた志田が口を開いた。

「いえ、僕は彼を心配しているだけで、そんなつもりは…」

「自分らの任務は、佐藤勝教授の隨行、瀬捜査は専門的な知識の聞き取りだ。

我々と彼にそれ以上の確認事項はない」

「はい、了解しました」

落谷は悪びれる様子はない。

「あの、その間に二つほど、お伝えしておきたいことがあります」

「なんですか？」

「なんだね」

瀬の言葉に落谷と志田がほぼ同時に応じた。

「まずひとつは…その、発癥者に対してなんですが、ゾンビの、いえ、あの、発癥者の真似をすると襲ってこない…という、未確認ではりますが、そういう報がありました」

「発癥者の真似をすると…」

「襲ってこない？」

今度は志田の言葉に落谷が続けた。

「はは、瀬さんもおもしろいことを言うなあ」

「私も俄かには信じられませんが、現場の八塚刑事からの報です。

噓を言っているとも思えませんので、あくまでそういう報があった、と…」

「わかった。八塚が出鱈目をいう人間には思えん。

実際にやるかどうかは置いておくが、心得ておこう」

「あの、どうして、瀬さんは八塚刑事から直接報を…」

「もうひとつは、例の畫を見てはいけない、と言うことです」

瀬は落谷の言葉を塞ぐように話を進める。

「これも未確認ですが、畫を見ると、発癥してしまう可能が否定できません」

「それも、八塚刑事からの報か？」

「はい」

「畫を見るな…か。

どちらも、映畫にあるような臺詞だが、了解した。

ひとつは、発癥者への対応、ひとつは、発癥しない方法、といったところだな」

「はい、おっしゃる通りです。

本部へはさすが言えませんでしたが、お二人にだけでも話しておこうと思いまして」

「ああ、瀬さん。その気持ちわかりますよ。

他にも遠慮せずに、なんでも言ってください」

そう言って、間隔を詰めてくる落谷に瀬はを固くする。

＜もう！みんなが右側寄ったらバランス悪くなるじゃない…

ああ、早く著かないかな、あと十分ほどかしら…＞

瀬にとって長くじられた十分が経ち、ヘリコプターは多川上空へと到著した。

「佐藤教授は一番手前、多川通りの橋のすぐそばの野球場に潛んでいるとおっしゃっていました…」

瀬は恐怖と戦いながら、下を見た。

「おい、聞こえるか！あの橋の付近だ」

志田が振り向き、前に座る縦士の肩を突いて大聲で話しかける。

ヘリコプターが低空飛行飛行を始めると、下に小さながいくつか點滅する野球場が見えた。

縦士は目標を発見すると、あっと言う間に地上との距離をめる。

＜ううっ＞

瀬が重力の変化に聲を出さないように耐える中、ヘリコプターはセンター付近の平らな場所に著陸した。

そこに、四人の人影が近付いて來ると、やがて、それが二人ずつの男とわかった。

「あの四人で間違いなさそうだな」

「はい、佐藤教授はテレビで一度拝見しておりますし、池田探偵とは一度だけ、會ったことがありますので…」

「へえ、探偵もご存じなんですか。

瀬さんは顔が広いですねえ」

落谷はそう言うと、ドアをスライドさせて開いた。

「よくぞ、ご無事で。さあ、どうぞ」

相変わらず、想良く四人を出迎える。

その奧で、瀬がシートから腰を浮かせ、中腰で頭を下げた。

「お電話しました瀬です。

この度は大変な時に、ありがとうございます」

「この度は無理を言ったようで、恐です」

先頭に立って來た勝が瀬に挨拶した。

「ただし、條件は條件です。

こちらの探偵のお二人と、私の娘もお願いしますよ」

「伺っておりますが、大丈夫です。

さあ、お乗りください」

志田もを乗り出すようにして言った。

後ろの席、ドア側に座る落谷と奧の瀬の間に靜と中津、前の席、やはりドア側に座る志田の奧に勝が、次々に乗り込む。

「まずい、早く出しましょう！」

そう言ったのは、最後に乗った池田だった。

外を見ると、ヘリコプターを見た群衆の一部が、自分も助からんと走ってこちらへ迫っていた。

中には、発癥者もいるようだ。

「急いで出せ！」

志田の聲に、落谷がドアを閉め、縦士は機をすぐに浮かせて飛び立つ。

「きゃっ」

瀬だけ、恐怖心を押さえられずに聲を上げたが、正面に座った池田は、それをわざと見ないかのようにそっぽを向いている。

その後、しばらくは沈黙が続いた。

民間人を助けずに置いて行く。

どうしようもないこととはいえ、そんな後ろめたい気持ちが、皆、多かれなかれあった。

「――ところで、あの、條件がもうひとつあるのですが…」

そう沈黙を破ったのは、勝だった。

「條件…と言いますと？」

志田が怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「警視庁へ同行するのは、私だけにしてもらいたい」

「いや、今さら何をおっしゃる…」

「探偵のお二人と娘は途中…と言いますか、し迂回していただき、降ろしてほしいのです」

「ですから、それはできません。

先ほどの…うん、ああ、野球場へのヘリの著陸も、要人救出、という建前で、なんとか許可が下りたくらいです、これ以上はご勘弁いただきたい」

志田が慎重に言葉を選んで言った。

「おい、中津」

「本當にやるんですか？」

「無理を言ってすまんな」

池田と中津が聞こえるように會話をする。

「やるって何を？」

志田がさらに眉間に皺を寄せる。

「あの、すみません。

改めまして、我々二人は池田探偵事務所の者です。

お二人からご依頼をけまして、こちらの佐藤家のご長男を捜索しているところです」

「はあ、ある程度は聞いておりますが…それで？」

「ご長男の居場所が判明しましたので、教授以外はそちらに伺いたい、ということです」

「ですから、それはできないと申し上げたでは…

ちょっと、待って、今、ご長男の居場所がわかったと？」

志田が目のを変えた。

「はい、恐らく警視庁の方は、まだ摑んでいない報でしょう」

「それは…どこなんです？」

「そこに向っていただけるのでしたら、申し上げます」

「そう來ますか。

それは、本當に確かな報なのですか？」

志田は一瞬、困り顔を見せたが、すぐに凄みを含んだ表に変える。

「確かでしょうね。警察庁の方は既にいているようですから」

「警察庁？外事課ですか？」

「さあ、どちらにしろ、こうしてお話している間にも、その居場所からどんどん離れています。

犯人である、岡嵜零の居場所、からもね」

「ちょっと、小塚さん、ヘリを旋回してホバリング狀態にしていただけますか？」

志田は振り向いて、縦士にそう聲をかけた。

「了解」

小塚と呼ばれた縦士は、ヘリコプターを右に旋回させると、速度を急激に落とした。

「知っていることを話していただけたら、考えなくもありません」

「――わかりました」

態度を変えた志田の言葉に、池田はそう言って、一呼吸ついた。

「岡嵜はマンションにいなかったことは、越智警部の班から聞いていました。

そこで考えてみました。

こんなウィルスをつくるからには研究施設が必要なのでは？

であれば、そういった研究資材を扱う業者が…」

「なるほど、つまり、その筋から報を得たということですか」

「さすが、話が早い。簡単に言えばそうです。

佐藤教授がご存じだった、トレジャーバイオという會社の営業に當たると、すぐにわかりました」

「で、そこはどこなんです？」

瀬が前のめりなって話にってきた。

「――向っていただけますね」

池田の言葉に、瀬が顔を向けた志田は黙って頷いた。