第一夜：０４【堂小夜子】

完全に埋もれたわけではない。

だが【グラスホッパー】の腰から下は、砂に包まれ隠れてしまっていた。

そしておそらくは巻き上げられた埃が目にったのだろう。彼は何事かを喚きながら、しきりにコートの袖で顔をこすっている。

「……っ！」

息を飲む小夜子。

これは好機なのだ。勿論、逃げ出すための。

反撃するという思考に、は至らなかった。

そもそもどう反撃しろというのか。非力な彼が毆り蹴ったとしても、一人の人間のきを止めることなど、不可能である。

とにかく一秒でも早く、一歩でも遠くへ。

そして【グラスホッパー】の目が塞がっているうちに、姿を隠さなければ。

走り出した小夜子の思考は、その一點で占められていたのだ。

「何処かに……何処かに……」

何か建の中へ逃げこもうと駆け回るが……プラント脇の作室や事務所らしき建は、施錠されていて侵することができなかった。

映畫みたいにドアを蹴破る力は小夜子に無いし、そんなことをしたら形跡で、「ここに逃げ込みました」と書き記すようなものだ。

また、音がするという理由で、ガラスを破り侵するのも避けた。

それに割ってみたところで、殘ったガラス片を綺麗に取り除いてる時間など無い。強引にりでも付けば、良い目印にされることだろう。【グラスホッパー】の練習で飛散した破片で割れたとおぼしき窓もあったが、同様の理由で避けている。

冷靜に考えたわけではない。こうすると見つかるという恐怖心と、痛みへの恐れに由來した消極的な選択だ。

結局小夜子が限られた時間で選び隠れた場所は、骨材置き場からは見えない場所に停められていたミキサー車だった。駄目で元々と運転席の扉取手を引いたところ、ドアが開いたからである。

車両擔當者がズボラだったのか、たまたまなのか。事務所や作室は施錠されていたのに、その車はキーを抜かれただけでドアロックされていなかったのだ。不用心だが、実際にはよくある話でもある。何にせよ、小夜子には幸運だった。

急いで中にり込み、ドアを閉め……その音が【グラスホッパー】に聞こえないことを祈りつつ、中から鍵をかける小夜子。

そして運転席と助手席の足をれる部分にを潛りこませると、外から彼の姿が見えないよう、隠れたのであった。

……間もなくして。

轟音が響き、閃が走り、衝撃が車越しに伝わってきた。飛來した土砂や石が窓ガラスを叩く。それが二度、三度。いや、まだまだ続いていく。

どうも砂から抜けだした【グラスホッパー】が標的を見失い、手當たり次第に跳躍と著地を繰り返しているらしい。苛立ちが、ミキサー車の中にいる小夜子にまで伝わってくるようだ。

平靜を保てないのか、虱潰しにやる作戦なのか。

あるいは閃を源に、獲を探しだそうとしているのか。

気にはなるものの、小夜子の位置からは窓越しに星空と月、そして例の三十メートル近い高さのプラント建屋と、そのすぐ脇に立つセメントサイロの上部しか見えない。

かといって車の窓から周囲を見回すのも危険極まりなく……結局彼はただただじっと、息を潛め続けることしかできないのであった。

（靜かにしなきゃ）

思っても抑えられない、自のれた呼吸音と悸が頭骨にまで響く。

流石に吐息や心音まで相手に聞こえるはずもないが、それでも小夜子は己の心臓を止めんとでもするかのようにを強く押さえ、口を塞いでいた。

そうするうちに、相手はローラー作戦を諦めたらしい。

【グラスホッパー】が跳ね回る音は、いつの間にか止んでいる。

（隠れてから、何分たったのかしら）

腕時計は普段からつけていない。先程制服のポケットを漁ってみたが、中にはスマートフォンも何もっていなかった。警察へ助けを求めることも、不可能だ。

（お巡りさん……？　夢の中で？）

はっ、と気付く小夜子。

そもそも自も、これは夢と判斷したのではないか。夢の中でどうやったら、警察が來てくれるというのだ。

そこまでの思考に至ったことで、彼の神はようやく落ち著きを取り戻し始める。

（そう。夢なんだから、別に慌てる必要なんてないのよ）

徐々に落ち著いていく、呼吸と心音。

（何だか相手も靜かにしているし……後は目が覚めるまで、じっとしていよう）

変わらず運転席の足元に橫たわりを隠したまま、ぼんやり窓を見上げる小夜子。

しかし次の瞬間、彼は大きく目を見開くこととなる。

窓から見える視界。あの背の高い建。そう……プラント屋の天辺に、人が立っているではないか。

きから意図はすぐに分かった。【グラスホッパー】が標的を求めて、高所から周囲を見回しているのだ。

（まずい！）

まず、車の向きが悪い。月明かりもここまで差し込んでいる。あのプラントの高さから見れば、ミキサー車の運転席は丸見えだろう。

かといってくのは、最悪の自殺行為だ。先程の追いかけっこをまた繰り返して逃げ延びる自信を、小夜子はまるで持っていなかった。

もう彼には、息を潛め続ける選択肢しか殘っていなかったのである。

どくん、どくんと、心臓の鼓が揺さぶる視界の中。【グラスホッパー】はずっと、プラントの屋上で周囲を見回し続けていた。こちらを見ていたと思えば、反対側。かと思えば、左右をきょろきょろと。苛立つ様子が、遠目にも見て取れる。

落ち著いて観察することができないのか、それとも量が足りず見つけられないだけなのか……どちらにせよまだ、小夜子は発見されずに済んでいた。

（お願い、見つけないで）

【グラスホッパー】が再度反対側を向く。今度はじっくりと見ている様子だ。ぐるりと見回すやり方から、一方向ずつじっくり観察する手法に切り替えたらしい。

その後しばらくして、彼は左に向きを変える。今度はあちらを注視するのだろう。

観察度を上げるため、そしてできるだけ視界を確保するためか。プラントの端へ向かい、歩き始める【グラスホッパー】。

……そして、彼は転んだのだ。

見ていた小夜子が、思わず「あっ」と聲を上げる。

足がもつれたのか、ったのか。あるいは屋に、つまずくような突起でもあったのだろうか。だがミキサー車運転席の小夜子に、それを確認するは無い。だから何が起こったのかは不明だが、とにかく【グラスホッパー】は屋の端近くで転んだのだ。

そしてそのまま、彼がプラント屋より落ちていくのを小夜子は見てしまったのである。手をばたつかせながら、ブレザーのが頭から落下するのを。

運転席の窓から見える姿はすぐに消え、直後。

「ごつっ」

という音が小夜子の耳に屆く。

初めて聞く音だ。

だがあれが何の音かは、多分、理解している。