第二日：０１【堂小夜子】

テレビでは、朝のニュース番組が流れている。

アナウンサーが外問題について読み上げる聲を聞き流しつつ、もそもそと気怠げに咀嚼する。何度も繰り返されてきた、小夜子の朝食景であった。

獻立は牛代わりに豆を使ったコーンフレーク、もしくは前日に買っておいた惣菜パンだ。理由は至極簡単で合理的。「片付けが楽」だからである。

作業的にコーンフレークを食べ終えると、水でボウルとスプーンを洗う。その後水切りバットに食をれた小夜子は、今度は支度を整えに洗面所へ向かった。

堂小夜子には、母親がいない。

いや正確には何処かで生きているのだろうが……連絡はとれないし、とるつもりもない。何故なら縁上のその母は娘が小學二年になって間もないころ、男を作り出て行ってしまったからだ。

あの日學校から帰ると家には誰もおらず、臺所のテーブル上に母親の分が記された離婚屆が置かれていたのをは覚えている。

今にして思えば、夫より娘が先に目にするであろう場所へそんなを置いておく行為自に理の存在を疑うものの……まあ所詮そんなメンタリティのだったのだろう、と小夜子は評価を下すことで終わらせている。

別段、傷は無い。

何故なら當時から既に、彼の神の拠り所は母親でも父親でもなかったためだ。だからこの件に対する想は、「やっぱりってクソね」という程度であった。

がおそらく一般からズレていることは、小夜子自も自覚している。

一方妻が出て行ってからの父は、劣等を振り払うかの如く仕事に沒頭した。そしてそれが功を奏したのか、若くして重要な役職を任されるまでに出世していく。かくして取引先との商談やら社調整やらに追われる彼は日本中を飛び回り、家にはほとんど帰れなくなったのだ。

しかし父親が家を空けるのは仕事のせいだけではなく、自分を避けているからだ……と小夜が気付いたのは、小學校も高學年になってからであった。

最早彼は、逃げた妻に対する意地だけで娘を育てているのかもしれない。

自分を裏切ったの顔に年々似てくるを育てねばならない、という父親の苦痛を察すると、小夜子は時々申し訳ない気分になってくる。

いっそのこと人を作るなり、後妻でも貰って気持ちを切り替えてくれればいいのにと小夜子は思うのだが……そんな簡単に折り合いを付けられるものでもないらしい。そういった気配は、父からは全くじられなかった。

◆

歯を磨いて、シャワーを浴びる。髪を乾かすのは面倒だが、昨夜は夢のせいで気持ちの悪い汗をかいたため、どうしても浴びておきたかったのだ。

ドライヤーでの乾燥を終え、制服に著替えて鏡の前で髪を編む小夜子。

鏡には、見慣れた顔をした眼鏡のが映っている。も生気も薄い、低い鼻、の悪い、細長くつり上がった目にはご丁寧に慢的なクマのおまけつき。「そうで病的な顔」というのが、小夜子の自己評価である。

「んっ」

編みながら途中、ふと手を捻って小指側の側面を見た。

昨晩散々転んで付いたはずの傷は、何処にも無い。夢である良い証拠だろう。

「ホント、最低な夢だったな」

支度を終わらせ、壁掛け時計へ視線を投げる。

晶には大きなデジタルで、「午前七時四十分」との表示。

「そろそろ出ないと」

一人呟く小夜子。

だがその聲はなからず、弾んでいる。

◆

通學バッグを持ち玄関に向かい、靴を履く。ドアを開けて外に出て施錠、門へ向かう。家の前に出たところで足を止め、バッグを右肩にかけ直しながらし待つ。

「ふんふん」

鼻歌じりに待っていると……やがて左隣の家から「行ってらっしゃい」「行ってきます」という、親子のわす聲が彼の耳にまで屆いてきた。次いできぃ、と門を開け、そして閉める音。

すぐに小夜子の視界に、彼と同じ制服を著たが現れる。

背はすらりと、小夜子より頭一つほど高い。加えて高校生とは思えぬ、均整のとれたつき。優しげな目元に形の良い鼻、薄い。口元左下のホクロもアクセントになっている。のきでふわりとなびくストレートの黒長髪がなんとも映える、清楚なだ。

いや。「」と形容すべき人であった。

その彼へ向けて、満面の笑みと共に小夜子が聲を上げる。

「おはよう、えりちゃん！」

が微笑みながら、挨拶を返す。

「お待たせ。おはよう、さっちゃん」

彼は隣に住む、馴染の長野恵梨香。

小夜子の神である。

「行こうか、さっちゃん」

「うん！」

さも當然という流れで、恵梨香の右腕に自らの左腕を絡める小夜子。

そこからさらにを著させつつ、深呼吸するフリをして大きく鼻から息を吸い込み、恵梨香が纏う空気を全力で鼻腔に送り込む。自とは違うシャンプーの香りが、小夜子の心を満足させた。

馴染のスキンシップにしてはいささか以上に過剰ではあるが、これがいつもの調子ということなだろう。恵梨香は全くじずに、微笑みを浮かべている。

「もう行かないと遅れるよ、さっちゃん」

「うんうん」

そして二人は腕を組んだまま、學校へ向けて歩き出した。

……小學校學時から、二人は一緒に通學し続けている。

恵梨香が調を崩して休むことはあっても、彼が登校する日に小夜子が休んだことは一度も無い。神と二人きりでいられる至福の時間が減るからだ。

どんなに調が悪かろうとどれほど熱があったとしても、薬や強めのドリンク剤を飲んででも、恐るべき執念で小夜子は文字通り家から這い出てくる。そして、恵梨香と會う時には平気な顔をして共に登校するのだった。

それほど、小夜子にとってこの時間は大切なものなのだ。

二人の家がある高臺から高校までは、徒歩で約三十分程度かかる。

恵梨香がその高校を選んだのは、県でも安定した進學校であることと「家から近いから」。小夜子が同じ高校を選んだのは、「恵梨香が通うから」だ。

眼鏡のはその高校験のために、一生分の學習意を使い果たしたと思っている。実際劣等生である彼の學力では、かなり際どい験であった。

それなりに苦労はしたが……共に合格したことを知った恵梨香の笑顔を思い出すと、小夜子はそれだけで一週間は飲まず食わずでいられそうなほど、のが満たされる。

「天気予報、晴れだってね」

「良かったぁー」

取り留めのない會話をわしながら、歩いて行く二人。

家が住宅地や高校最寄りの駅からは逆の方向にあるため、通學時間の十五分は他の生徒たちとまったく経路が重ならない。

人目を憚ること無く、恵梨香の勉強の時間を潰すこともなく、堂々たる理由をもって神を獨占できる、「至福の十五分」。

この時間だけが小夜子にとって灰の一日の中で、り輝く鮮やかな時間なのだ。彼はこの時間のためだけに生きていると言っても、誇大ではあるが虛偽ではない。

「さっちゃんもシャワー浴びてきたの？　私もちょっと早めに起きて浴びたんだ」

ええそうね。おかげであなたの臭が弱いのが殘念だけど、髪についたシャンプーの香りも素敵よ。

「えりちゃんも？　私は何か変な夢見ちゃって、嫌な寢汗かいたから浴びてきたの」

とか。

「あ、しまった。図書室で借りた本、日曜日に読み終わったけど持ってくるの忘れちゃったな。あれ結構面白かったから、さっちゃんも読んでみるといいかも」

容なんてどうでもいいから、私はあなたが本を読む姿をずっと眺めていたいわ。

「へー、どんなタイトルだっけ？　たしか、えりちゃんが読んでたのは歴史の真面目なお話だったよね？　私は漫畫やラノベばっかりだからなあ。難しいのは苦手かも」

とか。

概ね會話の裏側には、小夜子のどろりとした獨白が付隨していたが……それは恵梨香の知らぬところであり、そして、知られてはならぬことであった。