《比翼の鳥》第7話 蜃気樓(7)

昨日の夜のやり取りを思い返しつつ、俺はしい二人のじゃれ合いを観察していた。

とは言え、二人とも大きな聲では無いので、雑多な喧騒に紛れ、不快なじは無い。

だが、二人とも目立つ容姿な為か、無意識にだろうが、チラリと視線を向ける男が多い。

そんな視線の先にいる一人。今日の春香は、デニムのパンツに白いシャツの上から、ジャケットを羽織っている。

がそんな恰好をすると、空気が引き締まると言うか、控えめに言っても、俺より男らしく格好良い。

ちなみに、彼の強い要により、俺も似たような恰好をさせられているが、完全に浮いている。

そりゃ、個人個人で醸し出す雰囲気ってものがある訳ですよ、春香さん。

私の様なくたびれたおっさんが、そんな恰好をしようものなら、服に著られるのは明白な訳で。

ほら、今も、若い3人組と目が合ったが、笑われてしまったよ。

今朝の不な戦いで、彼の拗ねた顔に全面降伏した俺が言うのも無粋なのだろうが、現実はやはりどこまで行っても非である。

そんな風に、現実をまざまざと見せつけられて打ちひしがれていた俺であったが、不意に肩を叩かれ振り向く。すると、そこには笑顔の鈴君が立っていた。

「やっ。お待たせ~。皆、早いねぇ~。」

今日も、彼のほのぼのオーラは健在のようだ。それに癒され、何となく救われた気分になる。そして、いつもと変わらない様子で、當たり前のように、俺の隣に並ぶ彼は、間違いなく俺の味方だった。

突然現れた彼によって、今迄、不な形でじゃれ合っていた彼達の目がこちらに向いた。

だが、瑠奈を名乗るは、俺の隣で手を振る鈴君を見て、出立準備が整った事を悟ったらしく、

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「あ、やっと揃いましたね! じゃあ、早く出発しましょう! すぐ行きましょう!」

そう言いながら、春香の手を引き、軽い足取りで歩を進め始める。

いや、せめて、鈴君に挨拶くらいしようよ……。

引っ張られながら、こちらを見て、目禮した後、肩を竦めた彼を見て、鈴君も俺も、苦笑しながら、著いていく。

「なんだか、今日の彼はいつもと違うね?」

爽やかに笑いながら、含みを持たせたじで俺の顔を覗きこむ鈴君。

そんな彼に、俺は、

「さぁ? どうなんだろうな?」

と、困ったように返すしか無いのであった。

そうして、途中で合流した柴田を引き連れ、やってきました、遊園地。

東京都と神奈川県川崎市を南北にぐ、都屈指の規模で、某テレビ局や、プロ野球球団の名を関する事から、その名稱を知らない者はいないのではないかと言う程、有名すぎる名前なのだが……実は立地の関係で、都下、県下で訪れた事のある人は意外とないと言う、微妙な立ち位置の遊園地だ。

事実、橫浜からここまで、電車を乗り継ぐ事、1時間半。長かった。

それを証拠に、既に太もその高さを上げ、後1時間もしないに、天頂に差し掛かりそうなくらいである。

そんな中、俺ら男陣は、三人共、何かやり切った様な雰囲気が流れていた。

やっとついた。頑張ったよな、俺達。もう、ゴールしても良いかな?

言葉は発せずとも、俺達の思いは、この瞬間、統一されていた。

だが、それと対照的に、何故か益々、元気になる陣二人。

それは、遠くから聞こえる獨特の振音と、悲鳴を聞くに至って、彼達のお喋りが加速する。

「うわぁ! 遊園地ですよ! あ、あれが、ジェットコースター!? わっ! 早い! すごぉい!」

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「ふむ、鍛錬には良いかもしれないな。兄貴、後で、あれを十本な。」

何か、変な言葉が聞こえたような気もしたが、俺は力なく想笑いするに留める。

いざとなれば、雲隠れも已やむを得ないだろう。

チラリと橫を見れば、柴田も鈴君も、似たような事を考えているらしく、無言でお互い、頷き合った。

とは言え、折角こうして、ここまで來た訳だ。可能な限り付き合い、俺もそこそこに楽しもうとは思っている。

あれは、十本所か一本でもキツイが。

獨特の金屬音を鳴り響かせながら、縦橫無盡に走り回る箱を見て、俺は溜息を吐きつつ、園へと足を踏みれたのだった。

った俺達は、陣に先導されるがまま、様々なアトラクションを楽しむ事になった。

でっぷりとしたフォルムの飛行機モドキに乗って空中で揺られる

長い空中ブランコに座り、遠心力でぶん回される

海賊船のようなで、前後に思いっ切りぶん回される

この時點で、俺の気力はこそぎ奪われている訳なのだが……勿論、これはまだ序章だった。

そして、今……お遊びはここまでだと言わんがばかりに、満を持して連行されたのが……この山賊の名を関する、ジェットコースターな訳で……。

「あれぇ? お兄さん、もしかして、こういうの駄目なんですか?」

何故か今迄絡んですら來なかったが、今回俺との相席を強くんだ事から、皆の生暖かい視線に見送られ、こうして俺の隣に座っている。

と、絶系で相席。

それは、デートの定番であり、傍から見れば、非常に羨ましい狀況なのだろうが、絶系特有の、あのレールから響く歯車の様な機械音がじわじわと響く中、死刑宣告を待つ心境の俺には、そんな狀況を楽しむゆとりは、一ミリも無い。

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「こ、高所恐怖癥なんだよ……。」

震えながら、俺は迫って來る空を見て、そう短く答えるに留まった。勿論、橫に座るであろうの顔は見る事が出來ない。

見てしまったら最後……その先に広がるであろう絶景と共に、絶的な心境が襲って來るのは、明白だからだ。

風を全くけない様な安全な箱ものだったらまだ大丈夫なのだが、これはあまり得意ではない。

特に、この焦らされる様な、獨特の間は、俺の神をゴリゴリと容赦なく削っていく。

そんな俺の隠そうともしないビビり方をけて、はクスクスと、控えめに笑うと、

「おかしいの。もっと高い所にいた事もあるのに。」

そう不思議そうに問いかけて來た。

「ひ、飛行機とか、エレベーターとか、展臺は大丈夫なんだよ。……足元がしっかりしてるし、支えもあるから。けど、これは駄目だ。ナンセンスだ!」

そう、安全がある程度擔保されている所なら大丈夫なのだ。だが、幾ら安全が擔保されていても、直接的にれるこの狀況は駄目だ。後、垂直に落ちる系。特にバンジーとか、絶対ダメだろう。見ているだけでんで逃げたくなる

そんな想像したら、更に恐怖が俺の心を容赦なく押しつぶしてくる。

先程から必要以上に力強く前のバーを握っていたせいか、バーが汗でって不快だ。

だが、これを離したら、俺は死ねる。間違いなく神的に死ぬ。

俺の必死な形相が面白かったのか、は楽しそうに笑う。

「……でも、そんなに嫌なら斷って良かったんですよ?」

「そりゃ、無理だ。」

「え?」

「……楽しみだったんだろ? 折角、おい頂いたんだし。こんなけない姿でも楽しめるなら、幾らでもお見せするよ。」

「お兄さん……。」

そんなやり取りで、恐怖をごまかしていた俺ではあったが、一応、掛け値なしに全て本音である。今の俺に、化かし合いのできる余裕など、ある筈もない。だが、そうして、ごまかした所で來るべき時はやってくる訳で、視界から、無にもレールが無くなる。

ああ、抜ける様な青空だ……。

そして、そのまま強制的に、視界が下を向いた瞬間……俺の絶を皮切りに、正しく、ジェットコースターのあるべき姿が、繰り替えされたのであった。

「ふむ、兄貴、しだらしなさすぎるぞ。」

「……放っておいてくれ……。苦手なものは苦手なのだよ。」

現在、ベンチにてグロッキーダウン中の俺に、妹の容赦ない一言が降り注ぐも俺は、起き上がる事が出來ない。

水で冷やしたハンカチを額に乗せ、真っ暗な視界のまま、俺は、回る世界と込み上げる吐き気を懸命に耐えていた。

あの後、再度、春香に連行され、連続で恐怖験をした俺は、その後、心の中の何かが折れた様で、平衡覚を失ったまま、立ち上がる事すらままならなくなったのだ。

多分、がストライキを起こしているのだろうと、俺の冷靜な部分が分析している。

「まぁまぁ、春香ちゃん。俺達が付き合うから、さ、行こう?」

「ふむ、じゃあ、先輩方、お願いします。兄貴、早く復活して、合流してくれよ。」

いや、無理っす。

そう思いつつも、見えない春香に向かって手を振りつつ、心の中で皆を送り出す。

皆が去り、周りから聞こえる喧騒に包まれ、俺は回る世界をやり過ごしつつ、この狀況に、どこか懐かしさをじていた。

うーん。この強烈な覚は、前にもどこかで、験した事があったような気がするのだが……。

そうはじるも、どんな狀況だったのか、どうしても思い出せない。

何かが引っかかる。そう、大事な事だったような……。

そう思った瞬間、乾いた砂を噛んだ様な、不快な覚と共に、大きな生の影が脳裏をよぎる。

それは金の龍。それが俺へと迫り……。

不意に、ベンチの橫に誰かが座った。ふわりと花の様な良い香りが鼻腔をくすぐる。

誰だ? そう思う間もなく、ハンカチ越しに俺の額へと優しく手が置かれた。

「お兄さん、気分はどうですか?」

その聲を聞いて、主が瑠奈と名乗るだと思い至る。

「ああ、大分、楽になって來たよ。ありがとう。皆とは行かなかったのかい?」

「はい。ちょっと気になる事がありましたし。それに……きっと先輩達は、今頃、ジェットコースター祭りです。」

「確かに楽しいですが、流石に何回もは、乗れませんよね。」と苦笑の混じった聲を聞きながら、柴田と鈴君が、春香に連れまわされる様子がありありと脳裏に浮かぶ。

だが、同時に、もし彼らが居なくて、今の様に俺が行けなくなったら、彼の機嫌は悪くなる一方だったろう。結果的に、彼らを連れて來て大正解だった訳だ。そういう意味で、二人には謝の言葉しかない。今度、ラーメンでも奢っておこう。

そんな風に、心の中で尊い犠牲になった彼らへと謝をささげていたが、それっきり黙ってしまったの事が気になり、俺は、聲をかけた。

「どう? 楽しんでる?」

そう言った後、ダウンした奴の看病をしていて、楽しいも何もないだろうな、と思ったのだが、

「はい。楽しいですよ。」

思いの外、ハッキリと、そう返事が返って來て、逆に俺が言葉に詰まった。

その位、彼の聲から、その気持ちに噓が無いと言う様子が伝わって來た事も、そうなる要因ではあった。

「私、こういう場所に來たの、生まれて初めてだから、何もかもが新鮮で、本當に楽しいんです。」

「あ、お兄さんの弱點も知れましたしね。」と、ちょっとお道化て見せる彼の聲を聞いて、俺はで下ろす。

「そっか。なら良かった。俺がこんな狀況で申し訳ないけど、もうし待ってくれ。そうしたらけるようになるから。」

「大丈夫ですよ。それに、ちょっと確かめたい事もありますから。」

「確かめたい事?」

「そうです。確かめたいんです。」

耳元にれる吐息。肩から零れ落ちたであろう髪が、俺の頬をくすぐる。

「お兄さん。私の、名前は?」

一瞬、背筋に悪寒が走る。だが、俺はそれをこらえ、口をかした。

「月島、瑠奈、だろ?」

「そう。私の名前は、月島瑠奈。そう言ったはず。お兄さんも、そう呼んでいる。なのに……どうして、認めてくれないの?」

「ん? どういう事?」

疑問を口にしつつも、心當たりがあり過ぎて、俺にはそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。

そう。俺は、このを月島瑠奈と呼・稱・している。

だが、俺の中にある、ルナと言う名前の人と同一人であるとは、認・め・て・い・な・い・。

故に、俺の中では、月島瑠奈と名乗る、誰かと言う認識でしかないのだ。

「先輩達も、皆、私の名前を呼ぼうとしない。それは、お兄さんの世界で私が認められていないって事だもん。」

言う事が良く分からない。

いや、正確には、前者と後者の文脈の意味が、全く繋がらない。

まて、もし、それが本當に繋がるだと仮定するならば、それが意味する所は?

「ねぇ、お兄さん。何で、私を拒絶するの? 私、そんなに嫌われているの?」

だが、その思考も、彼の嗚咽じりの聲で霧散した。

もしこれが、演技ならばタイミング、狀況共に、アカデミー賞なんだろうが、どうやら、これは紛れもなく本心だと俺の心がじている。

全く……本當に不用な子だな、この子は。

そうして、俺は溜息を吐くと、俺は苦笑しつつ、耳元で一生懸命泣くのを堪えている彼の頭にそっと手を置く。取りあえず、難しい事は後回しにしよう。考える時間は幾らでもある。

は一瞬、ビクリと肩を震わせたが、跳ね除けられる事も無いので、そのまま、軽く、ポンポンっと弾ませる様にでながら、口を開いた。

「あのね、君は一つ、大きな間違いを犯しているんだよ。」

「まち、がい?」

「そう。君は、噓をついている。だから、君の事は嫌いじゃないけど、信じられない。簡単に言えば、それだけなんだよ。」

「嫌いじゃないの? 本當に?」

「うん、個人的には応援したい位には、好ましい。」

「そう、なの? ……けど、姉さんを消さないと、私の居場所が無いから。」

また良く分からん考えが出て來た。何だろう、これは哲學的な話なのだろうか。

「いや、居場所は奪うものじゃないでしょ……。もしないなら、新しく作ればいいじゃない。」

「作る?」

「そう、自分の居場所なんて、自分で頑張って作っていくしかないよ。人から與えられる場所なんて、そうそうは無い。」

「けど、お兄さんはれてくれないから、作れないよ。」

何だか、更に良く分からない會話になって來た。だが、間違っちゃいけない。本的な問題は一つだ。

れてくれないっていうのは、俺がこの子の事を信じていない。つまりは、心を許していないという事と同義だと思う。

「俺が君を信じられていない……つまり、れられない原因は、簡単な事なんだよ。」

「そうなの?」

「ああ、君が噓を言っている。もっと詳しく言えば、君は存在を偽っている。だから、俺は君が信じられない。人の場所を奪いさろうとする人を、信じられるわけがないだろう?」

そう。名前を偽るという事は、そういう事だ。

自分の名前と言う明確な判別材料を、偽っている。それは、存在自の詐稱となる。

勿論、その名前が偽名であれ、何であれ、その人を表すものであるならば、まだ良い。

それは仮面のようなだ。顔を隠す程度ならば、何度もれ合ううちに、面はけて見えて來る。

どうやったって、その人の面はどこからか滲み出てくるから、判別が面倒になるだけで、本質はそもそも変わらない。

だが、彼のしようとしていた事は、既に存在する誰かにり替わろうとするだった。

今ある人のイメージを、そのまま場所だけ奪い去ろうと言う行為だ。だから、俺はれられないのだ。

そうでは無く、彼を示す名前であれば、何でも良かったのに。

「けど、姉さんを消さないと、私の事なんて見てくれないだろうし。」

もう、意味が分からない。

つまりあれか? そのお姉さんとやらに、自分は劣っているから、意図的に排除しようとしているのか?

そう考えると、って怖い。だけど……

「やってみなくちゃ分からないだろうに。」

「え?」

そう思いつつ、無責任ながら、俺はそんな風に、はっぱをかけていた。

何だか昔の自分を見ているようで、放っておけなかったのだ。

いや、何かやる前から、諦めるって簡単だけどさ、勿ないと思うんだよな。

気持ちは凄く分かるよ? そもそも、恐いよ。駄目だったときを想像するとそれだけで、心が萎える。俺だって今なおそうだし、そうだったからわかるさ。

どうせ駄目だろうって思ってしまった方が、ダメージけなくて良いもん。そうやって、言い訳していれば、傷付かないから、何となく楽な気分になるしな。

けど、それでは、何も変えられないし、変わらない。それだけは知っておかないと。

何もしなくても、いつか、きっと誰かが救ってくれる。

そんな都合の良いように、世界は出來ていない。

変わりたかったら、変えたかったら、本當に面倒で恐ろしい事この上ないけど、自分でくしかない。それしかないんだ。この世の中は、そういう風に出來ている。

そういう風に出來ていると知っていれば、取りあえず、いておいた方が良いだろう?

駄目かもしれないけど、やらなかった時の後悔と、やって駄目だった時のダメージと、どっちがマシかって事にならないか?

の場合は、諦めるっていう選択肢が無いように見える。なら、やるしかない。

「やってみて駄目だったら、その時考えればいいんじゃないかな? 今のままでいる事と、どっちが良いんだろう? 今はもう、そうやって困ってしまう程、辛いんだろう? だったら、新しい事をやってみるのも良いんじゃないかな?」

そんな俺の言葉に、は言葉を失い、考え込んでしまった。そんな雰囲気をじて、俺もし落ち著いて冷靜になる。

はて、ちょっと熱く語ってしまったが、そもそも、この子は何がしたいのだったっけ?

居場所を作る? それには、俺にれられることが必要で? うーん、つまり、やる事と言えば、えーっと。

「名前。」

思わず、俺は、そう呟いていた。

呟いた後で、俺は、それしかないんだよな、と思い至る。

そうして、ハンカチをずらし、の顔を間近で見つめる。

真っ赤な顔をしながら、どこか拗ねた様なその顔は、いつも見る自信満々なとは全くの別で、年相応の、どこかさすらじさせるものだった。

「君の本當の名前。それが聞きたいな。」

再度、俺は笑顔でそう、呟いた。

一瞬、は呆けた様に、俺を凝視していたが、何かに気が付くと途端に、顔を背けてしまう。

そんなじで、は暫く顔を背けつつ、ブツブツと何か呟きながら、悩んでいたようだが、腹が決まったのだろう。

「揚羽あげは……。」

こちらをしチラリと見ながら、そう呟いた。

これはこれで、萌えるな。恥ずかしがるの子っていう絵面も悪くない。そう、野暮ったい事を思いつつ、俺は込み上げて來る笑みを噛み殺しながら、再度、確認する。

「ん? 月島 揚羽……さん、で良いのかな?」

ふむ、言葉にしてみて気が付いた。

何だろうか、どこかで聞いた事が、ある様な無い様な。

「苗字は無い、ただの揚羽。こっちでは、そう呼ばれていたから。」

こっちって何よ? そう思うも、とりあえずは、これで、やっと彼の事を堂々と気兼ねなく呼べるようになった気がする。

「そっか。綺麗な名前だね。んじゃ、改めて、揚羽さん。よろしくね。」

寢転びながらだが、俺は彼に手を差し出した。

一瞬、躊躇した彼だったが、その意図を組んだのだろう。おずおずと言ったじではあるが、その小さな手を、俺の手にそっと添える。

「うん、これでやっと、本當の意味で、知り合いになれた気がするよ。」

そんな俺の言葉に答える事は無く、彼は、キュッと弱々しく、俺の手を握ったのだった。

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