《お久しぶりです。俺と偽裝婚約してもらいます。~年下ワケあり生真面目弁護士と湯けむり婚前旅行~》10. ……偶然、です
溫泉は見えないのに、春風が硫黃の香りを運んでくる。
朔也の車から降りた葉月は、青空の下で咲き誇る桜と立派すぎる旅館の門を前に立ちすくんでいた。
白い漆喰の壁と灰の瓦屋でできた塀なんて、時代劇でしか見たことがない。まるでタイムスリップしたかのようだ。
「葉月さん、行きますよ」
朔也が車から葉月の荷を下ろし、番頭に渡している。
葉月は慌てて禮を言い、歩き出した彼についていった。
──朔也くん、態度がちょっとぎこちない、ような。
──やっぱりバレてたかな。彼氏もできたことない奴が共犯者だなんて頼りなさすぎるし……がっかりしてるのかも。
「お客様、いい時期にいらっしゃいましたねぇ! 今はほんと桜が見頃なんですよ」
「わっ、そ、そうですね、とっても綺麗です」
「でしょう!? 旅館の裏にある丘から見ると向こうの山とか街の桜が全部見下ろせてねえ、おすすめです!」
「へえ……! 素敵ですね、行ってみたいな」
「でしょでしょ!? ぜひ!!」
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隣で調子よく語る番頭の勢いに若干押されつつ、門をくぐる。
「うわぁ……」
すると、そこにはしい日本庭園が広がっていた。
花びらが散る枝垂れ桜に、一面の緑の中を流れる小川。
芝生の上にはさまざまな種類の下草や低木、庭石、燈籠などがゆったりと配置されている。
自然をじるが、落ち葉ひとつない地面や刈り込まれた生け垣から、手れが行き屆いているのが見て取れた。
目を奪われながら進んで、川に架かった小さな石の橋を渡る。
穏やかな水音と、暖かなそよ風。
景だけでなく空気も綺麗な気がして、葉月は深呼吸した。
「すごいですね、どこもかしこも絵はがきみたい」
「ははっ! 母屋の売店で売ってますから、よければお土産にどうぞ」
庭園から竹林でできた小徑を抜けて角を曲がったら、突然大きな一軒家が現れた。
「ここもすごい……!」
古民家風の平屋だが、建自は新しいようだ。
黒い瓦屋と飴の木の外壁、縁側から覗く白い障子。
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庭はちょっとした公園くらい広く、立派な桜が生えていた。端には東屋があり、その下に石造りの天風呂が鎮座している。
あまりの豪華さに、ごくり、と葉月は生唾を呑み込んだ。
「リゾート武家屋敷……」
「離れ宿の旅館です」
思わず呟くと、ずっと黙っていた朔也が隣で訂正する。
「荷は玄関までで大丈夫です。ありがとうございました」
「はい、かしこまりました。お連れ様が到著してお食事のご用意ができましたら、またお聲がけいたしますね」
番頭に挨拶し終わった朔也に続き、葉月も離れの中にった。
その途端、ふわりと藺草と白檀のいい匂いがする。
玄関の引き戸や窓から差し込む春のに照らされ、木の廊下が艶やかにっていた。
朔也が上がり框に置かれた二人の鞄を持ち、奧へ進んでいく。
葉月も後を追い、そして、不安になった。
「……朔也くん」
「なんです」
「本當にここへ泊まっていいの……?」
「気にしなくていいですよ。金はジイさん持ちですから」
薄々じてはいたが、この宿は葉月には高級すぎる。
廊下を抜けると、そこには葉月の住んでいるワンルームが二つはる広さの和室があった。
天井には太い木の梁、床の間には掛け軸と絵皿。
まだ新しい畳の中央には、磨き込まれた大きな座卓と二人分の座椅子が悠々と置かれている。
障子を開けてみたら、先ほど玄関にる前に見た縁側としい庭が見えた。
靜寂の中、かすかに小鳥の鳴き聲が聞こえ、何と言うか。
──私、場違いじゃないかな……。
くつろぐために計算されきった場所にいるはずなのに、葉月の背中に冷や汗が伝った。
今日から葉月はここで四日間、朔也と二人きりで暮らす。
そして、彼の家族──祖父と、葉月の友人でもある姉を騙すのだ。朔也の偽の婚約者として。
思い描いただけで張し、さらに汗が出てしまった。
「荷は寢室に置いておいていいですか」
「あっ、私やるよ」
葉月のキャリーバッグを持って廊下を引き返そうとする朔也に、葉月は慌てて聲をかけた。
「いえ、俺がやります。葉月さん、ずっと車に乗ってて疲れたでしょう? ジイさんたちが著くまでゆっくりしててください。俺はついでに母屋でチェックインしてきますから」
言われて初めて、自分たちがチェックインしていなかったことに気づく。
そういえば、朔也は先ほど番頭に荷を渡しながら何か話していた。もしかして先に部屋へ葉月をれたいと相談していたのだろうか。
──朔也くん、私のこと気遣ってくれてたんだ。
──運転してたんだし、疲れてるのは朔也くんのほうなのに……。
「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうね」
「はい」
嬉しくて笑いかけると、朔也の無表もやや和らぐ。
だが、なぜかすぐにそこへ張が戻った。
「葉月さん。その前にお茶でもどうですか」
朔也が突然荷を下ろし、険しい顔のまま葉月を座卓に促す。
「え、お、お茶? わかった。準備しようか?」
「いや、これも俺が。そちらへどうぞ」
いきなりどうしたのかと疑問に思いつつも、葉月は朔也の圧に負けて座椅子に座った。
朔也が床の間の隣にある棚から電気ポットを取り出し、お茶の準備を始める。
長の彼がちまちまとを揃えたり急須に茶葉をれたりするのが、なんだか可らしかった。
「……すみません。立ち話の流れで渡すのが嫌で」
電気ポットのスイッチをれたあと、朔也が葉月の隣に座椅子を寄せて腰を下ろす。
彼の表は、やはり妙に深刻だった。
「渡す……?」
「ええ。これをけ取ってください」
ジャケットのポケットを探った手が、掌サイズの紺のケースを取り出す。
それが開かれ、中にっていたものがきらりと輝いた。
先日、ジュエリーショップで選んだ婚約指だ。
「わぁ……! 間に合ったんだね。何度見ても綺麗……」
「そう言ってもらえて何よりです。もうつけてもらっていいですか」
「うん、もちろんだよ」
葉月がケースをけ取ろうと左手をばすと、朔也は優しくそれを取った。
そして、何気なく薬指に指をはめる。
──えっ……!?
ドキッ、と大きく葉月の心臓が跳ねた。
「サイズはちょうどいいですか?」
「あっ、ああ……」
平然と尋ねられ、真っ白になっていた頭がき出す。
──ま、まずい。結婚式みたいとか一瞬思っちゃった……。
これは偽裝のため、朔也に他意はない、と自分に言い聞かせつつ、葉月は笑顔を作った。
「ぴったりだよ。ほら、指を曲げばししても全然大丈夫」
「綺麗だ。よく似合ってます」
「ありがとう……」
満足げな朔也の言葉に頬が熱くなる。
指のことだとは思うが、綺麗だなんて言われてつい浮かれてしまった。
「ジイさんたちはもう著くそうです。姉さんから今、連絡が」
「そ、そうなんだ。早かったね」
朔也はスマートフォンを出し、メッセージアプリを見ている。
葉月はの高鳴りをごまかそうとうつむいた。
並んだ大小のダイヤモンド。銀のリング。
視界にったそれらに、ふと過去の記憶が蘇る。
「……そっか、どこかで見たことあるって思ってたけど……」
「どうかしました?」
「この指のデザインが前にもらったのと似てるなって思って。覚えてるかな、昔、お別れする前日に朔也くんがくれたやつ──あっ」
考えなしに話してしまい、葉月は途中で我に返った。
──しまった、テンションが上がってうっかり昔話を……!
焦って顔を上げると、なぜか朔也の頬がほんのりと赤くなっている。
──……あれ?
「……偶然、です」
朔也の手が座卓にスマートフォンを置き、眼鏡を直した。
ぐっと寄せられた眉は、揺を隠そうとしているかのようだ。
「お茶まだですけど、ジイさんたちが來る前にチェックインしたいので失禮します。葉月さん、そこのお茶菓子食べて大人しく待っててください」
朔也が妙に早口で告げ、返事も聞かずに和室を出ていく。
葉月はぽかんとその後ろ姿を見送り、遅れて気づいた。
──えっ……偶然じゃなかったの!?
驚きに目を丸くし、もう一度指を見つめる。
あのときは明なプラスチックと合金のおもちゃだったが、今はダイヤモンドとプラチナのジュエリーだ。
──朔也くん、お店で「最初からこれがいいと思ってた」って言ってたよね。
──もしかして……あの日のこと、ずっと覚えててくれたのかな。
ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
偽の婚約者になりきるためだけなら、値段が高ければいいだけなら、この指でなくてもよかったはずだ。
──い、いや、ただの偶然かもしれない。さっきの反応は私があの指を忘れてなかったから引いただけで。
──期待しちゃ駄目だ。でも……でも、朔也くんは私のこと、どう思ってくれてるんだろう。
──もし彼がその気なら、偽裝婚約なんかじゃなくて本當に……!
「メッセージが屆きました」
「ひゃっ!?」
聞き覚えのない機械音聲に妄想を遮られ、葉月は座椅子から飛び退きかけた。
何かと思ったが、座卓の上のスマートフォンが原因のようだ。
朔也が席を立つのを急ぎすぎて忘れていったらしい。
「メッセージを読み上げますか?」
「いや、それは朔也くんが戻ってきてから……」
「差出人、一ノ瀬レイラ。メッセージ容、朔也さん──」
「ま、待って!」
うまく意思疎通ができないAIアシスタントが暴し始めてしまい、葉月は慌ててスマートフォンを摑んだ。
黙らせようとするが、自分のものと機種が違うせいでどうすればいいのかわからない。
「忙しそうだからメッセージで失禮するわね。もう私、會いたくてたまらないの。來週の土曜の夜、時間を作って? いつものフレンチの予約を……」
メッセージの容に、葉月の手が止まった。
──朔也くん、彼いたんだ。
ぎゅうっとの奧が引き絞られ、舞い上がっていた気持ちが叩き落とされる。
──「いつもの」ってことは結構長い付き合いで、でも彼はすごく熱的で。
──……あ、かなりラブラブなんだ。
──そうか。そう、だよね。朔也くんは優しくて、かっこよくて、きらきらしてて。彼がいないわけない。
今さらスマートフォンのスリープボタンを見つけ、葉月はメッセージの再生を打ち切った。
勝手な失とはわかりつつも、から力が抜けてしまう。
つい期待してしまったが、朔也が葉月を気遣ってくれたのは彼の優しさゆえだったのだろう。
──駄目だな。私……調子に乗ってた。
──私がまれてるのは、偽の婚約者を演じきること。私のみは朔也くんを助けること。
──それだけだよ。出しゃばっちゃ駄目だ。
うつむいて自分に言い聞かせる。
そのうち「朔也を助けたい」と考えていることすら差し出がましい気がして、葉月は溜め息をついた。
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