《社長、それは忘れて下さい!?》1-3. Get closer
「お話中に失禮します。店長、この辺ってタクシーすぐ摑まりますか?」
談笑しているところに割り込んでしまうことを申し訳ないとは思ったが、どのみち會計があるので聲をかける必要がある。龍悟と店長に同時に視線を向けられ、涼花は自分の座っていた席を振り返った。視線の先ではエリカがテーブルに突っ伏して眠っている。
「あらら、エリちゃん、寢ちゃったんだね。タクシーは通りに出ればすぐ摑まるけど、頼めば店の前まで來てくれるよ。呼ぼうか?」
「はい、お願いします」
店長の申し出をありがたくけることにする。
エリカは他人のことをお酒に弱いと笑っていたが、実は本人もそこまで強くはない。悪酔いするほどではないが、許容量を超えると急激な睡魔に襲われて、いつでもどこでも眠ってしまうタイプだ。
會計を済ませると、自分のバッグとエリカのバッグを持って、細いを揺すってみる。しかしエリカは『う~ん』と聲を出してうっすら目を開けても、すぐにその目を閉じてしまう。やはり歩いて帰宅できる様子ではない。
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「社長、お先に失禮します。ごちそうさまでした、店長」
「また來てね」
エリカのを抱えて店を出ると、到著していたタクシーにエリカ本人と彼のバッグを放り込む。本當はちゃんと送ってあげたいが、エリカの家は意外と遠い上に涼花の家とは反対方向だ。
「もう帰るのか?」
タクシーを見送って時刻を確認していると、突然後ろから聲を掛けられた。びっくりして振り返ると、涼花の背後に龍悟が立っていた。
「社長。申し訳ございません、煩わしくて……」
「いや、大丈夫だ。お前たちより店長あいつのほうがよっぽど煩いからな」
龍悟の笑顔から店長との仲の良さを窺い知る。今日まで二人が知り合いだとは知らなかったし、格や雰囲気も全く異なるので、まさか友人同士だとは思ってもいなかった。涼花は龍悟の意外な一面を見た気がして、し特別な気分を味わう。
「これから一人酒か?」
「……いえ、もう帰ります」
龍悟に問われてし考えたが、結局すぐに帰宅を決める。
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涼花にとっては酒はただの飲料でしかない。飲酒は楽しいわけでも酔えるわけでもないので、人といるならともかく、一人でお金を払ってまで飲む気持ちにはなれなかった。
「なら送ってやる」
「は? えっ、だ、大丈夫ですよ? 私の家ここから近いので……」
「もう人通りもない時間だぞ。家が近いも遠いも関係ないだろう」
何を思ったのか、龍悟が唐突に『涼花を自宅まで送る』と言い始めた。
涼花は焦って首を振る。そんな訳には行かない。社長にそんな事はさせられない。
いつもの涼花であれば、龍悟に同じことを言わせないために自分の意見などすぐに引っ込めてしまう。だがプライベートでそこまでの配慮はしなくていいだろう。それに、そこまで気を遣われる必要もない。
「本當に大丈夫ですよ。社長、お車はどうされたんです?」
「車? 俺の車なら會社に置いてきたぞ。今日は飲む予定だったからな」
「でしたら尚更……」
「いいから。ほら、行くぞ」
當然のように部下の住所までしっかり記憶している龍悟は、何かを言うより早く涼花の自宅へ向けて歩き出してしまう。涼花をお送り屆けることは龍悟の中で決定してしまったようだ。これ以上はきっと何を言っても無駄だろう。
こんなことなら涼花もタクシーを呼んでおけばよかった。しかし今さら嘆いても仕方がないので、最寄りのコンビニあたりまで送ってもらうことで納得してもらおうと諦めた。
「秋野は次の週末、合コンなのか?」
「え、なんで知って……? って、合コンではないですが!」
社での移と同じように龍悟のし後ろを歩いていると、笑いながら他のない雑談をされる。そこまで大聲で話していたつもりはなかったが、どうやらエリカと話していた容が聞こえていたらしい。
「いいなぁ、若くて」
「若くはないですよ。それに、たぶん行かないと思います」
「へえ? なんでだ?」
涼花がぼそぼそと答えると、龍悟が首と肩をかして振り返った。興味深げに、楽しそうに、そして含みのある笑い方に、涼花はまた心臓を引っかかれたような心地を覚える。
龍悟の笑顔は、いつも涼花の心に熱をもたらす。けれど今日は、何だかいつもと違う覚がある。
それはきっと、エリカと過去のにれるような會話をしたからだろう。涼花の中の開けたくない記憶の扉を、しだけ開いてしまったから。
龍悟の笑った顔は、涼花が大學時代に初めて付き合った先輩の笑顔によく似ている。龍悟の笑顔は優雅で気品があるが、先輩の笑顔はあどけない年のようだった。けれど普段はし怖い印象をける整った顔が、笑うとらかくじられるところはそっくりだ。
あの時は確かに、先輩のことが大好きだったのに……
しばらく仕事に追われて忘れていた記憶が、脳の奧からチーズやチョコレートのように溶けて溢れてくる。ドロドロとしていて、ひどく甘くて、とても苦くて、し塩辛い。摂取しすぎるとにつかえて吐き気を覚えるような、息苦しい記憶とそれに付きまとう。
「えっと……それは、プライベートということで……」
頭を振って一生懸命に思考を追い出す。けれど龍悟の顔は見れそうにない。顔を上げたら、涙を堪えているのを知られてしまう気がした。
俯いたまま答えを絞り出すと、龍悟がからからと笑う聲が聞こえた。
「なるほど。これ以上聞けばセクハラになるな」
「ち、違います……その……」
「秋野? ……どうした、顔真っ青だぞ!?」
龍悟の焦った聲を聞いて、涼花はようやくチーズとチョコレートの沼から現実に引っ張り上げられたような気がした。顔を上げると、目の前には心配そうに涼花の顔を覗き込む龍悟の顔がある。
無理にでも笑おうと思った。だが呼吸が出來るようになると、今度はに力がらなくなってしまう。そこでようやく、自分が呼吸すら忘れていたことに気付く。
「救急車呼ぶか?」
「いえ……大丈夫です……」
真っ青になって淺い呼吸をする様子を心配したのか、龍悟は歩道に設置されているベンチに涼花を座らせてくれた。さらに俯いている間に、近くのコンビニからミネラルウォーターを買ってきてくれる。彼がコンビニで買いをしている姿など一度も見たことがなかったので、涼花はそっと申し訳ない気持ちになった。
ほら、と促されて、手渡されたミネラルウォーターを口に含む。口の中が甘さと塩辛さの記憶で埋められていたところへ無機質な水分がり込んできて、またし呼吸がしやすくなった。
ふとラベルを見ると、そのミネラルウォーターがルーナ・グループの製品であることに気が付いた。ごく自然に関連會社の製品を選んでいる。その事実に辿りつくと、なんだか急に笑いが込み上げてきた。彼が自分の會社や涼花を含む部下を大切にしてくれる人だと思い出すと、それだけで気持ちがふっと楽になる。
「ふふっ」
「……なんだ? 合悪くなったり、突然笑い出したり、変な奴だな」
「いえ……申し訳ありません」
合が悪そうにしていた割りにはすんなりと謝罪の言葉が出てきたことに、ほっと安堵したらしい。龍悟は涼花の隣に腰掛けると、神妙な面持ちで顔を覗き込んできた。
「何があったのか、聞いてもいいか?」
「……」
「もちろん、言いたくないのなら言わなくていい」
やはり龍悟は、他人の心をいとも容易く察知する。そして寄り添うように勵ますように、いつも優しい言葉をくれる。その優しさに安心する。
ぐちゃぐちゃに仕舞い込まれた報を、頭の中で整理していく。人の記憶は知識を重ねて経験を繰り返すことで他の記憶と絡み合い、より複雑で高度な記憶へ変化していく。それらは脳の中に蓄積され、いつか『思い出』に変化する。
いい思い出も、悪い思い出も。
「し、変なことを言いますけど……ちゃんと忘れてくださいね」
じっと龍悟の瞳を見つめて告げる。不思議な前置きを聞いた龍悟が、息を飲んだ気配をじ取る。
――それはエリカしか知らない、涼花の苦い記憶。
本當は話すべきことではないだろう。涼花は龍悟に想いを寄せていて、それ以前に直屬の上司だ。
けれど知ってしかった。知った上で、いつものように『焦るな、大丈夫だ』と優しい笑顔で背中を押してしかった。
彼が心配してくれるのを知っていて話そうとしているのだから、自分はずるい人間だと思う。けれど止められなかった。龍悟が笑い飛ばしてくれなければ、また立ち直れなくなる気がした。
「社長は……を抱いた後に、記憶を無くしたことってありますか?」
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