《社長、それは忘れて下さい!?》1-6. Not a lie
旭が龍悟の今日のスケジュールを読み上げ終わると同時に、始業のアナウンスが鳴った。涼花が音に反応して顔を上げると、旭と目が合う。
「今週、俺だっけ?」
「……いえ、私です」
一瞬の間を置いて返答すると、タブレット端末に視線を戻した旭が、自席に腰を下ろしながら『よろしく』と呟いた。旭の聲と同時に、今度は龍悟が席から離れて歩き出す。
「行くか」
「……はい」
龍悟の呼びかけに、涼花は小さく返事をして踵を返した。
グラン・ルーナ社では定期の全朝禮が無い代わりに、毎週月曜日の朝に社長が自ら各部署へ足を運んでいる。
これは會社の労働環境・各部署の業務の進捗・會議やイベント等のスケジュールを直接確認して把握するためだ。さらに飲食関係は週末にトラブルが多いので、問題點があれば併せてその処理についての指示も行われる。
しかし社巡回の間も執務室には業務連絡が舞い込んでくる。そのため書のどちらかが社長に付き添い、もう一人が執務室に殘る形で週明けの書業務を分擔しているのだ。今日は涼花が龍悟に付き添い、旭が執務室に殘留する日である。
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執務室を出ると、誰もいない廊下を二人で歩く。し先を行く龍悟の背中を見つめた涼花は、もう一度深呼吸をしてから意を決して聲をかけた。
「社長」
「ん?」
聲を掛けると龍悟が聲だけで反応した。歩みを止めない背中に近付き、そっと謝罪を口にする。
「その……先週末は、申し訳ありませんでした」
徐々に小さくなる涼花の聲を聞いた龍悟が小さく頷く。
送ってくれようとした事、悩みを聞いてくれた事、醜態を曬してしまった事、龍悟が目覚める前に帰宅してしまった事、ホテル代を一切払っていない事。
謝罪したい事はたくさんあるが、送ってくれようとした事と悩みを聞いてくれた事以外は覚えていない可能がある。だから涼花は當り障りのない謝罪をした。つもりだった。
「びっくりしたぞ。朝起きたらいなかったから」
――全部覚えていた。
當たり前のように笑う龍悟の言葉には心底驚いたが、そこに恥心が混ざるとどう返答していいのかわからなくなってしまう。悩んだ挙句、もう一度謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ありません。あの……とりあえず宿泊代を」
「お前アホなのか? そんなのけ取る訳ないだろ」
何処から謝るのが正解なのかと悩んだが、考えてもわからなかったので、形として一番わかりやすいから返していこうと思った。だが龍悟は涼花の言葉を鼻で笑って一蹴する。
「そんなことより、聞きたいことがあるんじゃないのか?」
龍悟がエレベーターのパネルに社員証をかざしながら呟く。その臺詞を聞いて、涼花は思わず固まってしまった。
そうだ、何のために龍悟と夜を共にしたのか。
それは彼の好奇心を満たすためではない。涼花の淡い心を満たすためでもない。
會社の利益のために、涼花は自然な表現をにつける。そのためにをする。をするためにはトラウマを乗り越える必要がある。そしてトラウマを乗り越えるためには『涼花を抱いた男が記憶を失う』という『ファンタジー』から目覚める必要がある。龍悟の提案に応じた理由は、その証明の為だ。
「ちゃんと覚えてるぞ」
龍悟はエレベーターのパネルにれると、涼花の目を見てそう言った。
涼花に『重いだ』と吐き捨てた目ではない。『ストーカーだ』と罵った目ではない。しっかりと涼花の目を見て、優しい笑顔で、彼は『覚えている』と言うのだ。
「……うそ」
口元を押さえて呟くと、龍悟は會話が噛み合ったことに安堵して息をつく。
「噓じゃない。秋野は下著がオレンジで、が大きくて、度が良くて……」
「え、ちょ、ま……ちょっと!?」
「それから」
指折り數えながら恥ずかしい出來事を羅列するので、涼花は慌ててその手を弾いて散らした。すると龍悟は、涼花の手首を摑んでぐっと引き寄せると、
「聲が可かった」
「っ!」
と低く呟いた。
驚いてを引く。顔に熱が集中していくのが自分でもよくわかる。
言葉を失った涼花を見て、龍悟は噴き出しながらもやってきたエレベーターに颯爽と乗り込んだ。涼花も後を追って下階へのエレベーターに乗り込むと、最初に赴く部署がある階のボタンを押す。
「ま、そういうわけだ。秋野の昔の男が相當頭が悪かったのか、俺が変わっているのかは知らないが、なくともお前のファンタジーが効かない人間がいることは証明されたな」
エレベーターが下降する覚をじながら、楽しそうな笑い聲を聞く。涼花が過去に付き合ってきた男が著しく記憶力に乏しい可能も、自分が変わっている可能も含めて、面白い出來事に遭遇したように龍悟は上機嫌だ。
「秋野こそ、俺との約束は覚えてるよな?」
「金曜日の……イベント……」
「そう、それ。ちゃんと行って來いよ」
「……うぅっ」
龍悟の目的はあくまで會社に利益をもたらすこと――涼花が自分のと立ち振る舞いをコントロールすることで、取引を円に進めることにある。今はそのための課題を一つクリアしたにすぎない。次なる課題を指示され、涼花はがっくりと項垂れた。
龍悟は結局のところ、涼花のめた想いには気付いていないようだった。
気付いていて知らないふりをしてくれている可能もあるが、彼は誠実な人だ。その誠実で優しい龍悟は、他者の、しかも業務上最も近な書の想いを宙ぶらりんの狀態で放置するような冷たい人間ではない。
よもや応えるとも思えないが、振るにしてもちゃんと言葉にする男だ。だからその點にれないところをみると、やはり涼花の想いには気付いていないと思われる。
目的階に到著すると、短いベル音が聞こえて靜かにドアが開く。
だが朝の巡回が始まる前に、涼花には龍悟にもう一つ伝えなければならないことがあった。
「社長。あの……」
「ん?」
「社長の記憶力が大変優れていることは承知いたしましたので……その……もう忘れて下さって大丈夫です」
「……」
「というか、忘れて下さい。お願いします」
涼花は丁寧に懇願するけれど。
「さぁ? それはどうかな?」
「!?」
にやにやと、そんなつもりはないと言いたげに笑う龍悟の様子に、涼花は再び絶句した。
程なくして再びベル音が響く。けなくなった涼花には構わず、エレベーターの扉は涼花を中に殘したまま靜かに閉じてしまった。
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