《社長、それは忘れて下さい!?》3-10. Lost memory
隣にいた龍悟がいた気配がして、涼花もそっと目を開けた。いつの間にか天井のシャンデリアの燈りは消え、ほんのりと明るいベッドランプだけが広い部屋の一部を照らしていた。
ベッドに肘をついてのそりと上半を起こすと、自分が何もに著けていないことに気が付く。昨日何処かへ放り投げたはずのバスローブを視線だけで探していると、涼花の起床に気付いた龍悟もぼんやりと目を開けて布団の中でをばした。
目覚めた龍悟にを曬さないうちにバスローブを著ようとベッドの下へ手をばしてみたが、どうやらベッドの真下にはないようだ。一どれほど遠くに放り投げたのだろう。とりあえず著は一旦諦めて、き始めた龍悟に気恥ずかしい気分で朝の挨拶をする。
「おはようございます、社長」
「あぁ……おはよ……」
ところが、寢ぼけた様子で返答しかけた龍悟の朝の挨拶は、最後まで言い終わらないうちに何処かへを潛めてしまった。一瞬の停止のあと、突然勢い良く起き上がった龍悟は、涼花の顔を見て驚愕に目を見開いた。
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「秋野? お前、何でここに……?」
龍悟が信じられないものを見つけたように涼花の顔を凝視する。
驚きと、焦りと、困。
明らかに揺した様子の龍悟は、涼花の顔を見つめながら靜かに眉を寄せた。
「社長……?」
そんなに驚く事もないのに、と思う反面、龍悟と目を合わせたことで涼花の心に小さな不安が過る。起きたばかりでまだ靜かなはずの脈拍に、嫌な音が混ざり始める。
龍悟は涼花の顔を凝視していたが、不意に涼花から視線を外すと、カーテンが閉じられた薄暗い部屋をぐるりと見回す。
「ここは……?」
部屋の中を見回して呟く。つい數秒前に自分で『何でここに』と言ったものの、龍悟自が現在の居場所をわかっていない様子だ。
寢ぼけているのだろうか。そういえば前回ホテルに泊まった時は、龍悟が目覚める前に部屋を出てきていた。龍悟に世話になった日は、彼の方が先に起きていた。
だから龍悟の寢起きの様子を、涼花は知らない。もしかしたらすごく寢起きが悪くて、起床の直後は頭がはっきりしないのかもしれない。
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そう思いたい。
けれど。
「社長、あの……」
ドクン、ドクン、と心臓が早鐘を打つ。許容量を誤った小さな臓が、必要以上に大きく速く脈しているようにじる。
涼花はこの眼を知っている。過去にも同じ眼を向ける男がいた。涼花と口付けをして抱き合ったしい人が、その夜をなかったことにした空虛な瞳。し合ったはずの記憶を失って困する視線。
涼花の顔を驚いて見つめる龍悟の揺のは、彼らの瞳に宿ったと同じだ。だから思わず、目を合わせないよう顔を背けてしまう。
「さ……昨晩のこと、覚えていらっしゃいますか?」
口の中が異様に乾いている。話すだけでや舌が切れそうな程の強烈な渇きを無視して、何とか言葉を紡ぎ出す。
けれどその眼を見つめることはできない。視線を上げると、涼花を見下ろす瞳に何のもない気がして――それどころか、龍悟の瞳に自分が映ってすらいない気がして、とても見上げる気にはなれない。
「いや……。あ、いや……違う。覚えて、る……」
龍悟は何度か自分の言葉を訂正しながら、覚えている、と呟いた。
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けれど、涼花は知っている。
龍悟はきっと――覚えていない。
「どこまで、覚えてらっしゃいますか」
「……昨日はステラのパーティで。お前が殘業を終えたら、送っていこうかと……」
涼花の問いに龍悟はかなり的外れな説明を始めた。だが的外れだと思っているのは涼花だけで、龍悟は至って真面目だった。
涼花が覚えているかどうか訊ねたのはその後の話だ。だが恐らく、龍悟にはその後の記憶がない。だから昨晩の『覚えている』範囲のことを説明しようとすると、こうも簡単に食い違ってしまう。
今すぐここから逃げ出したい衝が沸き起こる。龍悟に何かを言われる前に、現実を突きつけられる前に、彼に冷たい視線を向けられる前に、一刻も早くこの場から消えてしまいたい。
「……秋野」
「っ……」
黙り込んでいると、心配そうに名前を呼ばれた。だが心配してくれているはずのその聲にさえ、涼花はを抉られるような気持ちになった。
龍悟は涼花を『秋野』と呼ぶ。『涼花』とは呼んでくれない。昨日あんなにたくさん耳元で優しく呼ばれた名前が、いつもの仕事の時のような名字での呼び方に戻っている。
それで十分だった。
それが答えだと、理解した。
目の前にある上質なシーツの純白さえ真っ黒に眩んで見える。気を抜くとそのまま意識を手放してしまいそうなほど、涼花の全からはの気が失せていた。
「社長。私が以前……社外でお會いした際に話した事を、覚えてらっしゃいますか?」
俯いたまま問いかける。それは涼花のの中にある小さな疑だ。
涼花の問いかけに龍悟が低く頷く。
「あぁ、覚えている。お前を抱いた男がそのことを忘れるという話だろう」
「はい」
「俺は……忘れてない」
「……はい」
不安げな聲のまま呟いた龍悟の言葉に、涼花もそっと顎を引く。
そう。龍悟は話そのものも、それを確かめると言って涼花を抱いた事も、翌週になってもしっかり覚えていた。もちろん今も覚えているだろう。そしておそらく薬を盛られた夜の事も覚えているはずだ。
「社長、もう一つだけよろしいでしょうか」
でも昨夜の事は忘れている。
否、昨夜の事『も』忘れている。
「先月の……六月十七日に役員會議があったのを覚えていますか? 藤川さんが定時退社したので、私が代わりに同席した日です。その會議の後……執務室に戻った後のことは、覚えていらっしゃいますか?」
龍悟が記憶を引き出しやすいよう出來るだけ事細かに詳細を伝えて問う。すると龍悟が息を飲んだ気配がした。
龍悟は黙って何かを考えた後、観念したようにそっと息を吐き出した。そして隠し事を白狀するように、その時の心を教えてくれる。
「……いや、覚えていない」
「……」
「俺もおかしいと思っていた。會議が終わったところまでは覚えているのに、その後どうやって家に帰ったのかを覚えてないんだ。けど次の日出社したら、會議で使った資料がデスクにそのまま殘っていた。だから疲れて俺の記憶が飛んでいるだけなのかと……」
――あぁ、やっぱり。
龍悟の説明を聞いている途中から、涼花は全てを理解していた。あのキスの後にじた違和は、やはり間違いではなかった。後から思い返して『まるで無かったことのように振舞われている』とじたのは、涼花の勘違いではなかったのだ。
龍悟は忘れたふりをしていた訳ではない。本當に忘れていたのだ。合コンに行くと告げた涼花へ向けた、怒りの眼差しと激しい嫉妬のキスも。そして昨日のキスも。
「けどそれからそんな記憶違いをすることもないし、やはり疲れが……秋野?」
黙ってしまった涼花の様子に、龍悟が心配の聲をかける。けれど涼花には返答をする気力もない。
涼花は大きな勘違いをしていた。それも最初の時から考えれば、およそ八年もの歳月、自分でも信じられないほどに盛大な見當違いをしていた。
ずっと思い込んでいた『涼花の事を抱いた人は、その記憶を失う』という不思議な出來事。龍悟に言わせると『ファンタジー』らしいそれは、本當は『涼花にキスをした人は、その記憶を失う』の間違いだったのだ。
だから龍悟は最初の二回の事を覚えていた。何故ならその時、龍悟は涼花とキスなどしなかったから。人のようなれ合いなどない、乾いた関係だったから。
だが皮なことに、乾いた関係からのある関係になりを重ねると、記憶は脆く崩れてしまう。甘い思い出は何の気配も何の知らせもなく、脳の中からいとも簡単に抜け落ちる。
はじめは龍悟が記憶力に優れた特別な存在だから、涼花を抱いたことを忘れないのだと思っていた。驚きと共に、まるで運命の人に巡り合ったかのような喜びをじていた。けれど違った。それすら涼花の勘違いだった。
何がファンタジーなんだろう。
こんなもの、呪い以外の何でもない。
「俺は……忘れてるんだな?」
龍悟のくような低い聲が耳に屆く。涼花がようやく顔を上げると、龍悟がこちらをじっと見つめていた。いつもの自信としさを兼ね備えた聖なる獣のような覇気はなく、ただ涼花に対する申し訳なさだけを背負い込んだ、苦しみと悲しみを混ぜた苦悶の表を浮かべて。
ちがう。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
何よりもしい人に、そんな顔なんてしてしくない。
「社長……だいじょうぶです」
自分のために、そんな辛い顔をしないでしい。
龍悟と特別な関係になりたいなどと、高すぎるみを持ったのは涼花の方だ。本來踏み込むべきではなかったの中に飛び込んで甘えた自分が悪いというのに、龍悟が申し訳ないと思う必要なんて一つもない。だから。
「そのまま忘れていても、何の問題もありませんから……」
「そんな訳ないだろう!」
龍悟に怒鳴られ、思わずがびくりと跳ねる。気付けば目には涙が溜まり、視界がゆらゆらと揺れていた。
龍悟の眼にはとっくに泣き出しそうになっている表が映っているだろうから、これがただの強がりであることも彼はきっと理解している。
だから龍悟は怒ってくれた。忘れていていい訳がないと、言ってくれたけれど。
「答えろ。俺はお前に、昨日なんて言った?」
涼花の気持ちを知ってか知らずか、龍悟は涼花の肩を摑むと顎を捉えて自分の方へ向けさせた。その眼にはまだ困と不安が殘っていたが、それよりも怒りで燃え盛るような溫度を孕んでいた。
火傷をしそうなほどの痛い視線にさらされ、涼花の瞳に滲んでいた涙がぽろ、と零れ落ちた。その雫が頬の郭を辿ってシーツの上に消えても、龍悟の怒りは消えてくれない。
「忘れていいって、なんだ?」
「……」
「お前は、俺の気持ちを知ってるんだろ?」
「……ぃや」
「その気持ちも忘れろってか? お前は、俺の事をどう思っ……」
「社長!」
もう、止めて。
あなたはまた忘れてしまう。
どうせ忘れてしまうのなら、これ以上の言葉なんて囁かないで。熱的な臺詞なんて紡がないで。
涼花の心の聲が通じたのか、龍悟の瞳から怒りの影が立ち消えた。自分の方を向かせるために顎の下に添えられていた指先が名殘惜しげに、けれど力なく離れていく。
涼花は肩に添えられていた龍悟の手を振り解くと、手首の骨張った場所でぐっと涙を拭った。
「著替えを……」
絞り出すような聲でどうにかそれだけ呟くと、の向きを変えてベッドから出る。シーツの隙間から這い出た腳を見て、ようやくお互いにだったことを思い出した。けれど最早恥ずかしさすら沸き起こらず、そのままベッドサイドに立ち上がる。
ベッドの足元側にバスローブが落ちていることに気付く。そこへしゃがんでバスローブに腕を通してから立ち上がると、ふらつく足を何とかかして洗面所へと向かう。
「くそ……っ、なんで……!」
場のハンガーにかけてあったワンピースを手にして、洗面所の扉を閉める。閉じた扉の向こうで苛立ちを吐き出すような龍悟の怒聲と、拳を壁に突き立てた鈍くて重い音が聞こえたが、涼花にはもうかける言葉も見つからなかった。
ほんじつのむだぶん
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