《社長、それは忘れて下さい!?》4-2. Side:First secretary

旭は月曜の朝から、龍悟と涼花の様子に違和じていた。

まず龍悟に覇気がない。一ノ宮龍悟という人は男の目から見てもを覚えるほど、立つ姿も座る姿も優雅で気品がある。高長で引き締まった軀と端正な顔立ちも魅力的だが、野的なと知的な頭脳を併せ持ち、それでいて格は溫和である完璧で魅力的な存在だった。

だが週明けから、龍悟の點が一ミリずつ削り取られているような不思議な印象をける。それは恐らく、彼を余程注意深く観察するか、接する時間が長い者ではないと気付かないほどの些細な変化だろう。

そしてそれ以上に、涼花に元気がない。秋野涼花という人は元々靜かで穏やかな格だが、決してが暗い訳ではない。他人をよく観察して細やかなところに目を向ける一方で、相手にそれを悟らせないよう上手く立ち回れるような気遣い上手だ。

その涼花も、今週は恐ろしく集中力に欠けている。社員や來客への応対には問題がないが、先週調整した會食の予定変更を伝え忘れたり、データのバックアップを取り忘れるといった普段では考えられないようなミスが多い。

極めつけに、大好きなはずのコーヒーの味が驚くほど安定しない。一杯分の豆で三人分のコーヒーをれたり、ブラックコーヒーをお願いしたのにカプチーノのようなミルクと泡だらけの飲みが用意されたこともあった。

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旭の『違和』が『確信』に変わったのは、水曜の夕方だった。

その日は、グラン・ルーナ社が経営する割烹料理屋『柳亭』の新作メニューに使う魚介類の仕れ先が決まり、社長室でその契約を行う手筈になっていた。

柳亭の板前長たっての希で使用されることになった魚介類は、どれも大きくて旨味が強い上質なものばかり。今日無事に契約すれば秋の味覚シーズンまでにメニュー開発の最終調整が間に合う予定だった。

ところが海鮮問屋の社長が、契約の段階まで來たこのタイミングで突然難を示した。

「やはりこの値段で出せるほど、うちの商品は安くないですよ、一ノ宮社長」

恐らく彼は、本気で契約を渋っているわけではない。しでも自分に利がある條件にしたいというの現れだろう。

だがわだかまりを持ったまま契約を進めるわけにも、時期を考えると決裂するわけにもいかない。ここで契約容を組み直すことも可能だが、それならあらゆる部署の社員が時間と労力を注ぎ込み、商談を重ねてきたこれまでの努力は何だったのだろうと思ってしまう。

龍悟は完璧な笑みを崩さない。むしろ傍で見ていた旭の方が苛立ってしまう。

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を揺らすと龍悟に『落ち著け』と目線で合図されてしまい、仕方がなしにの奧に仕舞い込む。だがこちらを見つめる問屋の社長も不敵な笑みを浮かべたまま何も言わない。

しん、と空気が張り詰める。龍悟はどうしたものかと考えて小さく鼻を鳴らしたが、その直後、靜寂を砕くノック音が部屋の中に響いた。

社長室の応接ソファに腰かけていた両社長と傍に控えるそれぞれの書が、音のした方へ一斉に視線を向ける。

「失禮いたします」

執務室へと続く扉から現れた涼花の手にはお盆が乗せられ、その上には冷茶がったグラスが並べられていた。

契約が長引いているので冷たい飲みのお代わりを持ってきたのだろう。涼花は沈黙を気にせず応接テーブルの傍に來ると、コースターの上にお茶の代わりを置いて行った。

「君はこの契約をどう思う?」

その様子を見ていた問屋の社長が、突然涼花に話題を振った。退室するために立ち上がろうとしていた涼花は、話しかけられたことに驚いてきょとんとした顔になる。

もちろん涼花は今日の契約の容を事前に把握している。だが今までこの場にいなかったのだから、一連の話の流れはわからないだろう。仮にわかっていたとしても、この場合は『私はお答えできる立場にありません』でやり過ごしても問題のない場面だ。

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それに書はあくまで上司の補佐役であり、契約をはじめ會社の運営その他に意見をする立場にはない。當然問屋の社長もそれはわかっているはずだった。

して固まってしまうと予想していたが、涼花は旭の予想と異なる反応を見せた。

「社長にお力添えを頂ければ、弊社としましても大変心強い限りでございます」

涼花が突然、ふわりと可らしい笑顔で微笑んだ。その姿に、その場にいた全員が固まってけなくなってしまう。

時間が停止する。まるで天使の笑顔でも見つけたように、問屋の社長も涼花の表にしばらく見惚れていた。

しの沈黙の後、問屋の社長は顔を赤く染め『あぁ』『うん』『そうだな』の三種類を代わる代わる呟きながら、あっさり契約書にサインをしてしまった。さっきまで渋っていたのは一何だったのかと思うほど、噓みたいに、簡単に。

「失禮いたしました」

涼花が軽く頭を下げて退室していく様子を、龍悟も旭も呆然と見送る。その間もせっせと書類を作り上げていく相手の様子に気付いて龍悟はすぐに我に返ったが、旭はどうにも釈然としない気持ちを抱えたまま殘りの時間をやり過ごした。

契約と確認を終えると、會社のエントランスまで相手を見送り、社長室に戻る。

旭が応接ソファに近付くと、龍悟は足を組んで背もたれにを深く預け、ぼんやりと考え事をしていた。見れば契約を終えた書類も資料も、すべてそこに広げられたままだ。やれやれ、と思いながら書類を集めてまとめていく。

ふと契約書に視線を落とした旭は、先ほどのやり取りを思い出して苦笑いを零した。

「珍しく取引相手に笑ってましたね」

契約がスムーズに済んだのは、間違いなく涼花の笑顔のおかげだろう。先程の涼花の表には、旭もを摑まれるものがあった。あんな笑顔で笑われたら、思わずサインをしてしまう気持ちも十分に理解できる。

それに涼花はいつも気を張り詰めてを押し隠しているので、たまに喜怒哀楽を見せるとそのギャップを強くじる。

涼花の笑顔に見惚れていた相手の顔を思い出したので、何気なく言ったつもりだった。だが龍悟は憮然とした様子で、不満そうに鼻を鳴らす。

「普段は全然笑わないのにな。腹立つよ、本當。何であんな貍親父に……」

「社長。その不機嫌、顔に出てましたよ? 良かったですねー、向こうが涼花の顔見ててくれて。社長の顔見たらせっかくの契約がご破算になるところでした」

「……言うなぁ、お前」

旭の軽口に、龍悟が呆れたように呟く。旭が笑うと龍悟は観念したように、けれど心底不満げに深い息を吐く。

「良い上司でいるのも疲れるな」

「……は? 何ですか、突然」

意味がわからない事を言い出した龍悟に、思わず真顔で返してしまう。眉を寄せて首を傾げると、それを見た龍悟が肩を竦めた。

「秋野の俺の評価は『良い上司』らしいからな」

自嘲気味に笑う龍悟の言葉を聞いて、週明けから龍悟と涼花にじていた『違和』が二人の間に何かがあったという『確信』に変わる。

相手が上司だろうが同僚だろうが取引先だろうが、普段の涼花は淡々と仕事をこなすだけだ。

そんな涼花が取引先の社長に笑いかけたことが、龍悟としては余程面白くなかったらしい。それが作り笑いであることは龍悟も見抜いているだろうし、旭ももちろん気付いている。だが今までの涼花は、作り笑いも上手く出來ないほど何処か気を張っていたのだ。

涼花の心境の変化の理由はわからない。だが龍悟も、本當は『面白くない』と態度や言葉で堂々と示したい気持ちがあるのだろう。しかしそれをすれば、涼花にとっての『良い上司像』から逸してしまう。と龍悟は考えているらしい。

旭の個人的な意見だと、嫉妬や不満の一つや二つで上司の評価が変わる事はない。だがここ數日の様子から二人の間に何かがあったらしいと推測できるので、軽はずみに『そんな事はない』とも言えない。

そっと息を吐く。旭が思うに、龍悟は相當な男前だ。引く手數多で龍悟の人になりたいは掃いて捨てるほどいるが、その理由は龍悟が上司として優れた人だからではない。この男を目の前にして、出てくる言葉が『良い上司』のみとは恐れる。

「涼花も見る目無いなぁ」

「……どうかな。逆に下心までけて見えるから、俺じゃダメなのかもしれない」

一応フォローのつもりで言ったのだが、龍悟には思い當たる何かがあるらしい。龍悟の口振りだと直接NOと言われた訳ではなさそうだが。

(アプローチを綺麗にかわされて、社長が大ダメージ。斷り方を間違って涼花が気を遣ってるってとこかな……)

元気がない龍悟の様子を見て、旭は二人の置かれている狀況をそう予測した。

龍悟は人の仕草や目線、表の変化から相手のを読み解く能力に長けている。だから涼花が龍悟のアプローチをわすのに失敗し、龍悟がそれを察してしまった。

もしこの予想が當たりなら、かなり面白い狀況だと旭は思う。パーフェクトヒューマンと言っても過言ではない龍悟に靡かない人が、すぐ間近にいるとは不思議な気分だ。

「だいぶ參ってるみたいですね」

「そう見えるか?」

「いえ、見えませんよ。ぱっと見はいつもと同じです。ただ最近、溜息が多いですかね」

「……気を付けるよ」

無論、愚癡を聞く程度の事なら構わないが、旭は助け舟を出したり、キューピットになろうなどとは思わない。大人なのだから、自分のぐらい自分でどうにかするだろう。

旭が気になっているのは、龍悟よりもむしろ涼花の方だ。旭の予測が正しいと仮定して、もし涼花が龍悟のアプローチのかわし方に失敗したのだとしても、それぐらいで何日も気にする必要などないと思う。

確かに上司のいは斷り難いだろうが、龍悟は無理強いをする分ではないし、涼花自も嫌な事を嫌だと言えない格でもない。仕事に影響が出るほど涼花が揺する事も無いと思うのだが。

さて、どうしたものか。と考えたところで、執務室へと続く扉から再びコンコンとノック音が聞こえる。

「あ、終わりましたか?」

開いた扉の向こうから涼花が顔を覗かせた。彼は來客が帰ったことを確認すると、使用済みのグラスを片付けるためにお盆を手にして応接テーブルへ近付いてきた。

「社長。二十分ほど前に専務から線がありました。來客対応中なので、終了次第折り返しますとお伝えしてありますので、お電話を……どうなさいました?」

「……いや、何でもない」

涼花がグラスをお盆の上に乗せながらごく事務的な容を伝えていたが、龍悟はまた何かを思い出したらしい。し不機嫌そうな顔をする龍悟の様子を見て、涼花もすぐに俯いてしまう。

旭は目の前で繰り広げられる小さな攻防を見て、そっと苦笑いを零した。

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