《社長、それは忘れて下さい!?》4-3. Re loved
社長室から専務への連絡を終えて三人で執務室に戻ると、涼花は頼まれたアイスコーヒーを淹れながら二人に結果を訊ねた。
「問題なく終えられたんですか?」
「あぁ」
聞こえた龍悟の聲がし不機嫌そうだったので、グラスを並べる手を止めて顔を上げる。問題なく終えたと言う割に、デスクに頬杖をついて契約済みの書類を眺める龍悟はつまらなさそうな表をしている。
彼の言葉と態度が一致していない気がして、涼花は小さく首を傾げた。本當に上手くいったのなら、大喜びとまではいかなくても不機嫌にはならないはずなのに。
「涼花のおかげで上手くいったよ。実はあの時、向こうがゴネ始めたところだったんだ」
「えぇ……?」
旭の言葉に驚きの聲が零れる。開始から二時間が経過しても一向に終了する気配がないので、涼花はお茶のお代わりを持って行っただけだ。それが契約に影響を與えるとは思っていなかったので、急に不安になってしまう。
「私、喋らない方が良かったでしょうか?」
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涼花も場の空気があまりよくない事はじ取っていた。そんな中で先方の社長に突然話題を振られて驚いたが、その瞬間、いつかの龍悟の言葉を思い出した。
『お前が商談のときに笑えば、男どもはすぐに落ちる』
確かに龍悟は涼花にそう言った。言われた時は『そんな訳がない』と思ったが、思考が止まった涼花は、咄嗟に龍悟の臺詞以外の何も思い出せなかった。だから彼のみ通りにしたつもりだった。
涼花はただ仕事に打ち込むと決めた。龍悟の考えている事はよくわからないし、自分の考えを理解してもらうのも諦めた。振り向いてもらえるように、と言っていたがそれも極力気にしない事にした。
仕事以外では一切龍悟に接しない。仕事中は目の前の業務のことだけを考えて、誠心誠意彼に盡くす。他に取柄なんて何もないのだから、龍悟のむようにかなければ、自分には駒としての価値すらない。
せめて役に立ちたい。その一心で笑顔を作った。
その場には鏡もないし、上手く笑えているのかもわからない。話の容は完全に把握していなかったし、龍悟からいつものように目線で指示されることもなかった。だからどう捉えられても當り障りのない言葉を選んだつもりだった。
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今思えば良くない選択だったのかもしれない――そう思ったが、龍悟は涼花の考えを否定した。
「いや、助かったよ」
「……えっと、それなら良いのですが……」
龍悟にお禮を言われた涼花は、言葉を濁しながらアイスコーヒーを作る作業に戻った。濃いめのコーヒーを氷のったグラスへ注ぐとほろ苦い香りが部屋中に広がる。
「じゃあ俺、専務のところにコレ屆けて來ます」
コーヒーの香りが漂う中で、旭が席から立ち上がる。電話で頼まれた資料を屆けに行くようだ。旭の聲に涼花ははっとして顔を上げる。
「あ、藤川さん、私が……!」
「いいよ。俺ついでに用足してくるから。戻ってきたら俺にもコーヒーお願い」
旭はそう言い殘すと、涼花の返事も待たずに書類を手にして執務室を出て行ってしまった。
アイスコーヒーはもう出來上がっているので、涼花が専務の所まで行ってもよかった。もちろん旭が行っても問題はないが、既に部屋を出た彼を追いかけるのも、あまりに必死過ぎて不自然だ。
涼花は龍悟と二人きりになる狀況を避けたかった。もちろん月曜から今日までの間に二人になる機會は何度かあったが、その度に涼花は過度な張狀態を強いられた。出來るだけ不自然な態度を取らないよう努めていたが、勘のいい龍悟の前ではきっとそれが無意味であることも薄々気付いていた。
アイスコーヒーを龍悟のデスクの端に置くと、龍悟が顔を上げて禮を言った。いつもと同じ行なのに、目が合うと涼花の心臓はまた大きく騒ぎ出してしまう。
すぐに傍を離れようとすると、龍悟に呼び止められた。
「秋野、仕事終わったあと、時間あるか? 一緒に飯でも行かないか?」
龍悟の突然のいに、涼花は驚いてまた思考が止まってしまう。先程まで不機嫌だった龍悟だが、今は表に暗さはない。いつもと同じ優しい笑顔だ。
口説き文句そのものは上司と部下のそれだが、長い足を優雅に組み、悠然とした佇まいで涼花をう表には気さえじる。しい人の甘な言葉に、思わず『はい』と返事をしそうになる。だが涼花は自分の理と闘って、必死に現実から目を背けた。
「あの……申し訳、ありません……」
付け足すべき斷りの理由が見當たらず、語尾がだんだんと小さくなっていく。そんな涼花の返答に、龍悟がそっと溜息を吐いた。
「なんだ、口説く隙も與えてくれないのか。弱ったな」
殘念そうな聲をらした龍悟に、涼花はを摑まれたような切なさを覚えた。
出來ればそのいに乗って、仕事の後の時間も龍悟と共に過ごしたい。自分がこうじゃなければ、今夜は人同士の甘い夜を過ごせたのかもしれない。
本當はお互いを想い合っていることを知っている。けれど幸せにはなれない。だから涼花は自分を偽り続けるしかない。こうして『食事に行かないか』とわれても斷る事しかできない。
大好きな人からのいを斷る辛さを悟られまいと俯くと、察した龍悟に謝られた。
「いいんだ。困らせたい訳じゃない」
龍悟の言葉に、涼花は返す言葉も見つからなかった。龍悟に気を遣わせたい訳じゃない。けれどこれ以上近付き過ぎると、辛い思いをすることは分かっている。それに辛い気持ちを味わわせてしまうことも知っている。
「今日は、ありがとうな」
「……え?」
俯いていると龍悟のお禮の言葉が聞こえた。顔を上げると、龍悟はアイスコーヒーを口に運びながら、立ち盡くしている涼花の姿をじっと見つめる。
「お前が笑えば、契約がスムーズに進むと言っただろう」
ごく、とアイスコーヒーを飲んだ後、グラスをコースターの上に戻しながら呟く。
龍悟はいつかの夜、涼花に『お前が商談のときに笑えば、男どもはすぐに落ちる』と言った。『俺のために笑え』とも言っていた。その言葉を思い出す。
「俺の先見の明も捨てたもんじゃないと思わないか?」
にやりと笑った龍悟の野心的な微笑みを見つけて、涼花は思わず頷いてしまった。
仕事の時の龍悟の橫顔はいつも凜々しくて力強いが、敵に回すと恐ろしい目に合う未來が見えてしまう。だが上司としてはこの上なく頼もしく、傍で仕事をしているとその眼差しにやり甲斐や生き甲斐をじる。
けれどその挑戦的な表は、すぐに消えてなくなった。
「でも俺は間違ってた。もう無理して作り笑いなんかしなくていい」
「……で、でも! 私は社長の役に立たなければ……」
「いや、會社としては十分すぎるほど役に立つよ。けどな……」
元気がない龍悟の様子に慌ててしまう。涼花の心配をよそに、龍悟は言葉を切って涼花の瞳をじっと覗き込む。瞳が合うと龍悟がまた違うの熱を帯びていることに気付いた。
「俺が嫌だった。お前が俺じゃない誰かに笑いかけるのを、見たくないんだ」
低くて優しいその聲は涼花の焦燥を煽り、ゆるやかに逃げ道を奪っていく。仕事の話をしていたと思ったのに、次の瞬間にはこうして絡めとるように、甘く熱い聲と視線で涼花を口説こうとする。
「俺には笑ってくれないのか?」
涼花の瞳を見つめたまま、すっと手をばした龍悟の指先が、ほんのしだけ手の甲にれる。涼花が驚いて手を引っ込めると、龍悟がし傷付いたように苦笑いをした。
「……そんな顔をさせたいんじゃない」
龍悟もすぐに手を引っ込めて、大きな椅子に背中を預けた。気だるげな作から龍悟が諦めてくれた気配をじて、涼花はほっとしたような辛さが増したようなの間で揺れいた。
すぐにでもここから逃げたい気持ちになる。役に立つと決意したのにその気持ちがあっさりと揺らぐ不甲斐なさと、龍悟の言葉を否定したい気持ちが芽生える。考えるほどにの奧がきゅう、と締まるような、音のない痛みに曬される。
「悪かったな。俺のわがままに付き合わせて」
「ち、違……!」
龍悟の諦めたような言葉を否定しようと思ったが、涼花は二の句が継げなかった。今の涼花には言い訳をする権利さえない。
「……申し訳、ありません」
やっとの思いでそう呟くと、そのまま自分の席に戻る。
旭が帰って來るまで執務室の中には沈黙が続き、涼花は龍悟の言葉を頭の中で反復しては自分を責める辛い時間を無為に過ごした。
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