《社長、それは忘れて下さい!?》4-7. Teach emotions
龍悟のマンションには以前も來たことがあるが、改めてよく見ると玄関も廊下も洗面所も驚くほど広い。どう考えても単向けの部屋ではない。明らかにファミリー向けの部屋を見ると、実は龍悟は結婚して子供がいるんじゃないかとさえ思ってしまう。
だが洗面所に置かれている歯ブラシは一本だし、タオルも使用品と予備の二枚しか置いていない。
手を洗い終えてリビングへると、やはりリビングも広かった。この大きさに馴染んでいるのなら、龍悟がホテルの部屋を狹くじるのもし理解できそうだ。
「……この本」
ふとローテーブルに近付くと、その上に何冊もの本が積み上げられていることに気が付く。置かれた本は評論にエッセイ、雑誌や専門書など様々だが、表紙や背表紙を見た涼花は驚きの聲を上げてしまった。
そこにあったタイトルには『人の記憶の世界』『思い出を旅する』『脳の仕組みと記憶の図解』『忘れ予防』『脳と海馬の科學』『忘れた記憶の取り戻し方』といったワードが並んでいた。
この大量の本の意味に気付いた涼花は、思わず龍悟の姿を振り返る。彼は涼花と過ごした夜を忘れてしまったことを悔やんで、どうにか自分で思い出す方法を模索しているようだった。
「々読んでるんだが、どれもピンと來なくてな」
涼花が今夜この部屋を訪れることになるとは、今朝出勤する前の龍悟は考えてもいなかったのだろう。読みかけ狀態の本の山を発見された龍悟が、困ったように頭を掻く。龍悟のささやかな努力を知り、涼花のの奧にはまた熱が宿った。
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それからふと、移中の車の中で居眠りをする様子を思い出す。
「それで最近、寢不足なのですか?」
「お、心配してくれるのか?」
「當り前じゃないですか!」
嬉しさや申し訳なさの前に、龍悟が自分のためにを削っていることにが痛む。冗談めかして誤魔化した龍悟に真剣に怒ると、龍悟は笑いながら涼花の頭をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だ。俺が勝手にやってることだしな。それより、し手伝ってくれ」
涼花の注意を本から逸らそうと目線で合図される。その指示に従って広いキッチンと壁を埋める巨大な食棚の間に移すると、龍悟は涼花にも次々と食事の準備の指示を出した。
龍悟の言う高級は下処理どころか既にほとんどの調理工程を終えており、冷蔵庫の中でローストビーフになって寢かせてあった。件の特製ソースも完していたので、涼花はメイン以外の料理の準備を手伝う。
だが龍悟に指示されたのは、冷凍庫でシーリングされていたスープと魚の切りをボイルで解凍して皿に盛り付ける事。そして野菜室から野菜を選んでサラダを作る事だけで、それもあっと言う間に終わってしまった。
龍悟は冷蔵庫の奧から紙製の小箱を取り出すと、中にっていたグリーンとサーモンピンクのテリーヌを切って皿に乗せていく。それが終わると食棚の橫にあった小さなワインセラーを覗き込み、ワインを味し始めた。
涼花は龍悟を待つ間、完した料理とカトラリーをダイニングに並べていく。溫められたミネストローネから広がるトマトの酸味と、新鮮な野菜のサラダの合いと、ローストビーフのしいフォルム。
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「これはもう……お店ですよね?」
涼花がして呟くと、龍悟は『そうか?』と笑顔を浮かべる。しばしワイン選びに悩んでいた龍悟も、ようやく今日の一本を決めたようだった。グラスと一緒に運んできたボトルは、涼花が知らないラベルだ。絶対高いワインだと分かったので値段はあえて聞かないことにする。とんでもない値段を言われたら、料理の味がわからなくなってしまいそうだ。
「料理の組み合わせはかなり変だけどな」
苦笑する龍悟の臺詞には涼花も同意する。メインのローストビーフのソースは和風。シーザーサラダはメキシコ料理で、テリーヌと鱈のソテーはフランス料理、ミネストローネはイタリア料理で、ワインの産地はアメリカだ。確かにこんな組み合わせは、店のコースにはない品書きだろう。
「デザートもあるぞ。チョコレートケーキか、プリンか、アイスクリーム。全部でもいいけどな」
「だめですよ。そんなに食べたら絶対太ります」
涼花が口を尖らせると、龍悟も楽しそうに笑い出した。
二人揃って食卓に著くと龍悟がワインのったグラスを持ち上げる。
「乾杯。今日もご苦労さん」
「ありがとうございます……いただききます」
龍悟の言葉に禮を述べる。お店のコースと違って料理は最初から全てテーブルに並べられているし、ここには龍悟と涼花の二人しかいないので細かい作法は要求されない。味しい食事とワインを前にしても面倒な手順やルールを気にしなくて良いことが、涼花にはとても気楽で心地よかった。
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龍悟が作ったというローストビーフはナイフをれるだけでらかくほどけた。高級店直伝のソースがしい薄紅の繊維にり込み、上質なの甘みと旨味をさらに高めているようだ。そのをフォークで口に運ぶと、口の中に赤の旨味と玉ねぎと醤油のソースの香りがじゅわっと広がっていく。
「わぁっ、味しいです!」
折角のの味をよく味わおうと思ったのに、無意識のうちに飲み込んでしまった。このローストビーフの味とらかさはどう考えても一流料理店の品質だ。料理人じゃない一般人が自宅で作れるなんて涼花には到底考えられない。
やや興気味に想を告げてから、龍悟が驚いた顔をしていることに気付く。視線が合うと、涼花は急に恥ずかしさを覚えた。
「申し訳ありません……はしゃいでしまって」
「いや、いい」
龍悟は平気だと呟いたが、視線はふっと逸らされてしまう。とく見ると龍悟の顔にはすでに赤みがさしていた。
「社長、顔赤いですよ? もう酔ったんですか?」
「お前、ほんとに酒強いな」
「普通ですよ」
ワインだってまだ一口しか飲んでいない。龍悟のグラスの中は涼花よりし減っているが、まだ酔う程ではないだろう。
涼花はローストビーフだけではなく、シーザーサラダや鱈のソテーにもしずつ口を付けた。テリーヌだけは既製品のようで涼花にはし塩辛くじたが、まろやかな口當たりでやや軽めのワインとは相がいい。
「スープも味しいです」
「そうか、よかった」
スープとソテーは冷凍庫の中で綺麗に圧保存されていたが、恐らくこれも龍悟が作ったものなのだろう。素直に想を述べると、安堵の表を浮かべてくれた。
「社長はご自でもお料理されるんですね」
「まぁ、そうだな。大抵のものは作れると思うが……」
龍悟は基本的に食べる事が好きだ。もちろん涼花も好きだが、龍悟は仕事だけではなく趣味でさえも食べる事だと聞いたことがある。
出來るだけ他の社員と同じ勤務時間に仕事をこなすようにして、業務後の時間はどこかのお店にご飯を食べに行っている。以前、この業界にを置く上ではそれも大事な仕事だと話していたが、まさか自分で料理をしてもこんなに本格的で味しいものが作れるなんて想像していなかった。
「豚骨ラーメンだけは、ここでは調理しないようにしてるが」
「匂いがしますもんね……。って、え? じゃあ豚骨以外のラーメンは作るんですか?」
「たまにな。秋野はラーメンは何が好きなんだ?」
「私は……そうですね~、醤油ラーメンが一番好きです」
「そうか。じゃあ今度作ってやる」
ラーメンの話になったので涼花が自分の好みを話すと、龍悟がごく當然のようにそう言った。
「えっ……と?」
龍悟の何気ない一言に咄嗟に頷くことが出來ず固まってしまう。ローストビーフと違ってラーメンは作り置きが出來ないし、作ったものを會社に持って行く事も出來ない。つまり龍悟の言葉は『またこの家に來る』事を意味する。
「……悪い。今のは俺の願だ。秋野は気にしなくていい」
龍悟もすぐに気が付き、自分の言葉を訂正した。それからし困ったように目を細めて、自分の軽率さを悔やむように息をつく。
「舞い上がりすぎたな」
「……社長?」
「最近、ずっと俺の事を避けてただろう。避ける、とは違うが……俺に気を遣って、必要以上に近寄らないよう警戒されて、困らせてるのはわかってた」
核心をつくような言葉を並べられると、に針がつかえるように錯覚する。
龍悟がじていた涼花の言は、指摘の通りなので否定はできない。何も言えなくなった涼花の瞳を見つめて、龍悟は寂しそうな笑みを零した。
「俺の家で、俺の作った飯を食って、目の前で笑ってくれる事が嬉しくて……ついが出た」
その言葉は涼花の心の奧に切なく響いた。改めて龍悟の想いを知ることが出來て嬉しいと思う反面、どんどん自分がけなくなってくる。
無言のまま最後に殘したローストビーフを口に運ぶと、あんなに味しかったはずのの味が、何故かまったくわからなくなっていた。
理由は知っている。涼花がまた、逃げようとしたからだ。懸命に想いを伝えてくれる、目の前の想い人の熱い気持ちと優しさから。
「私……社長に伝えないといけないことがあるんです」
カタン、と小さな音が響き、涼花の手からフォークが離れた。顔を上げると龍悟は涼花の決意に気圧されたように首を引いたが、すぐにいつものように涼花の話を來てくれる姿勢を示した。
「何だ?」
「社長に、噓を教えてたんです」
涼花も知らなかったのだから、噓というのは違うかもしれない。だが誤報を伝えていた、という意味では同じだ。
不思議そうに首を傾げた龍悟に、以前話した涼花の質をもう一度告げる。
「私の事を抱いた人は、私と過ごした時のことを忘れてしまうという話……本當は違っていて」
「……」
「抱いたら、ではなく……キスを、すると……忘れてしまうみたいなんです」
涼花の告白を聞いた龍悟は、ぽかん、と間の抜けた表のまま固まってしまった。その顔を見て、また自分が場違いな告白をしてしまったとじる。
「申し訳ありません。訂正しても相変わらずファンタジーで……」
「いや、そんな風には思ってない」
いつかの龍悟の言葉を借りて謝罪したが、龍悟は苦笑しながらその言葉を否定した。
けれど今の言葉で、勘のいい彼なら気付いただろう。最初に涼花を抱いた時と薬を盛られた時に、その記憶を失わなかった理由。パーティの後にホテルで過ごした一夜の事を忘れている理由。
すべて原因は同じ。涼花とキスをしたか、しなかったかの差に他ならない。
「それでも、私は……」
小さな聲が空になった皿の上に落ちて吸い込まれていく。
これ以上近付くと自分も辛い思いをするし、龍悟のことも傷付けてしまう。同じ傷ながら深りせずに諦めた方が、痛みは軽く痕もなく済む。
勝手にそう決めつけて、龍悟の気持ちを蔑ろにして、気恥ずかしさも相まって、涼花は逃げていた。冷たい態度を取ってしまった。
けれど、本當はいつも嬉しかった。旭が言うように、結局は自分の気持ちを変えられないし止められなかった。
「社長が私の事を好きだと言ってくれて、本當は嬉しかったんです。こんな自分はもう嫌だって思うのに……私も、社長の事が好きで……。止められ、なくて」
好きだから、れたいし、れられたい。
気恥ずかしくて、嬉しい。想いに応えられないことが申し訳なくて、苦しい。
この先もずっと背反するの中で揺れきながら仕事を続けるのか、いっそ傍を離れるのかの二択しかないと思っていた。
けれど、涼花はしだけ考え方を変えることができた。自分にはなかった発想を知って、しだけ前向きになれた。
「れてしくて。本當は……忘れてないでほしくて」
忘れてしくない。
覚えていてしい。
まだ解決策はわからないし、一生解決することがないかもしれない。けれど、今の気持ちを伝えることは出來る。言葉に出して、自分の想いを知ってもらう事は出來るから。
溢れ出る想いを一方的に話し続けているうちに、目頭の奧がツンと痛んだ。
涙が出てしまうかもしれない、と思った瞬間、涼花はその場に立ち上がった。ただでさえ迷をかけているのに、泣いてしまったら龍悟をさらに困らせて、気を遣わせてしまう。そう思って背を向けたが、後を追うように立ち上がった龍悟の腕が涼花の肩にびてきた。
気配をじた次の瞬間には、涼花は龍悟の腕に捕まっていた。後ろから抱きすくめられたと気付くと、驚きで涙も引っ込む。
「……困ったな。今すぐお前にれたいのに、また俺は忘れるのか」
龍悟の吐息が耳朶を掠める。すぐ背後でじる熱に、がぴくん、とが跳ねる。
後ろから肩を抱く龍悟の手がき、指が顎先を捉えた。涼花よりもずっと太くて力強い指が顎と頬をで、ワインに濡れたをゆっくりとなぞる。
「ここに、したい。でも……忘れたくもないな」
耳元で低く囁かれ、腰と背中の境目にゾクリと電流が走る。
今、キスをしたら龍悟はまた忘れてしまうかもしれない。涼花の懸命の告白も忘れてしまうのかもしれない。そう考えたら、心がまたずしりと重苦しくなる。
「秋野……名前を、呼んでもいいか?」
涼花が直していると、龍悟が耳元で別の要求をした。涼花が小さく顎を引くと、龍悟はまた一層低い聲で耳元に囁く。
「涼花」
確かな甘さを含んだ聲音で名前を呼ばれると、ぞくんっとの奧が痺れてそのまま腰が抜けそうになってしまう。
龍悟はさらに涼花のをでながら、空いていた反対の腕を降ろして、ぐっとお腹を抱き寄せた。
が著すると、もう一度名前を呼ばれる。その甘な音がじわりと鼓を震わせ、同時にピク、とが反応する。
龍悟は一瞬だけを離し、涼花のの向きくるりと変える。そして今度は、正面から優しく抱きしめられた。
「涼花……俺がまた忘れたら、全部教えてしい」
顎の下に指を添えて上を向かされると、じっと瞳を見つめられる。龍悟は何かを決意したように真っすぐな瞳で涼花を見つめたが、黒い瞳の奧にはまだ微かな戸いがあった。
「記憶を無くせば、俺はまたお前を傷付けるかもしれないが……」
その戸いを自分自で認めるように呟く。認めた上で、覚悟した上で、それでも涼花の心の奧深くに――すべてにれようとしている。
「お前の言う事は全部信じる。だから涼花……れさせてしい」
そう言ってまた親指の腹がの郭をそっとでる。龍悟は指先でのを確かめながら、懇願するように涼花の瞳を覗き込んだ。
「嫌か?」
「……嫌じゃ、ないです」
嫌だなんて、あるはずがない。
涼花はもう十分すぎるほど知っている。龍悟が全てをけれてくれることを。記憶を無くしても、ちゃんと好きだと言ってくれることを。
「教えます。全部、話します。あなたが私の話を、信じてくれなくても……」
龍悟にはたくさん教えてもらったから、今度は涼花が教える番だ。きっと忘れてしまうだろうけれど、今度は全てちゃんと話す。逃げずに、誤魔化さずに、ありのままの出來事と自分の気持ちを伝えたい。
「私はあなたが好きですって……ちゃんと……っん」
一生懸命に伝えようと思ったが、降りてきた龍悟のに先の言葉は全て奪われた。れたはすぐに離れたが、お互いの視線が絡むとまたすぐに奪われる。
後頭部に回された手のひらが、舌の熱さに驚いた涼花の逃げ道をゆるやかに塞ぐ。獲を捕らえるように何度も名前を囁いた龍悟は、さらに強い力で涼花のを抱き寄せた。
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