《社長、それは忘れて下さい!?》EX_1. Cosmos Melody 後編

「何かあったか?」

龍悟にそう訊ねられたので、ハッと我に返る。顔を上げて視線が合うと、彼はその聲音以上に心配そうな顔をしていた。

「話したくないなら、無理には聞かないけどな」

と言いつつ、本當は気になっているのだろう。マンションに到著してリビングにるなり、また調不良なのかと心配されてしまった。

世の中には考え事をしながら行や作業をこなせる人もいるが、涼花は考えていることとまったく別の行をすることはあまり得意ではない。思考を優先するときが鈍るので、すぐにこうして調不良を疑われる。

もう一度『大丈夫』と呟いてはみるが、納得していないらしい龍悟の眉間には深い皺が刻まれてしまう。

「……聞いても、嫌な思いをさせるだけです」

だからこれ以上聞かないでしい、と願いを込めて呟く。とはいえ、自分自が今夜は寢るまで同じ事ばかり考えてしまう気がしている。

人と一緒にいるのに、他のことに思考を奪われて離れられない狀態は相手に失禮だろう。それは理解しているが、無意識のうちに考えてしまう事には抗えない。だから考えてしまうのは諦めるとして、せめて龍悟には意識させないようにしようと、思ったのに。

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「嫌な思いなら、もうしてるぞ」

一人で何とか踏ん切りをつけようとしていたところを、あっさりと看破されてしまう。

人が暗い顔で悩んでるのに、俺は何もできずに見てるしかない。最悪な気分だ」

おまけに言い方が悪かったのか、龍悟の機嫌を損ねてしまったようだ。

不運な出來事と負のはこうして簡単に連鎖する。涼花の頭の中には、また別の心配事が生まれてしまう。

ジャケットをいでダイニングチェアの背もたれにかけた龍悟の手が、そのまま涼花の腕を摑まえた。きを封じられて再び視線が合うと、龍悟の表がサッと曇る。だからすぐに気付いてしまう。どうやら涼花の方が、よほどひどい顔をしていたらしい。

「……申し訳ありません」

その時點で、諦めがついた。素直になった方がいいのだと悟る。

「さっきお店の前にいた男……前にお話した學生時代の、元人、です」

「!」

その言葉だけで先ほど涼花に何があったのかも、涼花の心も、龍悟ならすべて理解できるだろう。彼は一を言えば十を理解できるほど頭の回転が速く、記憶力も良い。

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「何かされたのか?」

龍悟は実際の出來事よりもし広い範囲のことまで想定したらしく、心配そうに訊ねられた。だからすぐにふるふると首を振る。何かされたというほどではないけれど。

「『付き合ってたって言っても別に深い仲だったわけじゃない』と、言われてしまいました」

先輩は無意識のまま、無自覚のまま、無遠慮にそう言った。

それも仕方がない。今になって思えば、あの時の先輩は何も悪くなかった。強いて悪かった點をあげるならば、涼花の『怖い』という気持ちを酌めなかった事ぐらいだ。けれど涼花もそのを伝える努力をしていなかった。

だから先輩は悪くない。悪かったのは大部分において涼花の方だ。

「先輩にとっては、そうなんですよね。もう過ぎたことですし、わかってはいたんですが……」

わかっては、いる。先輩はあの日々の中で、涼花との行為を何一つとして記憶していない。実際はどうあれ、彼の中で『淺い関係』ということで完結しているのが現実だ。

龍悟に言わせれば『ファンタジー』、旭に言わせれば『ミステリー』らしいこの特殊な質は、自分ではなく相手に影響を及ぼすもの。相手の意思とは無関係で、涼花が歩み寄る努力を怠った結果に生じるものだ。

それは理解している、けれど。

「改めて言葉にされると、私、何だったんだろうなって。後から言われたこととか、ちょっと々……思い出して……」

「涼花」

忘れられたことそのものの原因は、確かに涼花にあった。けれどその後、悲しい扱いをけた事実がある。辛い言葉を投げつけられた事実がある。警察沙汰一歩手前の騒に発展して、心がり切れてしまうほどに泣いた事実もある。

だから忘れようとした。忘れて生きていくほうが楽だと思っていたし、辛いごと自分の記憶を消したかった。

思い出したくなど無かったのに、こうして不意に思い出してしまった。あぁ、なんとなく嫌だな……なんて軽い喪失で済むぐらいならよかったのに。

「バカなのか、お前。泣くほど辛い事を一人で溜め込むな」

そう言われて思いきり抱きしめられて、ようやく自分が泣いていることに気がついた。指摘されて初めて、ぼろぼろっと大粒の雫が目から溢れ出した。思い出したくなくて一生懸命蓋をしていたのに、結局冠水して、決壊してしまった。

せめて涙を拭おうと腕をかした。けれど優しい人の力強い腕が、自分で辛さを拭う切なさを掠めとった。

「りゅ、……、ふ」

回された手のひらにぽんぽんと背中を叩かれると、また涙がぽろぽろと零れてきた。彼の名前を呼ぼうとしたが、聲にもならない。

立ったまま抱きしめられていたが、何度か肩を揺らして嗚咽をらすと、を離した龍悟に優しく手を引かれた。導かれるままその手にを任せると、ソファの上にそっと座らされた。隣に腰掛けた龍悟の腕に頭を抱えられると、安心したせいか再び涙が溢れてきた。

その間、自分が何を言ったのか、それとも何も言わずにただ泣いていたのかもわからない。ただ気が済むまで腕とを貸してくれた龍悟の溫度をじていると、不思議と気持ちが落ち著いてくる。

しばらくそうしていると、そのうち涙が引っ込んで、徐々に思考が復活してきた。

すんっ、と鼻を鳴らす。涙は出たが鼻水は大丈夫だと思ったのに、無意識に啜り上げる自分の行に気付くと『鼻水も出てしまったのか』と焦った。ほぼ同時に涼花の様子に気付いた龍悟が、ローテーブルの上に置いてあったボックスからティッシュペーパーを引き抜いて涼花の顔に押し當ててきた。気恥ずかしい心地のまま、顔を背けて鼻をかむ。

「落ち著いたか?」

鼻をかみ終わると、龍悟が顔を覗き込んで訊ねてきた。もともと人ではないのに、泣いた後ならよりいっそう不細工な顔をしているだろうから、あまり見ないでしいのに。

申し訳ない気持ちで頷くと、龍悟がふっと笑顔になった。

「大丈夫だ。俺は忘れないから」

「……それ、フラグですよ。次、忘れる前れだと思います」

「おい。どんな種類の予言なんだ、それは」

龍悟の教育と旭の助言のおかげで最近しずつ言えるようになってきた冗談を口にすると、龍悟が頭を抱えて『勘弁してくれ』と呟いた。気恥ずかしさを誤魔化すための拙い冗談にもちゃんと笑ってくれたので、涼花も笑い返すことが出來る。

「本當に殘念な奴だな。お前の『元』彼氏は」

涙も鼻水も引っ込んだ頃、龍悟がそんな言葉を呟いた。一つのワードだけやけに強調したのは、涼花に現狀を思い出させるためだろう。現在の人は自分なのだから、そのことを忘れてもらっては困る、と暗に言い含められる。けれど彼は怒っているわけではないらしい。むしろ勝ち誇ったようにフンと鼻を鳴らされた。

「俺はされてるからな。仮に忘れたとしても、涼花にちゃんと教えてもらえる」

誰に向かって勝ち誇っているのだと思ったが、口にはしない。それより突然出てきた次の言葉があまりに恥ずかしすぎて、納得して聞きっている場合ではなくなってしまう。

「あの男は、何も知らないままだ。涼花がどんな顔で達くのかも、どんな聲で啼くのかも」

「ちょっ、と!? 何言ってるんですか!」

められたのかと思ったが違ったらしい。

嫉妬というほど明確なではないと思われるが、涼花の『初めての男』に遭遇してしばかり面白くないとはじたようだ。

「お前のすべてを知ってるのは、この世で俺だけ。俺しか知らない。……そうだろ?」

憮然とした態度で言われ、恥ずかしさで言葉に詰まる。

現実として涼花には龍悟以外の男とも経験がある。だが相手がその行為の一切を記憶していない以上、涼花のすべてを知っている男は龍悟だけという理屈は間違っていない。

だから否定の言葉は出てこない。素直に認めるのもかなり恥ずかしかったが、なんとか頷くと機嫌が戻った龍悟にそのままを重ねられた。

恥ずかしい心地でキスに応えると、し離れた龍悟がふっと笑顔を浮かべる。指先が耳元にれると、意図せずピクリとが反応する。けれど龍悟はその反応まで楽しむように、さらに耳や髪に指を絡ませた。

「他の男に傷付けられたことなんて、もう二度と思い出さなくていい」

「……はい」

この人はどうして、こんなに心を摑まえるのが上手いのだろう。

黒い龍の雙眸に捉えられれば、勝つことも逃げることも出來ないのだと本能的に悟ってしまう。あるのは敗北のみ。ただ心を奪われて、なすがままにを任せることしかできない。

――けれど、それでいい。龍悟は涼花を傷付けない。むしろいつだって心の隙間を埋めるようにひび割れを潤し、何かの魔法をかけるように涼花の傷口を癒していく。涼花はそれを知っている。

龍悟の方が、よほどファンタジーだ。不思議なことにもう先輩の顔も、過去に何を言われたのかも思い出せない。

「涼花……」

「ん……」

記憶力はいいはずなのに、再び名前を呼ばれてを重ねられると、思い出そうとしていた行まで何処かへ飛んで行ってしまう。聖なる神龍のような瞳に抜かれ、おしさと畏れをに抱いたまま徐々に深くなっていくキスに応じる。

何かのスイッチがったらしい龍悟は、口角を上げると自分のネクタイの結び目に指をかけた。

「涼花にも、俺のことをもっとちゃんと知ってもらおうか。他のことを考える暇もないぐらいに、な」

熱い指先と視線に負けて、涼花の思考はあっという間に崩れていく。何も考えられなくなっていく。そうして中が無くなったの中に新しい知識と経験を植え付けると、龍悟は今日もまた高らかに宣言するのだ。

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