俺は、ゆっくりと本を閉じた。

もちろん、この先を読み進めていけば、俺が求めている事実はすべて記されているだろう。

だが、それを見るのはまだな気がする。

勢いもなく、俺はベッドに倒れ込んだ。文化祭と、その後の打ち上げの疲れがやはりたまっているのだろう。

すっと瞼を閉じれば、すぐに意識は深く深く沈み込んでいった。

夕焼けほど儚さをじさせるものはないのではないだろうか。

 オレンジとも紫とも言えない中途半端な空は、今まさに闇に包まれようとしている。

 そこに無機質にびる飛行機雲。

 晝間は煩かった遊園地の喧騒も、今では噓のようだ。

 普段ならひどく気になるであろうゴンドラの軋みも、今は心地よくじる。

 もうすぐ、か……

 年とが向かい合って乗るその観覧車のゴンドラは今まさに最高點に到達しようとしていた。

 年の向かいに座るは、し茶っぽい髪を揺らしながら、靜かに外を眺めていた。

 西日のせいか、頬は紅しているように見える。

 年は一息置き、あのさ……と切り出した。

 想いの丈を、彼を想う気持ちを、年はまっすぐに、へ告げた。

 は一瞬戸うような仕草を見せたが、すぐに年を正面に見據えると、潤んだ瞳で心の底からの笑顔を咲かせた。

 ……剎那

 年の視界は白に塗りつぶされた。

 先ほどまで視界の真ん中にあったの顔も、しい夕焼けも。

 全てはその純白に、閃に、かすめ取られてしまった。

ふと瞼を開く。

橫向きに寢ているおかげで、部屋の窓から差し込むが俺の目を完璧にとらえた。

その眩しさに耐えかねて俺は上を起こす。

「また、あの夢……」

俺は、我知らずそう呟いていた。

脳裏に浮かぶのは、先ほどまで見ていた夢の景。

自信を包むように広がる橙の。わずかにじていた恐怖と、張。そして、耐えられないほどのの高鳴り。

それらすべてを思い出すだけで、果てしないほど心が締め付けられる。

……この夢を見るようになったのは、いつごろだっただろうか。たしか、中學にってからだったと思う。

そうして、記憶の奧に手をばそうとした瞬間、鈍い痛みが頭を貫いた。

いつも、この夢のことを考えてしまうとこうだ。まぁ、俺にとってもあんまりいい思い出ではないのかもしれない。だから、無意識的に思い出さないようにしているのかもしれないな。

とりあえず自分の中で決著をつけ、カーテンを開く。

それと同時に朝のが部屋の中にり込み、俺の部屋は一気に明るくなった。

そして、いつものようにデジタルの時計を見遣る。この、カーテンを開けて時計を見るというのは何年も続いている朝倉馨のモーニングルーティーンだ。

しかし、いつもと違う點が一つ。見遣った時計の表示が明らかにおかしかった。

そこに表示されているのは、１１：５２という數列。

あれれー？　おかしいなー？　學校には八時までに行かなきゃいけないのになー？

「完全に遅刻だっ！」

直後、俺は全力で支度を始めた。流れる様な作で制服とバックを部屋から持ち出し、一階へ。そして、食パンを咥えながら制服をにまとい、ネクタイを締める。

寢癖直したり、顔を洗ったりとしたいことはまだまだたくさんあるのだが、そんな悠長なことは言ってられない。リビングに置いておいたスマホを最後に手に取り、俺は家を飛び出した。

そして、いつもの如く自転車に飛び乗る。

「お、馨さんおはよーございます！　今日はゆっくりなお目覚めでしたね！」

「そんな悠長なこと言ってられねぇっての！　あーもうっ！　今まで積み上げてきた無遅刻無欠席が……」

「なんだか、変なところで真面目ですよね、馨さん」

「ほっとけ！」

……まぁ、そんなことはどうでもよい。今はしでも早く學校につくことだけ考えなければいけない。しかし、漫畫などでよく見るパンを咥えながら走るやつ。

俺がチャリに乗ってるせいかもしれないが、これは意外に難易度が高い。

食パンの３分の１ぐらいを咥えているわけだが、これを噛みちぎらずに長時間加えておくというのは見た目以上に難しい。さらに、風で後ろにたなびくのでかなりきつい。

「なんでまた、今日は寢坊を？」

「あー……昨日の晩は考え事してた」

その俺の答えは、半分噓で半分本當だ。

昨晩行われた、あの文化祭打ち上げ。そこであったことと、そこから勝手に持って帰ってきたもの。

あの本を読むかどうか、俺はかなり悩んでいたのだ。

結果、最初のしだけを読んで、読むのをやめた。

「ふーん。ま、いいですけど、パンなんか咥えて登校してたら、とぶつかっちゃいますよ？」

「な訳あるか」

と、ティアの軽口を流して、俺はパンをごくりと飲み込む。

その時。

「～～～～～～！」

片手でのどを摑んでじたばたする俺。

そんな俺に向けられるティアの怪訝な目線。

「どうしたんですか？」

「パンが……！　の、のどに……！」

ぱっさぱさのパンだけを無理やり飲み込んだのだ。

そりゃあ、のどにも詰まるだろう。……ちょっと待って、マジで死ぬ。

「ん……んはあっ！　……死ぬところだった」

「馨さん！　前見てっ！」

死線をさまよった俺だったが、なんとかパンがのどを通ってくれた。

安堵する俺にティアが何やらぶ。

なに？　前？

……と、ここで時間が急にゆっくりと流れだした。

もちろん、実際にはそんなことなんてないのだろうが、なくとも俺はそうじた。

俺が乗る自転車の正面に立っていたのは、まごうことないだった。

特長的なのは、左右に分けられた長い金髪。

芥川龍之介の、蜘蛛の糸。あの話で出てくる糸はしい金だったという。

きっと、その糸を束ねたら、彼のようなしい髪が出來上がるのではないだろうか。

こちらを真っ直ぐに見つめる瞳は澄んだ緑を湛えている。その奧は、覗いてしまったらきっともう戻って來れないのではないだろうか。なにから？　などという前提が整っていないにも関わらず、そうじた。

俺と、彼の距離はもう２メートルもない。しかも、自転車に乗る俺は彼の方に向かって高速で突っ込んでいる狀況だ。

なのに、それなのに。

彼は驚きや恐怖に顔を染めるでもなく、ただただ口を引き結んでいた。

明なガラスのような無機質さで、ただ俺を見つめていた。

「うわあああっ！」

全力でブレーキを掛けるがきっと間に合わない。

願うような思いで俺が目を瞑った、その時。

がたん、とを貫くような衝撃が俺を襲った。

きっと、あの子を俺は……

そろりと瞼の間から覗くように目を見開く。

そこにあったのは。

「大丈夫ですか？」

そこにあったのは、先ほどと寸分たがわない無表の彼だった。

さっきの聲はもしかしてこのの？

「あ、あぁ。君は？」

「問題ありません」

彼は抑揚なくそう答えると、俺の橫を通り抜けるように歩き出した。

ちょっと待った。さっきは絶対、俺の自転車が彼にあたるはずだった。あの距離でブレーキなんて効くはずがない。

なのに、彼にれる直前、俺の自転車はきを止めた。

「待て！」

俺は我知らずそう言い放っていた。

橫を通り抜けようとしていた彼はこちらに振り向く。

「どうしたのですか？」

「え、あ……いや、どこに行くんだ？」

「この世界では、初対面の人に行き先を尋ねるなんてことも普通なのですか？」

俺の質問も、何も考えずただ口をついたものではない。

彼の長を考えるに、大きくて中學生、もしかしたら小學生かもしれない。

そんな彼がこんな時間に學校にも行かず何をしているのだろう。

そんな意図を含んだ質問だったのだ。

しかし、彼はそれにただ無に答えた。

「ごめんなさい。あまり時間もないので」

そう言うと彼はすたすたと俺と逆方向に歩き出した。

「……なんだったんだ、あの子……。ティア、知ってるか？」

先ほどの彼の背中を見送りながら、俺はティアに問いかけた。

しかし、応答はない。

「……ティア？」

訝しく思った俺は、自転車のかごに収まるスマホを見る。

そこにいたティアは、明らかに様子がおかしかった。

「あ……な、な……んで……？」

いつもは余裕たっぷりにニコニコ笑っている彼が、カタカタと震え、腰を抜かしている。

「どうした、ティア？」

「か、馨さん……？　ぁ、馨さんだ……馨さん、だ……」

「だからどうしたってんだよ。もしかして、あの子の好度が何かおかしかったとかか！？」

あまりにも話しが進まないので、俺は一つの可能を彼に尋ねてみる。

しかし、彼は首を橫に振り、一つのグラフを表示させた。

その帯グラフは、全が灰で染まっている。

「いえ……彼に好度なんて概念は存在しませんよ……。でも、なんで……」

「好度が、ない……？」

「……えぇ。そんなもの、必要ありませんから」

「必要ない？　好度が必要ない？　意味が判らないんだが。なんだよ、それ……おい、ティア！　聞けっ！」

目を虛ろに震えるティア。

彼が、登校中に口を開くことはもうなかった。