《本日は転ナリ。》7.決戦前夜
"あれは……、夢? "
俺がぼうっとする頭のままゆっくりと目を開くと、「あっ瑠おはよっ、よく眠れた?」と、いつもと変わらない莉結の聲が響いた。
窓の外はすっかり暗くなり、街路燈のが暗闇に點々と浮かび上がっている。そして室照明の白いに照らされた部屋には、何処からか紅茶の良い香りが漂っていた。
俺がふと顔を上げると、莉結がトレーに乗せたティーカップをテーブルへと置くところだった。
記憶が殘る頃からの馴染である莉結は、昔から俺の家では勝手にお茶を淹れたり、菓子を食べたりするのも當たり前なのだが、何処から出してきたのか分からない見たこともないようなお灑落なティーカップを使っている。
「どうかしたっ?」
「ん?    あぁ、別になんも。そんなコップあったっけ?」
    とは言ったものの、頭の中ではぼんやりと記憶に殘る"先程の事"がちらついている。
"瑠"、あの時の莉結は俺をそう呼んでいた。でも、昔から俺の事を瑠と呼んでいる莉結が二人きりの時にそう呼ぶはずがない。しかも……、あのらかな。馴染の莉結が俺にそんな……。有り得ない。ましてや今の俺はなんだ。でもあんなにもリアルな夢が……。
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「ねぇ、聞いてる?」
突然、莉結が俺の顔を覗き込んで不機嫌そうに言った。
「えっと、ごめん。何だっけ?」
「何だっけ、じゃないでしょっ? 自分から聞いといてさっ。このコップ、昔一緒に行った小學校のバザーで買ったやつじゃん」
    俺はそんな事聞いたっけ、なんて思いつつも納得する素振りを見せる。
言われてみれば、母の日かなんかのプレゼントを莉結に選んでもらった事がある気がする。ていうかこのコップを見た記憶が無いって事は、結局使われずにずっと仕舞い込まれてたようだけど。
そんな過去の記憶を振り払うと、先程から頭にチラついている"あの事"についてそれとなく莉結に訊ねようかと口を開いた。
「そういえばさ、莉結……、あの、さっき、……寢てないの?」
「ちょっとだけ寢たけど何で?」
「いや、何でもない」
    これが俺だ……。ここぞという時に結局何も言えやしないのだ。今、俺が得た報は"莉結がちょっとだけ寢た"という、どうでもいい事実だけ。
そんな自分に落膽していると、莉結が"ふっ"と笑ってこう言った。
「そんな事よりさぁ、明日から學校行くんでしょっ?    大丈夫なの?」
    慌ただしくて重要な事をすっかり忘れていた。でもやはり今でも先生の言う通り學校だけは行かなきゃなとは思う。だけど問題は山積みのままだ。
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「全然大丈夫じゃないよ。莉結がフォローしてくんなきゃ無理だよ、たぶん。だからまぁ……、よろしくお願いします」
「どうしよっかなぁ」
「いや本當に、そこだけは頼むって! 一生のお願いっ」
俺が手を合わせたまま大袈裟に頭を下げると、小さな笑い聲が聞こえ、顔を上げた俺の目にらかな笑顔が映った。
「わかってる。それなら今日は久しぶりに瑠んちに泊まって々と教えてあげなきゃねっ、の子の事とかさっ」
「お前その言い方……。まぁどうせ今日も母さんは帰ってこないだろうし。別に構わないけどさ」
思えばいつから互いの家に泊まらなくなったんだろう。昔は毎週のように泊まりあっていたのに。いつの間にか互いに意識するようになってたって事なのかな。
「よしっ! それじゃぁ決定ねっ、早速著替え持ってくるね」
    昔と変わらずにそう言って、足早に部屋を出て行った莉結の後ろ姿を目で追うと、懐かしい過去の思い出が蘇る。
莉結の家と俺の家は、かった俺たちの足でも十數分で行き來出來る程の距離にある。初めて會った日こそ覚えてないけど、記憶がある頃にはいつも側に莉結がいた。
そして四歳の時、俺の父さんが死んでからは、母さんは仕事を理由に俺と顔を合わせる事がどんどんなくなっていったし、人見知りな俺の格も相まって、俺は他の誰でもなく莉結ばかりと遊んでいた。
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そして俺たちは、いつの間にか"馴染"という関係を確立していて、子供の頃は何かと互いの家に泊まり合っていたものだ。
それでも母さんの不在がちな俺の家に莉結が來ることは稀で、だからこそこうやって莉結はいつも以上に嬉しそうにして自分の家へと"お泊りセット"を取りに帰っていたんだっけ……。
しかし、長するにつれてそういった関係も長くは続かず、いつからか、俺が家に帰っても、この家の中は常に空っぽで、靜まり返った家の中には俺の生活音だけが虛しく響くだけになった。
そんな、子供に無関心な親の下で育ってよくグレなかったな、なんて思いつつも、俺は薄々気付いていた……。母さんが俺に関わらない理由は、たぶん、俺の"病気"なんだって。
    だけど今はそんな事考えたくない。考えている暇は無いのだ。
「ただ今戻りましたぁっ」
大きな聲と共に勢いよく部屋のドアが開き俺はハッと顔を上げた。
すると、いつの間にか部屋に戻っていた莉結が子供の様なテンションで部屋のり口に立っていた。
そして俺の顔をぼうっと見つめつつ、貓のシルエットが散りばめられたカジュアルなバッグを床へと下ろした。
「どんだけ急いで來たんだよ」
すると莉結が苦笑いを浮かべ、俺を指差した。
「えっ……、三十分は経ってるけど。瑠ずっとそのまんまだったの?」
「え? あぁ……、ちょっと考え事」
俺は他に言葉が思い付かず、不用に微笑んで俯く。
すると莉結が"パン"と手を叩いた。
「あっ、お風呂借りるねっ!    あ、そう
だっ、折角だし一緒にる?」
    俺は一瞬にして熱くなってしまった顔を莉結から背けると「はぁっ?!    る訳ねーっての!」と聲を張り上げた。
    しかし莉結は変わらない調子で続ける。
「いいじゃんっ、昔はよく一緒にったんだしさっ。同士仲良くって事で」
「昔は昔っ!    しかも俺の心はまだ男なのっ!」
「可いなぁ"瑠ちゃん"は」
    その一言で俺はふと冷靜に"これからの事"が不安になった。
「明日から俺はとして學校行かなきゃ行けないんだよね。なんか……、不安だな。うまくできるかな」
「瑠は大丈夫、きっと大丈夫だよ」
    莉結は真剣な表でそう答える。が……、次の瞬間"プッ"と息を吹き出しクスクスと笑いだしたのだった。
「え、何?」
    俺は呆気に取られて、ぽかんと莉結の顔を見つめた。何せ俺が思うに直前の會話の中には莉結をそうさせる要素が見當たらなかったからだ。
「しずつだけどの子らしくなってきてるよねっ」
「えっ……、噓っ、どこらへんがっ?!」
    そんなはずある訳がない! だって俺はずっと男として生きてきた訳だし、これからまた男に戻るんだ。だから演技でもなく自然に"らしく"振る舞うなんて、そんなのは莉結の悪い冗談としか思えなかった。
「えっと……、喋り方と、仕草でしょ? それと……」
「もういいよっ! 風呂ってこい!」
俺は妙な恥ずかしさに耐え切れなくなって、追い出すように莉結を風呂へと向かわせた。
たかだか一日で……。そんな訳無い。だって……、俺は男なんだ。絶対元の姿に戻るんだから。
    莉結の長い風呂が終わると、俺は著替えを持って洗面所へと向かった。
そしてゆっくりとジャージをぐと、鏡に向かってわになった上半を見つめた。自分のであるにも関わらず、數秒と見続けられない。俺は元々逞しい方では無かったが、目の前に映る、小柄でき通った素のは如何にも弱そうで、筋というの存在をじさせないようなつきだった。
俺は大きく溜息を吐くと、なるべく見ないように下著をぎ、洗濯機へと放り込む。その時、服の山の隙間から莉結の下著が一瞬見えてしまって、俺は慌てて蓋を閉めた。
浴室にると、シャワーを出して長い髪を濡らしていく。いつものようにシャンプーを出して泡立てようとするが、全然泡立たない。もう一度シャンプーを手に取り泡だててみるもまだ足りない。
何プッシュすりゃいいんだよ!
結局俺は、いつもの三倍の量を使ってやっと洗髪を終える事ができたのだった。
そして、いよいよを洗わなければならなくなった。こんなにも張する風呂なんて初めてだ……
    俺は息を整え、ボディータオルを手に取ると、ボディーソープを三プッシュ…….してしまった!張していたとはいえ何を馬鹿なことを……
    気を取り直し泡だてたボディータオルでを洗っていく。
ボディータオル越しに伝わるらかなのが妙にいやらしい……
そして下腹部に近づいた所で俺の手が止まる。
ここは洗っちゃいけない気がする……
俺はそれでもと思い、意を決して手をばした。そっと、れないように下へと手を進め、ゆっくり局部へとれると……俺は素早く手前に引き抜いたっ!
「ひゃっ」
思わず聲が出てしまった……俺は何も無かったかのようにを流すと、タオルを手に取り立ち上がった。
「瑠ちゃん大丈夫っ?」
突然開いた浴室のドアから莉結が顔を覗かせた。
「ちょっ! 勝手に開けるなよっ! ていうか俺は瑠じゃねえっ」
「自分で言ったじゃんっ」
莉結はそう言いつつ俺のを舐め回すように見てくる。
「早く出てけよっ」
「何か困ってないかなぁって思って助けに來てあげたのに」
「いい迷だっ、いいから部屋で待ってろよ」
そう言って不満げな表を浮かべる莉結を追い出すと、俺は手早くを拭いて洗面所へと出た。
そして俺は、今日買った下著を手に取ってまじまじと見つめる。男の下著とは比べにならない程の薄さだ。シルクのように沢のある生地には、きめ細やかな裝飾がされ、それはまるでウェディングドレスかのようだった。
「ちっさ!」
下著を履いた俺は、その小ささに思わず聲をあげてしまう。こんなに著していると何だか落ち著かない。
その場で何度か足踏みをして、小さな溜息が溢れた。
そしてふと目に映ったブラジャーを手に取ると、そのへと腕を通してみる。
恐らくこの背中のフックを止めればいいのだが……どうやっても手が屆かない。世の中のはどれだけがらかいんだ……
悪戦苦闘を続けるも、結局そのフックを繋ぎ合わせる事は出來なかった。
部屋に戻ると、俺を見た莉結が腹を抱えて笑い出す。
「何その格好っ、もしかしてブラ付けれなかったの?」
俺はブラジャーの紐に腕を通した狀態のまま立ち盡くしていた。
「俺はそんなにらかくないんだよっ!」
すると、莉結はぴょんと立ち上がって、俺の側に來ると、ブラジャーを手に取ってこう言った。
「これはね……こうやって、後ろにしてから……フックを付けて……くるっと回して、はいっ! これなら大丈夫でしょ?」
「そういうことか! そんな付け方あったんだな」
    やっぱりって面倒な事ばかりだ。でも、こうやって莉結に何か教えてもらったりするのって久しぶりな気がする。
そして玄関先に屆けられていた段ボール箱を部屋に運び込むと、新品の制服や學校用品を取り出し、その一つ一つを莉結に説明をけながらも、夜遅くまで俺の"初登校"の準備を進めた。
すると、段ボールの底にクリアファイルを見つけた。その中には一枚の紙が挾まれていて、そこには、ぽつりと印刷されたQRコードがあったのだった。
「開けって事か……」
    攜帯でそのコードを読み取ると、自的にファイルが展開されていく。すると、そこには勝手に創り上げられた"架空の妹"の詳細報が並べられていた……
「なんだよ……これ」
「なんか……嫌」
莉結が畫面を覗き込んで呟く。
「何でこんな……俺は俺なのに」
    俺に與えられた設定は、い頃に生き別れた雙子の妹の如月雫(きさらぎしずく)。誕生日や型は一緒で、今までは北海道の施設で過ごしていた、だそうだ。
    しかし、そこに書かれたものはこんなにも簡単なものでは無く、施設のあらゆる場所の寫真や説明、そこでの日課、先生や見た事も無いクラスメイトの名前と格、寫真までもが記載され、気が狂いそうになった俺は、すぐにその畫面を消した。
「こんなん見せて俺にどうしろって言うんだよ」
「大丈夫……瑠は瑠だよ。私は知ってるから、本當の瑠の事。だからさ、そんなのほっといて自分らしくしてけばいいんだよ」
「だけどそれじゃあ俺が困るんだろ……?」
「いいじゃん、適當に流しちゃえばっ、ね?」
そんな莉結の無責任な言葉に、俺は何だか肩の荷が降りた気がした。
そうだよな、どうせ元に戻ったら"妹の俺"は居なくなるんだから……
気を取り直して準備を進める。何も無かったかのように話しかけてくる莉結のおかげで、會話の途中で自然と笑みが溢れる。
そして、やっと準備が終わった俺たちは、明日に備えて寢ることにした。
俺はベッドの橫に敷いた布団へと潛り込むと、天井を見つめてこう言った。
「ありがとな、莉結」
「だから喋り方っ。明日からはちゃんと頑張ってね」
「ごめん……それじゃぁおやすみ」
「うん、おやすみっ」
    電気を消すと窓から差し込んだ青白い月明かりがカーテン越しに部屋を照らした。そしてぼんやりと浮かび上がる學校の荷を見て俺はそっと微笑んだのだった。
    しかし、なかなか眠ることができずに窓の方を眺めていると、カーテンに黒い影が浮かび上がる。
「ねぇ、まだ起きてる?」
消えてしまいそうな小さな聲が響き、俺が「起きてる」と答えると、その影がベッドの上に座り込んだ。
「隣……行ってもいい?」
    俺は一瞬躊躇したが、拒否しようとは思えなかった。心のどこかでそんなセリフを待っていたのかもしれない。
「俺……いや私はだし、そもそも馴染なんだから來たけりゃ來ればいいじゃん」
「そう、だよね。馴染だもんね」
    こうして俺と莉結は、いつぶりだろうか、一枚の布団の中で背中合わせに橫になったのだった。
莉結の溫が仄(ほの)かに伝わってくる程の距離が俺の目を冴えさせる。
すると靜かな暗闇の中、莉結が小さく呟いた。
「ねぇ、瑠は……やっぱり元に戻りたい?」
「當たり前だろ?    ずっとでいるなんてあり得ない」
すると莉結は思いもしない事を呟いた。
「だよね……だけどさ、私はそのままでもいいと思うよ」
「えっ、なんで?    こんな俺なんて気持ち悪いじゃん」
「気持ち悪くなんか無いっ! あ、えっと……だってもともと瑠はの子っぽかったし、その……今の方が"昔みたいに"仲良くできるかなっ……て思ったりして」
    だんだんと小さくなっていった莉結の言葉が妙に俺の心へと突き刺さった。
昔、みたいに……か。確かに學校でも登下校くらいでしか喋らなくなったし、昔に比べると遊ぶ事も減ったよな……もしかしたら莉結の言う通り、この姿の方があの頃みたいに莉結と楽しかった日々を過ごすことができるかもしれない……そんな気持ちが脳裏に浮かんだ。
「そうかもな。ありがとう、考えてみるよ」
    そう言って俺は仰向けになると、布団の下でそっと莉結へと手をばし、莉結の細い指先に俺の指を重ねた。
「えっ」
「しだけ。別にいいだろ? だし」
「うん。いいよっ、それじゃぁおやすみ」
「おやすみ」
    すると莉結の手が俺の手を優しく包み込んできた。"あの頃"とは違う、細くしなやかに長したその指のは"あの頃"のままで、懐かしい甘酸っぱいが一杯に広がっていくのをじた。人の溫もりがこんなに溫かいものだったなんて……俺は今まで寒いところに居たんだな…………明日から頑張ろう。
    全を包み込む、春の木れ日にように溫かな覚と、"トクトク"と小刻みに鼓を早めた心臓の音に(いざな)われるように、俺はすぅーっと心地の良い世界へと吸い込まれていった。
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