"次は園前、園前です"

バスのアナウンスに顔を上げた私は、顔を伺うようゆっくりと隣に視線を向ける。すると同時に顔を上げた彩ちゃんが私へと顔を向け、早口にこう言った。

「瑠っ、もう到著するみたいだわっ。私たちも降りなきゃっ」

心配を他所にあっけらかんとした態度の彩ちゃんに困しつつも、私はをそっとで下ろす。もしかしたら"アヤちゃん"の事は私の考え過ぎだったのかもしれない。

その時、私はハッとして咄嗟にバスの降車ボタンへと指をばしたけど、いつものように競うように隣からびてくる指は無く、"今日は莉結じゃなかったっけ"と空回りした指でボタンをそっと押した。思えば莉結以外とバスに乗った事なんて無かったんだな、と自分がしだけ恥ずかしくなる。

それから間もなくして車に降車を知らせる音が響くと、隣から彩ちゃんの遠慮がちな小さな聲が響いた。

「降りたい時はこのボタンを押せばバスは停まるのね？」

そう不思議な事を言った彩ちゃんに私が返答に困っていると、彩ちゃんは"恥ずかしいけれど初めてなの"と、長い睫をらせて耳に掛かった髪をかき上げる。

私は"さすが豪邸に住むだけはあるね"なんて冗談を言おうとしたけど、まで出掛かったその言葉を脳裏に浮かんだあの寫真たちが押し戻した。だってもしかしたら"庶民的なバスが初めて"という意味じゃなくて、"出掛ける事自が初めて"という意味に思えたから。

そんな私が哀愁を帯びた視線を向けると、彩ちゃんはそんな事気にもしていない素振りで笑ってみせた。私はぎこちなく微笑むと、タイミング良く車に鳴り響いた園への到著を知らせるアナウンスに助けられ鞄を摑んだ。

バスが甲高い音を立ててゆっくりと停車する。ぐらん、と揺れた後、足早に席を立つ人達の背中を見送ってから私は席を立った。

前の人達はみんな電子マネーのカードみたいなものを機械にかざしていくけど、病院以外でバスに乗る事のない私は、汗の滲んだ指で整理券を持って順番を待った。

そして私の番になったとき、運転手のおじさんに「二人分一緒で」と私は言う。

これもひとつのエゴかも知れないけど、ここで私が払ってあげなかったら、もう元の姿に戻れないような気がしたのだ。そう、私は男としてのつまらない見栄を張った。

でも、慌てて私にお金を渡そうとした彩ちゃん。しかしそこでけ取ったら男が廃る。

私は格好をつけて"今日は私に払わせて"と相反したらしいウィンクすると、彩ちゃんは申し訳なさそうに、それでもし嬉しそうに小さく頷いた。

バスを降りてすぐに目に映った大きな園のり口には、春休みということもあって子連れの親子や學生らしきカップルの姿が目立っていた。

いつかぶりの園。変わらないあの頃のままの景が朧げな記憶を彩る。

そして自然と早まる足を落ち著かせながらも何歩か足を進めた時、左手にらかなが伝わった。

「いい……でしょ？」

私を見上げる彩ちゃんに視線をやりつつも、手を包んだらかなに私の意識が集中する。

そんな中、不覚にも私はそんな彩ちゃんに可らしさをじていた。クラスメイトには無い、真っ白なキャンパスみたいな純粋な子供のような可らしさが。

そんな私は"これは自分の気持ちを確かめる為に必要な事だ"なんて言い訳みたいな事を頭に浮かべながらもその細くしなやかな手を握り返したのだった。そしてそれに呼応するようにまた彩ちゃんの手に僅かに力がると、急に恥ずかしさが増した。

に付いた棒っきれみたいになった腕をゆっくりとゆらしながら園チケットの販売機の列に並んだ私たちは、園から出てきた子供が持ったぬいぐるみが可いね、なんて話から心に戻ったかのように々な話で盛り上がった。そんな話に夢中になっていると、ゴホン、という後ろの人のわざとらしい咳払いで、私たちの前に連なった長い列がいつの間にか消えていることに気付く。私は後ろの人に苦笑いを浮かべつつ軽く頭を下げると、小走りに販売機の前へと移して財布を取り出した。

すると"さすがに園料までは私に出させる訳にはいかないわ"と彩ちゃんが小さな名刺れのようなものを取り出す。

「バスは瑠が払ってくれたから」

彩ちゃんはそう言ってその小さなピンクをしたものから一枚のカードを取り出した。

「これは……、何処にれればいいのかしら」

戸う彩ちゃんを見て私は思わず息を吹き出して笑ってしまった。だって彩ちゃんが持っているのはクレジットカードだったから。

「彩ちゃん、本気で言ってる？」

笑いを堪えつつ私がそう言うと、彩ちゃんは困った顔をして首を傾げた。

彩ちゃんに"初めて"が多いのも分かる気がする。それはきっと今までこういう"普通"の事をしてもらってこなかったから。私はなんだか彩ちゃんが本當に子供みたいに思えて、手に持ったカードをそっとケースに仕舞ってあげると、頭をぽんとでてあげた。

「今日は私に任せてよ」

私がそう言うと、裁の悪そうなぎこちない笑顔がフツウの笑顔へと変わった。

無事園ゲートを潛ると、彩ちゃんは私の手を引いて生真面目に園マップの順番通りに回っていった。昆蟲の標本や、うたた寢をしたままかない達。子供ならがっかりしてすぐに去って行ってしまいそうなそのひとつひとつを、彩ちゃんはじっくりと、目に焼き付けるように見つめていた。その瞳は生き生きと輝き一點の曇りも無く、彩ちゃんは私にその都度思った事を赤々に伝えてくれた。その度に私は"これって本當の彼みたい"なんて思うのだった。

そしてカピバラの展示へと向かっている時にベンチに座るカップルが目に映った。その時、何気ないはずのその風景に私の中で何かが引っかかった。

"本當の彼みたい"

さっきまで繰り返しじていたその想い。それが彩ちゃんの気持ちを真剣にけ止めていない自分の気持ちの投影だという事に気付いたのだ。

「これがカピバラ？　たいした事ないわね」

いつの間にか立っていたカピバラの柵の前で彩ちゃんが素っ気なく言った。てっきり"可いわね"とかの子らしい事を言うと思っていたのに、想定外の淡白な発言につい笑みが溢れる。

「えっ、たいした事ない？」

「たいした事ないわ。だって學校でこの生きが凄く可いのだと聞いていたから。周りの意見に流されるつもりは無かったけれど、期待して損したわ」

そう話す彩ちゃんの表はし拗ねているようにも見えた。まるでもらったプレゼントが想像していたじゃなかった時の子供みたいに。

「は人それぞれだからねぇ……。私にもただの大きいネズミにしか見えないからさ」

私がそう言うと、彩ちゃんはクスリと小さく笑った。

「良かった。言い終わってから瑠がこのネズミの事が好きだったらどうしようって思ったの」

彩ちゃんはそんな事を気にするんだって思った。言いたい事は隠さずに言えばいいのに、とも。

"それって私も……同じ？"

そんな言葉が頭に浮かんだ。

「あのさぁ……」

私は自分の道理を通したかっただけかもしれない。だけどなんだかこのままじゃいけない気がして、私は自分の気持ちを打ち明ける事にした。

「私、彩ちゃんの事"本當の彼みたい"って思っちゃった。本當の彼……なのにさ」

もしかしたら罪悪を払いたかっただけかも。そう思っても仕方ない。私は彩ちゃんにそのエゴをぶつけてしまったから。

「なによ、それ」

彩ちゃんは俯いてそう答えた。呟くように吐き出されたその五文字が頭の中に反響する。

そして私がまた"ごめん"を口にしようとした時、私の目に真っ赤に染め上げられた彩ちゃんの白い頬が映った。

「懺悔のつもりかもしれないけど、私にとっては好都合よっ。だ、だって私は始めから本當の彼になれただなんて思ってないんだから！」

真っ直ぐに見つめられたその瞳が僅かにいている。嬉しさと恥じらいが混じったような綺麗な瞳。

私はその言葉の意味を數秒かかって理解した。そっか、彩ちゃんはそんな私でもけれてくれたんだっ、って。

それから私のに安堵と一緒に鼓を速める"何か"が湧き上がってきて、それがの奧から全に伝わった瞬間、頬がどっと熱くなった。

それからは穏やかな時間が過ぎていき、いつの間にか彩ちゃんとの間にあった微妙な隔たりは消えていて、私は素直にこの"デート"を楽しんでいた。

そして"し足が疲れたね"と言って座ったベンチで、私はふと周りの視線に違和を抱いた。

その違和は些細なものだった。それが私の思い違いならいいけど、今までの私、俺が向けられてきた視線とはどこか違う気がしたのだ。それは男ととでは視線の向けられ方も違うだろうけど、そういったものとはまた別な不思議な視線を私はじていた。

人は他の生に比べて""というものが突出している分、微妙な表の変化に敏なのだ。それは視線にも當てはまって、視線のその先にある目、その目の周りの筋の微妙な変化を私たちは無意識に読み取っている。それがこのベンチに座って周りに意識が向けられた今、私の視覚報で違和として取りれられたのだ。

そしてその原因を考えていた私は、その違和が最初からあるわけじゃ無くって、"あるものを見た時"からじる事に気付いた。……視線だ。

通りすがる人達の中の一部、何気無く私たちに向けられた視線は、まずは顔にその視點を合わせ、寄せた肩へと下がっていく。そこまではたぶん景の一部と何ら変わらないんだろう。でも私が違和をじたのはその後だった。

……きっとそれは人としてごく自然な事なんだと思う。視界に映るものを無意識に認識していき、自分を取り巻く報を得る。そしてその中でも違和のあるものには意識が重ねられてより濃い報として脳に認識させる。そして私たちに視線を向けた人たちに違和として意識させるもの、それが"指を絡ませて繋がれた私たちの手"だったのだ。

その証拠にそれを見た瞬間、目元に僅かな変化が現れるのだ。疑問、喫驚、軽蔑、恥、憂苦……。私にはそんなが視線に込められた気がした。

やっぱり私たちは"変"なのか……。そんな気持ちが私の視線を地面へと向けさせた。

「瑠はああいうの気になる？」

彩ちゃんは私の微妙な変化に気付いたのか、前を向いたままそう言った。

「いや……、まあね。あんな風に見られると私たちが普通じゃないみたいに思えてさ」

「普通って何？　私たちは普通でしょ？」

屈託の無い笑顔が私の橫で輝いた。私がそれに答える事ができずにいると、彩ちゃんのが私にぴったりと寄せられる。

「ちょっ……、彩ちゃん？」

「普通よ？　日本人は表現に奧手なのよっ。ほら、あの人たちだって」

彩ちゃんの指した方向には外國人のカップルが見えた。その二人はこれでもかとを寄せ合って、見ているこちらが恥ずかしいくらいにいちゃついていた。

「あの人たちは自分が普通じゃないと思ってやっていると思う？」

「思わないけど……」

「"普通"って、本來の自分を曝(さら)け出すって事じゃないかしら？　それを出來ない人たちが世間の多數意見を"普通"って思い込んでいるだけ。違うかしら？」

彩ちゃんはそう言ってを戻すと、繋がれた私たちの手を目線まで上げた。

「普通って普段通りって事。つまりこれが私たちの普通、だと思わない？」

その瞬間、私がじていた違和がただの視線に変わった。だって彩ちゃんの言う通り、普段通りの自分を見られる事は何も恥ずかしくないって思えたから。