《鮫島くんのおっぱい》梨太君の喧嘩②
梨太の手には、手のひらよりも小さな手帳が握られていた。
カードサイズで、重要な要項がまとめられた生徒手帳である。
梨太は慣れた手つきで手帳をめくると、ページをひらいて読み上げた。
「霞ヶ丘高校校則、最重要項のその六。學園において暴力、竊盜、そのほか生徒間での一方的な加行為が行われた場合、いかなる理由があっても、加害者を退校処分とする」
「……あ?」
「現時點でも限りなくアウトに近いとおもうけど、もしこのまま一発でも僕を毆ったら、あんたたちは全員退學。明日から二度と、クラスメイトには會えなくなる。それでよければどうぞ、さっきの続きを打ち込んできてよ」
「な……なんだ、おまえ。そりゃあ……學校に泣きつくってか? 不良の次は教師かよコバンザメ野郎」
「僕は中學時代、一生懸命勉強してこの學校にった。その組織の力は僕の力だ。ここで學んだことも作った友達も學歴も、全部自力で得てきたものだから、遠慮せず誇りをもって最大限利用して、楽しくいい人生を送ろうと思ってるよ。――あなたたちも、そうじゃないの?」
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不良どもが眉を寄せる。三人をまっすぐに見據えて、梨太は淡々と口説いた。
「なからず勉強して學して、二年以上頑張ってきたんじゃないのか。大事なものもたくさん出來てるんじゃないのか。ここを卒業した後の大學や就職、將來の展があってここまで來たんじゃないのか。今日、ここで僕をぶん毆って、それで全部臺無しにするつもり? もったいないと思うけどね、僕は」
「てめえっ……それでてめえはどうなると思ってんだ」
また拳をかざしてくる。だが振りおろす気がないのは、二の腕の強張りを見れば明らかだった。
梨太は鼻で笑った。
「どうなるの? 的に言ってみてくださいよ。
あなたたちは退學になって、明日からこの學校にってこれない。校門で張る? 僕の家を探して押し掛ける? ……高校生同士なら、いじめってなかなか犯罪にはならないよね。だけど無職十八歳年ならば暴行罪で警察がくよ。退學、逮捕、年院。年法が見直されてきているから刑務所かもね。どこまで落ちていく覚悟なの?」
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年の拳から力が抜けた。梨太は手帳をしまうと、どうということもない姿勢でたたずみ、ただ淡々と続ける。
「それとも、いまここで僕が訴える気がなくなるくらいボコボコにしようって気? だったらなくともをつぶして指一本殘さず切り落とすべきだ。言葉を伝える手段がある限り、僕はあなたたちを許さない。攫って埋める? やってみろよ。警察は有能だ。卒業式の前にはあんたたちを捕まえるよ。僕を殺して全員死ね。
一度犯罪を犯した人間は、二度ともとの世界になんか戻れない。その覚悟があって、そうまでしてあなたたちは僕を毆りたいのか。人を毆るのってそんなに楽しい? それって必要? どうせ人生臺無しにするなら、もっと有意義なことに賭けろよ馬鹿野郎――」
梨太の言葉に、三人は完全に絶句していた。を上下させ唾を飲む。
時間にして數秒、永遠に続くような靜寂を挾んで、梨太は笑った。にっこりと、人の心を和やませる笑み。
「なんてね。冗談。やめてくださいよ、僕には先輩たちに怒られるいわれなんかぜんぜんないですって」
「……あ?」
「実は親戚なんです、鮫島くん。はつながってない遠縁で、そんなに仲良くもないけど、昔から知ってるの。彼ね、ずっと外國にいたから、日本のことまだよくわかってないんですよ。ホントはヤンキーなんかじゃなくて、ちょっとトボケてるだけなんですよね」
「そ――そういえば、外人っぽい雰囲気あるよな」
「うん、足なっげーし、ちょっと目が青かったような」
「え? あいつ日本語わからないの?」
顔を合わせ、會話する三人。
張と緩和、合點がいったとたん異様に晴れやかな顔でげらげら笑い始めた。
梨太は一緒になって笑いながら、
「ああ見えてド天然なんですよ。ただでさえ形で、いるだけで目立つって自覚ないし。僕とはぜんぜん似てないなんて言われたらカナシイから緒にしてるんです。あんまり広めないでくださいね?」
「おう、ああ、そうだな、わかったようん――」
「ほんと怖い人じゃないから、困ってたら親切にしてあげてください。今度あったらヨロシク」
そういって、梨太は大きめに手を振った。
お話はおしまいです、ではサヨウナラのジェスチャーに、られるように背を向ける三年生。彼らの姿を見送って、梨太は背中についた埃をはたいた。
「あーつかれた」
そんな言葉をこぼしてみる。
と。突然かかったに顔を上げる。
校舎のはざま、壁沿い上空三メートルに、鮫島が座っていた。
「わっ! 鮫島くん!?」
彼はするりとをらせると、音もなく著地してきた。さきほどまで彼がいたところを見上げるが、腰掛けられるような凹凸は見あたらない。壁に張り付いていたとしか思えないが、なにをどうやってそうしていたのかさっぱりわからない。
「どうしたのそんなとこで」
「鯨に呼ばれた。リタが危険な目にあっていると」
「鯨さんに?」
問い返したとたん、梨太のズボンのポケットが真橫にゆがみ、中から金屬板が飛び出した。
消しゴムほどの大きさで、ひゅんひゅんと素早く宙を舞う。曲玉のような形――いや、たしかにクジラに似ていなくもない。
つるりとしたメタルの面の、どこかがスピーカーになっているらしい。鯨史の聲がした。
「やあリタ君、よけいなお世話だったかな。失敬失敬」
「なんですかコレ。なんで僕のポケットに、ていうかいつの間に?」
「くじらくん三號、最小ポータブルバッジタイプだ。屆けられるのは音聲のみだが、カメラ付きだから偵察にも使える。いつも鮫の教室に潛んでいたり、夜の學校を捜索しておるのだよ。もともと通信機として君に渡すつもりだったのだがね。先ほど教室に來たのでコッソリ近づいてに張り付き、トイレで芳香剤をねらうのに集中している間にポケットへ進したのだ」
「何でそのタイミングなんだよ。ふつうに聲かけてよ」
「いやあ、一人になるのを待っていたのだが、地球のトイレというのは便がオープンに並んでいるのだな。知らなかった。はからずも面白いものを見てしまった」
「何の話? ナニの話?」
「リタ君ってば顔に似合わずいいものをお持ちで、星帝皇后ちょっとドキドキ」
「……叩き割るよ?」
「さきほどの騒ぎでもなんらみあがることもなく、いやはやまったくナイス男児」
梨太はくじらくんをつかむと思い切り校舎の向こうへぶん投げた。
鮫島が、視線だけでそれを追う。見えなくなってから、飛んでいった方向を指さして。
「一応あれ、國家財産で、軍の備品だから、壊されたらちょっと困る」
「飛ばしただけだから適當に帰ってくるでしょ」
両手をぱんぱんと叩きながら、鮫島の方へ向き直る。
「……鮫島くんも見てた?」
彼は首を振った。
「モニター共有してないし、俺に視能力はないから」
「ナニの話から離れてお願い」
「さっきの騒か? 途中からし。テロの襲撃なら助けるが、ただの弱いものいじめは、俺が手を出すことじゃない」
「いじめられてないよ」
「あいつらのほうが弱い。あまりいじめてやるなよ」
梨太は苦笑した。
「鮫島くん、これから學食? 一緒に行かない?」
うだけ言って歩き出すと、彼は無言でついてきた。それを確認し、そのまま進む。
最近梨太は慣れてきた。鮫島の無言は、肯定である。否定するときはちゃんときっぱり、斷ってくるはずだ。
鮫島のクラスメイトたちが皆言う、「応えない、返事をしない、つきあわない」というのは誤解である。おそらくだが、彼は彼なりにきちんと聞き、すべてに返事をしているのだろう。じっとこちらを見つめているときは続きを促しているし、首を振らないということは參加の意志があったかもしれない。
ただそれらの言は、発言者の心をへし折る。眼の鋭さがあいまって、「いや、気乗りしないならいいんだ……」と勝手に込みし、辭退してしまうのだ。
鮫島と過ごすには心の強さが必要だった。
度がある、と、梨太のことを皆が言う。だがそれも誤解だ。鮫島の前を歩きながら、梨太は獨り言のように吐き出す。後ろで、鮫島がちゃんと聞いていることを確信しながら。
「勝てる勝負しかしないんだよ僕は。負けるのは怖いし、なんの得もないから」
晝休みは半ば近くまで経過していた。人気のない校舎沿いを早足で進む。
「でも見かけ通り弱いからさ。喧嘩って嫌いだ。好きなやつの気持ちがさっぱりわからない。そんなに大事な理由があるわけでもないのに、自分も他人も不幸にして、あとから後悔して懺悔する――僕はそういう小悪黨みたいなのが大嫌いだ」
鮫島の足音が聞こえない。ふと、彼は姿を消しているのではないかと不安になり、梨太は振り返った。
すぐそばに、鮫島はいた。砂利道で足音一つさせないで、だがやっぱりちゃんと後ろについてきてくれていたのだ。急に振り返ったことを不思議そうに見下ろす彼に向けて、梨太は破顔した。
學園上空に広がる青い空、前からくじらくん三號機が、なにやら不満をびながら飛んできていた。
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