《鮫島くんのおっぱい》鮫島くんの名前
鮫島は、日本人によく似ている。だがそれはたまたまのことで、髪や目は派手なのほうがラトキア人のスタンダードらしい。
雌雄同という特異な生態、この地球にあるどこの國ともピタリとは一致しない政治システム、発達した醫療や科學に対し、どこか封建的な気の殘る國民。
(……鮫島くんは、宇宙人なんだなあ)
梨太はぼんやりとそんなことを思った。
鮫島はふと遠くのほうへ視線をやった。宵闇の大通りを、犬の散歩をしている老人がいる。てくてくてく、犬の歩みに併せて、鮫島の睫が虛空を仰いだ。梨太はそれはあえて反応せず、そっとしておいてやることにした。
「なるほど、それで、みんな生の名前にあやかってるんだね。竜とかならともかく、犬貓なんて日常生活混しないのかなと思ってたんだ。それに、虻とか、ふつうの親なら子にはつけないもんね」
「虻とは、よくない名前なのか」
鮫島が聞く。実を知らず偏った説明文だけが伝えられる彼らからすると、サメはヒトを食う兇暴な魚ではなく、青い海をわたる強く雄大な幻獣だし、虻は小さな羽で空を舞う俊敏な妖なのだろう。
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そういえば、と、梨太はいまさらのようなことが気にかかった。
「鮫島くん、本名なんていうの」
問われて、彼は不思議そうな顔をした。まったく意味が分からないという様子に、自言語変換裝置の仕組みを思い出す。梨太は言葉を選んで、
「鮫島くんの名前、サメ、って、ラトキア語では同じ発音ではないでしょ? サメ、の、ラトキアでの名前」
ああ、と一応諒解してくれたらしい。ところが彼の方がそれを口にすると、自的にが「鮫」と発聲してしまう。二人はしばらく途方に暮れて――鮫島はふと思い出したように、自分の耳からピアスをはずした。
大きな手のひらに、コロリと鎮座する翡翠の小さな石――いや、金屬? ピアスを外した鮫島が、梨太にむかってほほえんだ。そして、
「そるあるくえもぃのりあんくーがりざーお」
「……はい?」
突然放言され、梨太が瞬きすると、鮫島は楽しそうに笑いながら再びピアスを裝著する。
「俺の名前は鮫島である。と言った」
「ええっ? ちょっと、どこが名前のとこだかわかんないよ。よけいな文章つけないでよ」
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はははは、と聲を上げて笑う鮫島。この反応を期待してからかったらしい。梨太は再度ねだったが、彼はくっくっと笑うばかりで応えてくれなかった。
「その、ピアスって飾りじゃなく、言語変換裝置の端末なんだ?」
問うと、彼はサイドに落ちた髪をかきあげ、耳を見せてくれた。男がつけるにしては的な、しい裝飾だとは思っていた。寶石そのものを削りあげたようなシンプルな玉は、よくよくみると丸ではなくかすかに楕円形で、涙粒ようだ。
「裝置そのものは脳に埋めてある。これがチャンネル――いまつけているのが地球の日本語。オーリオウル公用語や、英語や中國語はが違う」
「へえ。でも、いいねその。鮫島くんに似合ってる」
「俺もそう思う」
そんなことを言って、彼は目を細めた。細い指先で玉のまるみをして。
「……このは好き……」
梨太は、その橫顔をじっと眺めた。
夜空の月と同じように、ほのかにって見えるほど白い。整った鼻筋にかかる漆黒の睫。
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細い眉の下、すっきりとした奧二重の雙眸が憂いを帯びている。皮の薄い目元は、かすかに桃がかっていた。
人は三日で飽きると言うがそんなことはない。日本人は古來から、月を、星を、桜を、海を、毎日毎年なんどみたってしいとでてきた。
鋭利な刃を思わせる顎先からなだらかな曲線を経て、やわらかそうな耳たぶに、翡翠の涙の玉。
梨太は地面に手をつき、重を前のめりにさせた。を屈めるようにして鮫島の方へ寄っていく。彼の溫が伝わるほどにを近づけて――
頭蓋をガシッと捕まれた。
「な、に、を、しているっ」
「あ、やあ、なんか、できそうかなって言う雰囲気で」
「なにがだ!」
鷲摑みにされた頭部がミシリと音を立て、梨太は悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い、ごめんって、無意識だよう。綺麗だなあって思ってる間についふらふらっと、なんだか無にキスしてみたくなっただけだからあぁぁ」
「自制心ってもんがないのかおまえは」
「いやあ、この流れはふつうにキスシーンでしょ。鮫島くんもなんかふわーっとしてるし、ほっぺたから始めてうまいこともっていけば舌をれるまでいけるかもしれないと」
「そこそこ思考してるじゃないか! 離れろ変態。俺は男だっ」
「そうかなあ」
鮫島に額を捕まれたまま、梨太は力して彼の肩へ顎を落とした。もたれかかるように重を預け、軍服に頬をすりつける。
「僕、意外と理屈じゃなく直とか本能でものを判斷するんだよ。いろいろ理で考えても、結局そっちにカラダがく」
鼻先を、彼の襟からしずつ上へあげていく。分厚く無機質な軍服から、溫度のあるらかいへと忍びよって、梨太は重のかかっていなかった手を鮫島のへおいた。腳のかたちに手のひらがはりつく。
翡翠の玉がすぐ目の前にある。梨太はをとがらせ、そこにある、かすかに紅し溫度を上げた皮にれさせた。
「……やっぱり、鮫島くんってなんかいい匂いがする。僕、ちっとも変になってなんかないよ」
また、溫が一瞬あがった。鮫島が小さくをふるわせて張する気配。そして――
梨太はしっかりと頭蓋骨を締められて、そのまま全を宙づりにされた。
「うあいだだだだだだだだっ!」
立ち上がり、背筋をばした鮫島が片手をつっぱって梨太をぶら下げている。空いた手を腰に當て、はー、と嘆息。
「もう、なんと言ったらいいか……。俺は口下手だから……」
數秒そのままぶら下げ、頭をふって、鮫島は歩き進んだ。梨太の足下に三メートルの空間が広がった地點で足を止め、
「落とすぞ」
「やめてぇーっ!」
実力行使反対っとび、かえって危険なのはわかっていても手足をばたつかせ抵抗する梨太。
っこが溫厚な鮫島はそれ以上民間人をどうにかする手段が思い寄れないらしく、本気でしばらく思案してから、あきらめて梨太を屋上の方へと戻した。
「今の俺が、厳にいって男かかという判斷は、俺自がよくわかっていないからもう、言及は避ける。だからおまえも変態ではないのかもしれない」
「違うって」
半ば腰を抜かしてはいつくばりながらも、懲りずにを張る梨太。鮫島はそれを見下ろして、
「だが、間違いなくおまえは、変だ」
きっぱりと言った。梨太は首を傾げる。本気で理解できなかった梨太に、鮫島は親切丁寧に説明しようと、言葉を探して考し、
「いくらなんでも、俺は無いだろう。好きがすぎる。鯨たちの言葉を借りていえば。生學的にどうあれ。
……俺が雌化周期がピークになりとなったとしても、客観的に……おまえのほうが可いぞ」
「えーそんなことないって。そうかもしれないけど、それはないって」
梨太はパタパタと手を振った。
「の子みたいな男と、男にしか見えないは全然違うよ。僕はやっぱりしか無理だもん。○篤人より澤穂○さんのほうが対象だから」
「……俺はさっぱりわからないが、なんだかすごく言ってはいけないことを言っている気がするから、謝っておいた方がいいと思う」
「ごめんなさ……いや、むしろ謝っちゃだめだよ、當たり前のこと言ってるんだから謝っちゃう方がだめだよ!」
「そうなのか」
鮫島は素直に呑んだ。
夜空を見上げ、軽くをばす。軍服からはみ出した手首あたりを軽くさすって暖め、彼は梨太に手を差し出した。
「……寒いな。帰ろう」
「うん」
梨太ははにかんで鮫島の手を握った。軍人の手のひらは、想像していたよりずっとらかく暖かい――が、思っていたより、強く握られた。そしてぐいと引き寄せられ、梨太は彼のに抱かれる。顎が彼の肩に乗り、腳先が宙づりになるほど強くしっかりと抱きしめられた。
えっ?
――という、疑問符をあげるより先に、鮫島は梨太を抱いたまま歩みを進め、店舗屋上の縁に立った。そして躊躇なく、そこからをり落とす。
「ひおぉおおおっ?」
突然の空中落下。三メートルという高さは見上げるだけならさほどでなく、登ろうとすればそれなりに苦労をし、落ちてしまえば一瞬だった。しかし完全に己のが空中を落下する覚は日本有數の絶マシーンに匹敵する恐怖があり、著地して數秒後、梨太の全から汗が噴き出す。
そして同時に、梨太は鮫島の凄さをかいま見た。梨太を抱えて著地したとき、やはり足音はほとんどしなかった。その理由をした。
彼の腳先、指が地面につくその瞬間鮫島の重心は彼のつま先に集中していた。上半が異様に力しているのだ。そして著地直後、つま先に全重が乗り切るより早く逆に天に向けて跳ねている。このとき彼の重心は、梨太の顎のそば、首のあたりにあった。わずかなリバウンドを挾んで膝を屈めるように著地、このとき重心は腰。を垂直に戻すと同時に、全へと移させていく。
足音が立たない理由も同じ理屈だろう。彼は、自分の重心を自由自在にれる。決してぶれることのない頑健かつしなやかな軸があり、それ以外の重、筋、水分を支配する。拳で打ち抜くときは前半、けるときは後半に重をかけて、威力を増減させられるのだ。
二十キロものウエイトは、軽な彼にとっての足枷にはならない。重の容積を増すことで技の幅を広げられる、あれこそが彼の武なのだ。梨太は漠然と、鮫島を不用な力押しタイプの戦士とけ止めていた。だがそれはまったくの誤解であった。
腕力や格などではない、それを超越して、彼は、達人なのだ――
鮫島のの上で、彼のの在り方を理解すると、梨太はさすがにその首筋を食むのは自重した。代わりにしっかりと嗅覚で堪能したが。
たぶんその気配に気づいていただろう。鮫島はなんとも居心地悪そうにをよじる。両手を離して梨太を下ろそうとしたものの、しがみついて離れない。仕方なく、彼はそのまま町を歩きはじめた。
夕食時の住宅地、人通りはないが、皆無ではない。さきほど梨太が道を聞いたひとともすれ違い、指さされた。それでも梨太は鮫島にしがみついてはなさなかったし、鮫島も、特に文句もなく進んでいく。
町を歩きながら、吐息がかかるほどすぐそばにいる梨太にしか聞こえない小聲で。
「……俺のなんか、本當に、なんの魅力も価値もないぞ」
「それは僕が決めることだよ」
梨太が返す。
「もともと巨派でもないし。というか、なんかもうそれはそれで、萌えっていうか、どんだけなんだって楽しみになってきたから大丈夫」
「……なら、いい」
彼はぼそりと吐き捨てた。
「おなかすいたな」
街燈の點在する夜の町を進む。彼の首に懸垂をして、梨太は首をばす。亀のようにがんばって顔を上げ、梨太はパクっと、鮫島の頬をくわえた。とたん、後ろ襟を摑まれ投げ落とされる。
「いたいっ!」
アスファルトに打ち付けたを抱えて悶絶する梨太を放置して、鮫島は無言のまま栗林家へ帰還した。
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