烏が、初めて鮫島に出會ったのは彼が八歳のときだった。

十五歳未満の児――集めたなかで、飛び抜けていのが彼だった。

誰か、立候補者はいないか。その呼びかけに挙手する者はいなかった。

 兵士訓練校は、年兵量産機関ではない。

將來、高級軍人となるための兵役だ。彼らはたいてい、貴族、あるいは優秀な學業を修めて編を果たした溫室育ちだった。

たとえ毒耐をつけたからとて、戦場に立つ気構えはない。ラトキアの科學の発展にどれほど役に立ち、栄譽なことだと説かれても、心がくことはなかった。

「の報告をしてもらうためにも、學力のある子のほうがいいんだけどねえ」

烏はつぶやいた。しょうがない、スラムから売り同然で徴兵された、一般年兵からひっぱってくるか――と、諦めかけた時。

歩み出たのが彼だった。

「誰も行きたくないなら、俺がいきます」

それだけ言い捨ててさっさと腕をまくりあげる――最年である、黒髪のしい。

「なんという怖いもの知らず」

「想のない、かわいげのない」

「武王の家の子だ。一番上の姉は將軍、星帝皇后だという」

「戦闘力でも飛び級だとか」

「……特別な子だ。我々とは違う生きだ」

本人が寢転がったその橫で、武たちが話す。

四日間高熱にうなされ、頬をこけさせたに、烏はあたたかいスープを手渡した。

「がんばったわね、クゥちゃん。おなかを暖めてを休めなさい」

そう言うと、彼はうなずいてスープを吸った。

「おいしい……」

烏の知らないの瞳を細めて、はつぶやく。

「ありがとう」

蕾がほころぶような笑顔。

これが、烏のみた鮫島の最初で最後の笑顔である。

――名家の曹司に生まれながら、わがを呈し、ラトキアに貢獻した勇敢な児。のちに英雄と呼ばれるまえから、栄のスポットライトからはずれたことのない年。

毒耐を活かし、毒霧の星ヒストリアに単潛。武功めざましく、勲章は増えていく。

飛び級のせいで同期ははるか年長者ばかり。

ラトキア原初の種を表す、黒い髪。たぐいまれなる貌。

いつだって遠くから彼は他人の視線で追われている。それでも、その隣に座るものは誰もいなかった。

たった一度だけ、一人で泣いているのを見たことがある。

 　一人で笑うことが出來るほど、彼は用ではなかったのだ――――

烏は、そんな話を訥々と語ったあと、再び俯き、思案した。

自分に言い聞かせるようにつぶやく。

「そうか。道理で……もともと雌優位だった私がアレ以來雄になり、雄で完したかと思いきや、軍を離れてからクゥが男前に育つのに反比例してまた雌化したのは、そういうことだったのね！？」

「早く気付よ。とことんあほか」

梨太の冷たいつっこみに、烏は目から鱗が落ちた様子で、楽しげにり口のほうに目をやった。

扉の向こうに続く階段のほうを振り返り、

「……クゥは生きているのよね？　いま雌化周期にったころのはずだけど、この四年でもう雄で完してるのかしら。まあどっちでもいいけど」

歩き始める。梨太は怒號でそれを止めた。

「鮫島くんをどうするつもりだ！」

「死を、冷凍保存しようと思ってた。でもやっぱり生きてなきゃ出來ないことってあるよな」

回答にはなっていない烏の返事。

梨太はんだ

「――やめろ、インポ野郎！」

烏が頬をふくらせて、そして笑った。

「失禮な。白鷺とちがって、私はちゃんと加減して毒を飲んだわよ」

梨太は腕を持ち上げ、麻酔銃をかまえた。照準を烏の背中にあわせる。

気配を察し烏が振り返った。

「なあに？　無駄よ。紅茶にれた毒は殺傷力はないけども、手足の先を麻痺させる。あなたは立てないし引き金は引けない。たとえ撃てたとしても」

ぱんっ！　――――――梨太の撃は、烏の腹に突き刺さっていった。

もんどりうつ科學者。衝撃波にシューズが揺れて、そして、踏みとどまる。

「……あなたが、毒をれないわけがない紅茶なんか、飲むわけないじゃん」

梨太は言って、ポケットからハンカチを取り出した。布の包みの中にかくしておいた、強力な吸水ポリマー玉をいれた巾著を床に落とす。

「う……う」

烏のが沈む。

「で、も――私は、この、麻酔薬は――」

「となるのがわかってるのに、麻酔弾だけしかもってこないわけもないでしょ」

梨太は、傷だらけの足にどうにか力をれて立ち上がる。米粒大、太く短い釘をやまほど打ちつけられたような手足を引きずって、烏のもとへ、距離をつめる。

反対に――烏は膝をついた。

前のめりに倒れていく。

梨太は呼吸を整えながら、銃を再度かまえ、烏をねらう。じりじりと歩み寄り、様子をうかがった。

「……あなたは毒を、ガスにして吸ったり、飲んだりするだけならまだしも、中にいれても平気ではない、はず。

『耐を完璧にしようとすると、人生に支障がでるから、無効化にまではしていない』……一階フロアの毒もそういった種類のものだと。

あなたは、今たしかに言ったね」

烏はうつ伏せに倒れ伏し、そのままぴくりともかなかった。

銃を構えたまま、手をばし、烏の髪をつかんで持ち上げる。

「……そうであってくれよな」

おそるおそる、のぞき込む。完全に白目をむいている――そして、呼吸があるのを確認し、梨太は大きく息を吐いた。

よかった、と小さくつぶやく。

麻酔銃の裝弾數は六発。ひとつは麻痺弾。四つは、烏が耐を持ちその効力を押さえることの出來る毒をそれぞれすべてれてきた。もう一発は、梨太が日本の薬品をつかって調合した猛毒だった。

「……やらなくていいときに、やりたくないことを無駄にがんばるのも、やっぱり嫌いなんだよね」

年はつぶやいて、噴き出した汗を拭った。

足をひきずりながら、烏の部屋を捜索する。

白鷺から拝借していたカード型線通信機を口元に當て、

「たんたんたぬきのきんたまはー、かーぜもないのにぶーらぶら。あそーれぶーらぶら。もいっちょぶーらぶら。どすこいぶーらぶらっ」

と、歌いながら歩き回る。

部屋の端に押しつけられたベッドのほうから自分の聲が聞こえ、そこにスピーカーを発見。そのすぐそばを手で探り、梨太はベッドの裏側に一抱えほどのパネル型の裝置を見つけた。そこにボタンが二つ。ひとつを押すと、とおく階下のほうでガチャリと金屬音。鉄扉の鍵が施錠された音。もうひとつを押すと、一瞬だけ、がしびれるような振をじた。あわてて、どちらも元に戻す。

そして、烏から拝借した空気銃を至近距離から當てて破壊する。

白鷺が開錠と自翻訳裝置を犯す電磁波裝置の停止を願ったとき、即座に、その両方がかなえられたのを不審に思っていたのだ。スピーカーと二つのボタンはすべてすぐ近くにあると考えられた。

続いて梨太はキッチン周りを探索し、古い印刷文字で「一階エアコン」と表示された壁付けリモコンを見つけた。これで一階の毒噴が止まると思いたい。確信にいたらないのは、烏が言った、「白鷺に毒を止める権限があった」という言葉。毒噴出ボタンはやはり一階にあり、これは何ら無関係の可能もある。これも一応破壊しておいた。

「さて……どうしたもんかね」

梨太は、完全に失神した烏をまたいで、一階に降りられる階段の前で逡巡した。自分の防護スーツは、マスクもグローブもずたぼろになっている。

一応、服として原形をとどめているのでスーツは無意味ではなかろうが、出のある傷口がむき出しだし、ほとんど無裝備狀態の防力と考えた方がいいだろう。

（即死するような、猛毒ではない……虎さんはなんにも知らずにウロウロしてたからだ。エアコンも止めたし、走り抜ければ、豬さん以下のダメージで帰還できる、だろう、たぶん）

それこそ希的観測で、梨太は覚悟を決めた。

烏を背負って出たいところだが、目測、烏は梨太よりも重がありそうだ。鮫島じゃあるまいし、彼を抱えてスタスタ歩く腕力はなかった。それで時間をロスするくらいなら一秒でも早く出したいのが本音である。なにせ、スーツにが開いている狀態である。毒や電磁波が停止したのなら、騎士団にがんばってほしい。

鮫島がもしも復活していたら、烏と白鷺、どちらも背負って出てくれるのだけど。

梨太は、覚悟は決めたもののなんとなく息は止めて、えいやっと鉄の扉を押し開いた。

と。

ごんっ。

鈍い音とともに扉が先でつっかえる。訝りながら細い隙間をのぞき込んでみると、そこに、鮫島の後頭部があった。

「いっ！？」

驚いて思い切り息を吸ってしまった。隙間から手をいれて鮫島を押す。彼はぐらりと無抵抗にを揺らし、扉にあわせてずるずると倒れていく。

なんとかをれ込み、梨太は鮫島の肩を抱いて起きあがらせようとした。

彼を置いて、烏の部屋へって十五分ほどになる。まだ彼は失神していたようだった。

いや、ちがう。

確かに、鮫島が目を閉じたのは階段の下だった。階下を見下ろすと、記憶通りの位置に自分のパーカーで作った枕が落ちている。

鮫島は、梨太が烏に招かれた後いちど意識を取り戻し、ふらつきながら階段をのぼって、追いかけ、そしてまた昏倒したのである。

「ばっか……ばかだなあもう！」

梨太はんだ。

あのとき二階の電磁波が止まったのは烏の作によるもので、あとから鮫島が追ってこればまたすぐスイッチをれられる可能は高かった。そうでなくても、鉄の扉いちまい開けられないほど弱っておいてなにが出來るというのだ。どう考えたって、拳銃をもった梨太の方がまだ強い。

「ばか……」

力した鮫島のを抱きしめる。全の筋を弛緩させ、梨太にをゆだねた彼のは涙がでるほどらかい。

乾いたと汗、吐瀉の汚れを、梨太は指の腹で簡単に拭った。

青ざめた端正な顔の、瞼にを押し當てる。閉ざされた白い瞼のむこうにある、深海の瞳に口づけて、梨太はもう一度、彼のを抱きしめた。

梨太は、烏を異常者だと思う。

だが、その幹にあるもっとも純粋な気持ちだけは強く共をした。

なんのメリットもない、企みもない、ただただ一方的な好意。彼の人生の礎になりたい。記憶のなかにありたいと思う。それを彼がまなくても、ただ己のを滅ぼすだけとわかっていても。

「あとで、怒るだろうな、鮫島くん……」

梨太はつぶやきながら、毒ガスの殘滓に満ちたフロアを進んでいく。

自分よりも二十五センチ背の高く、おそらくは重も一回りはあるだろう、戦士のを背負って――実際には彼の膝から下をほとんどひきずるようにして――出口へと、ともに帰還する。

どうせつれて帰るなら、烏を背負うべきなのだ。

すべてを捨て置いて、自分だけが即時帰還するべきなのだ。

毒に抵抗力のない人間が、騎士団長のために突するならば、それは騎士団のだれかの仕事なのだ。

鮫島も、完全に毒ガスが無効というわけではないだろう。外傷がある狀態で長時間いたら侵される可能はある。そうでなくても、怪我はもちろん心配だ。白鷺や、烏のほうが先に目が覚めるかもしれない。

それでも――それは、梨太の仕事ではない。

薄暗いフロア、毒ガスの中を、梨太は自の足と、鮫島を引きずって進んでいく。

途切れてしまいそうな意識をうため、ぶつぶつと、意味のない言葉をつぶやいて。

「僕はただ……やりたいことをいっしょうけんめいがんばってやるだけ……だから……これでいいんだ……」

床から浮かぬ足を、引きずって、引きずって――――

扉口――臑のあたりに張られた、門から無事にヒリ出せる限界ちょうどくらいの太さの棒きれにつまずいて、梨太は頭から地面につんのめり、額をタイル床に打ちつけた。

堅い音と、犬居の騒々しい怒號を遠くで聴きながら、梨太は意識を失っていった。