《鮫島くんのおっぱい》終章

そして――――

五日後、烏は意識を回復したが、言葉をつむげるようになるまでもうあと數日を要した。

その間に、猿川が亡命者の潛伏先を自白した。

やはり彼こそがボスとして、生活の手引きをしていたらしい。しかし彼らの生活資金源である烏が捕まったとなると、もう亡命者たちは地球で生きていけなかった。

それでも捕まえきれなかった者は、そのまま放置することになった。日本語を習得し、社會になじんでしまった彼らはこの日本にはびこる違法滯在外國人のようなものである。これから苦労をしながらも、アンダーグラウンドの需要を得て生きていくだろう。やっきになって探しだすメリットはラトキアにも日本にもなかった。

白鷺は、當日のうちに意識を回復した。やはり頑丈である。

ひっくり返った亀のように四肢ばたつかせたまま、柄を確保。皮にも虎や豬の院した病院に監視のもとかつぎ込まれ、外科治療と解毒処置をけたあと、宇宙船の冷凍睡眠カプセルにすみやかに収監された。

烏もその隣に寢るように言われたが、どうせなら年のそばがいいなどと嘯いて、強引に白鷺の隣に押し込まれたという。

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彼らは眠ったままラトキア本國の牢へ運び込まれ、隨時裁判に掛けられる。ほとんどの亡命者は、大きな罪にならない可能が高い。幹部等がどれほどの刑罰になるかは、微妙なところだった。

鯨將軍や、騎士団長が証人席でなんと言うかに左右されるだろう。

鮫島は、栗林梨太によって救出された四時間後に意識を回復。

そして応急処置だけをうけて建へ戻り、二人のラトキア人を回収した。建の毒霧が消え去っておらず、白鷺の巨を背負えるのも、鮫島くらいしかいなかったのだ。

彼は文句ひとつ言わず、いつものように淡々と作業を行った。

だがそのすべてが済んだ後、夜空を見上げてちいさくぼやいた。

「……リタにばれたら、怒られるだろうな……」

そして自ら手を挙げて、の痛みを將軍に申告。

一週間もの間、病院に院し綿な検査と治療をけた。

――月別カレンダーが破られて――

十月の表示が、十一月のものに取り変わる。

騎士団のみなが集まって、鮫島を囲んでねぎらっていた。病院のり口で手を振って解散する。し遅れていくという団長に、彼らは素直に従って、談笑しながら帰途につく。宇宙船出立までのほんのすこしの自由時間、地球の土産を、何を買っていこうかと話しながら。

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「そう気に病んでも仕方がないぞ、鮫よ」

ふよふよと空中を泳いで、くじらくんこと鯨史が、弟にむかってあえて軽い口調でいった。

「治療費は永久にラトキア政府がけ持つ。家族には不審のない事故として伝えた。遠方にいるとのことでまだ面會はこられていないが、事故の謝料ということで、今回のことの報酬も用意をしている。……リタ君の、目が覚め次第、院長が連絡をくれるはずだから」

鮫島は黙ってうなずいた。

くじらくんが、所在なさげに彼の周囲を回遊した。

「……心配をするな。虎も、豬も無事に回復したんだ。リタ君もきっと大丈夫だ。殺しても死なない子だよ、きっと……」

そういう鯨の聲も、どこか乾いている。鮫島はそれを追及はせず、ただ黙ってうなずく――いや、うつむいた。

オーリオウル人の院長が、流暢な日本語でくじらくんに聲をかけてきた。鯨は鮫島にひとこといって、そのピンクの付のほうへ飛行させる。それを視線だけで見送って、鮫島は、病院の廊下を歩きはじめた。

ぱた、ぱた、ぱた。軽く、足音を立てながら。

三階の病棟へエレベーターであがり、ナースステーションに聲をかける。持ち込んだお菓子を看護師らへ渡し、丁寧に頭を下げた。婦長の會釈に、鮫島は、もう一度頭を下げると、スリッパをならして、廊下を進んでいく。

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「あらぁ? いまの誰?」

奧から若い看護師が顔を出し、無遠慮に、鮫島の背中を指さした。婦長がそっけない口調で、

「なにいってんの、ラトキアの騎士団長さんでしょ。先週まで二階に院してたじゃないの」

「鮫さん? ええーっ、うそでしょ。だって……の人じゃないですか」

「だから、なにをいってるのよ今更。ラトキア人っていったら別が周期的に変わるのよ」

「そりゃあ知ってるけどぉ。やだぁ、てっきり雄で完してると思ってたのにぃ」

はーっ、と大きく息を吐く。婦長がげらげらと笑い聲をあげた。

「おめでたいだねえあんたは。どうみても、院してる男の子にれ込んでたでしょうよ。そうでなくたってあんたにゃ高嶺の花だよ」

ううぅ、とうなり聲をあげる若いナース。しばらく悔しげに地団太を踏んでいたが、やがて、頬に手を當て、熱のこもった吐息をはきだした。

「いやあ……それにしても……男の時もかっこよかったけど、の姿はこれまた、すんごい……」

病棟を進むラトキアのの背中を、ためいきをついて、二人のオーリオウル人が見送った。

ノックをして、そっとドアを開ける。

真っ白な壁、真っ白のベッド。

そして、の気を引かせ、塗料をかぶったかのように顔を白くした梨太。

鮫島は靜かに、室をいれた。

ラトキアの民族服である明るい裳。細い腰をしばる、帯の位置をしだけ直し、小さな椅子を引き寄せて、梨太のそばへ腰掛ける。

吐息が聞こえるほど近づいて、その呼吸の音を聞く。

すこやかに、眠っているように見えなかった。

穏やかな呼吸と、やすらかな寢顔。

長くはないが度のある睫が、一瞬ぴくりと揺れたような気がした。しかし瞼が開いてくれることはない。

――あの、まんまるでよくく、明るい琥珀の瞳。それが、鮫島の姿を映すことを期待していても、青白い皮の閉ざされた瞼がそこにあるだけである。

「……リタ」

鮫島は手をばし、彼の頬にれた。二週間、點滴だけで生きている彼はずいぶん痩せたようだった。それでも生來のふっくらとらしい丸顔はそのままで、鮫島の大きな手のひらに収まっていた。

頬を引っ張る。耳を指でつたう。うなじに手を回し、後ろ髪を梳いて、顎を薬指でなでていく。

らかな栗の髪。し上を向いた小さくて丸い鼻。ぷくんとすねたように膨らんだ

ひとつひとつ大切にしおえて、鮫島は、シーツの端を強く握りしめた。

しばらく無言で、そうして座っていた。

椅子をさらに引き寄せる。

前かがみになって、彼のほうへ顔を寄せる。耳元でささやいた。

「リタ。りーた。りたー……」

大きな聲を出すのは得意ではない。この二週間、めったに開くことのなかった口をパクパクとかして、鮫島は梨太の名を呼んだ。

「リタぁ。おきろー。虎も、豬も、烏も、白鷺も、みんな起きたぞ。みんな元気だぞ。俺ももう治ったぞー」

ぺしぺし、ほっぺたをたたく。力加減がどんなものだかわからない。できるだけ弱くたたいてはみたが、やっぱり不安になってすぐに手を引っ込めた。

「起きろー。俺もう退院したんだぞ。宇宙船、出発の用意、いましてるところで、俺ももうすぐ出るよ。起きろよー」

ぼふっ、と、顔面から掛け布団につっこむ。鼻を埋めて、くぐもった聲で、つぶやく。

「俺、帰るよ、リター……」

梨太は目を覚まさない。

寢息だけが聞こえている。鮫島もそのまま、ずっと無言でそこにいた。

と――鮫島の元で、羽蟲がはばたくような振音。ラトキア裳の飾り紐を解き、ポケットから、ちいさな銀の金屬板を取り出す。消しゴムほどの大きさの、くじらの形をした通信機だ。

烏の電磁波で自分専用のものが壊れたため、これをとりあえず使用している。スピーカーから鯨の聲が聞こえ、退室を促された。

鮫島は応えて、通信を切り、立ち上がり――足を止める。

ちいさなくじらくんを、梨太の枕元へ置いた。

空いた両手で、ひとつだけ開いた飾り紐の下、上著のボタンを外していく。三つほど開いたところで手を止めた。

シーツの中へ手を差し込む。

そこにある、梨太の右手を握った。包帯にまみれ、ぞっとするほど大量のチューブや計のつながれたのを、そうっと引き出す。の気の引いたちいさな年の手。前かがみに近づいて、摑んだその手を己の元へ差しれていく。

れる、ひやりと冷たいをすくめる。

それでもじっと、彼の手のひらをそこへ當てていた。鮫島の溫をうつして、白んだ手のひらがゆっくりと溫度を上げて、が流れ、赤みが差していく――

ぴくりと、指先がいた。五本の指がすべていて、握力が稼働する。親指がらかな皮に沈んだ。いた彼の手以上に鮫島はびくりとを跳ねさせて、あわてて元から手を引き出す。

れた服を寄せ、たがいちがいにボタンを閉じる。パタパタとスリッパをならし、病室を飛び出していった。

――ゆっくりと、瞼のふたがひらいて――――

琥珀の瞳が、白い天井を見上げる。

布団の中に収まっていた全のなかで、右手だけがこぼれている。山ほどのチューブと包帯でずっしり重い腕をのろのろと持ち上げ、梨太はその手のひらを、じっと凝視した。

顔までおろし、鼻先につけて嗅ぐ。指先に、ちゅっと音を立ててキスをした。五本の指すべてと、手のひらにを押し當てる。

梨太は五指をかしその作をみて、確認すると、ナースコールを探して押した。スピーカーから驚きをふくんだ聲がする。すぐに參ります! という彼らの聲を遮って、梨太はマイクに向かって尋ねた。

「……すみません、それよりも……なんか、無にちんちんさわりたいんでカテーテル抜いてもらえんでしょうか?」

遠い空の向こう、奇妙な形の巨大な円盤が火を噴いて、青い空へと打ち上がり、その姿を消していった。

紅葉がすべて地に落ちて、雪をかぶり、春の雨にあたためられて、夏の土となり、蟲をはぐくむ。

彼らがくい散らかした青葉はやがて赤く染まり、また地に落ちた。

冷たいだけの風に溫もりが混じり、遅すぎる雪かと思ったら、それはどこから飛んできたのだろうか、桜の花びらだった。驚いて、捕まえる。

一年前にはきっと、ジャンプをしなくては屆かなかっただろうピンクの花びらを手のひらに乗せて、梨太はをとがらせ、フウと吹き飛ばした。

彼が吹いた花はきっと、また誰かが捕まえるのだろう。

穏やかにほほえんでいるのは梨太だけで、ほかの生徒たち、ほとんどは聲を上げて泣いていた。それは高校を卒業することへの喜びや別れの寂しさに真に浸っているのではなく、誰かの涙につられて引きずられ、連鎖してしまっただけのことである。一番最初に號泣した擔任教師の罪は重い。

「相変わらず、おまえってマイペースなのな、栗坊」

同級生が鼻をすすりながら言う。梨太は、卒業証書のった筒で肩をたたきつつ、友人を振り返った。

「そう簡単に人が変わりはしないよ」

友人は笑う。

「二年生から変わったのは背丈だけか。ああーおれはそれがなにより寂しいよ。あんなに可かった梨太君が、なんだか普通のイケメンになちゃって」

「前から言ってたろ、僕は十七歳になったら背がびるんだって。まあ平均よりももうちょっと低いんだけどさ」

自嘲してとぼける。自分の頭頂に手を當てて、ふーむと唸り、虛空を見上げた。

「……でも、背びすれば屆くくらいにはなったかな……」

同級生たちは校門の前で、泣いて笑って大騒ぎしている。おそらく現像することはない寫真を撮影し、抱き合ってを分かちあっていた。

その人混みを、たいして興味もなさげに歩いて過ぎる。

梨太にはあまり、時間の余裕はなかった。三年間、徒歩で通學してきた道を早足で進む。さっさと帰宅をして、著替えたら、準備をすませている荷をもって空港へ出発しなくてはいけない。

在校生からけ取った花束を抱えた梨太をみて、近所の人々も聲をかけてくれる。出國することを知っているものはなおさらだ。向こうでの連休には帰ってくるよと手を振って、梨太は住み慣れた一軒家へっていった。

  別れに寂しさがないわけじゃない。不安もある。準備だっていちいちおっくうだ。

だけど、やりたいことがあって、それができるなら、やらなくてはいけないだう。

四つの季節すべてに応じた洋服と、日本のオヤツを詰めて一杯のトランクに、小さな金屬板を投げれる。消しゴムほどの大きさの、くじらの形をしたそれを大切そうにハンカチで包み、梨太はトランクの蓋をした。もっと必要な生活道は先に、航空便で下宿先へ送っている。

ちょっと旅行に行くような格好で、學生ビザだけはしっかり確認して、手荷を抱える。

両手に荷を抱えて玄関に出た、その目の前を、ふわりと桜の花びらが舞い、梨太にむかって落ちてきた。捕まえようとしなくてもやってきたピンクのハートに、ういやつめ、と息を吹きかける。タクシーを待つ間、梨太はそうやって遊んでいた。

春風の舞う霞ヶ丘、上空にシルバーメタルの円盤がって過ぎてゆく。

どこか遠くの空から、もう一枚、ピンクのハートがひらりと舞って飛んできた。

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