《鮫島くんのおっぱい》梨太君と電話
朝から強い雨の降る日だった。
データを、バックアップ用にフォルダ整理している間に電話が鳴る。
日本の友人だった。高校時代からの付き合いである彼は、研究チームとは何の関係もないが、定期的に応援のメッセージをくれていた。
「いよいよ明日だな。荷が多いだろ、駅まで車出してやろうか?」
その親切な申し出に首を振る。
「いや、タブレットとデータだけだから。大きな荷はもうホテルに宅配済み。夜行バスで行くよ」
「新幹線つかわねえの?」
「旅行ならね。でも今はその予算をしでも、研究費用や発表の飾りに回したいんだよ」
電話の向こうで友人は笑う。
「なんだかんだ言って、お前は仕事馬鹿だよ。俺の三倍アタマがいいくせに、四倍頑張ってきたんだから。……がんばれよ栗坊」
「ありがとう。次の正月には、またあの居酒屋に行こうな」
短い談笑だけわして、友人との電話を切った。
再び、攜帯電話が鳴ったのは二十分ばかり経ってからのことだった。雨はますます強まり家中に雨音が響いていたが、手もとにあったのですぐに気が付く。
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畫面に表示された発信者名を見て、梨太はアレッと聲をらす。すぐに話ボタンを押して、
「はいはいもしもし久しぶり。どうしたのメガネバ君」
電話の向こうで、あうっと小さな悲鳴が上がった。
「やめてくださいよそのあだ名……」
「だってメガネをかけたヤナギバ君なんて、メガネバ君以外にどんなあだ名をつけろっていうのさ」
「いや、ふつうにヤナギバと呼んでくださいよ」
「それはできない相談だな、メガヤナギ君」
「変わったじゃないですか! 相変わらずだなあ、栗林センパイ」
柳葉は呆れたように言って、話の向こうでクスクス笑った。
梨太が通っていた、私立霞ヶ丘高校の數學パズル部、その後輩である。年に數回しか顔を出さないと言う幽霊部員だった梨太だが、この年との友は長く続いていた。
彼はっからの數學パズル好き年であった。同じ趣味である梨太とは気が合い、知恵のコレクション自慢に何度か家に招待している。
卒業してからは一度も會ってはいないが、たまのメールや年賀狀のやりとりを続けていた。
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電話がかかってくるのは珍しい。
どうかしたのかと聞いてみると、彼は聲にシリアスなものを含ませた。
「センパイ、夏休みにはこっちに帰ってくるって言ってましたよね。もう著いてるんですか?」
「うん、今、霞ヶ丘の自宅だよ。正確にはその一階のトイレの便座に腰掛けているよ」
「五分後にかけなおします」
「ありがとうそうして」
梨太は一度、電話を切った。
ややあって、こちらからかけ直すと、後輩の年はすぐに出た。
「無事でよかったです。なにも知らないで出歩いてたら危ないと思って」
気持ちが焦っているせいかいまいち言葉が要領を得ない。
梨太は小首を傾げた。キッチンで紅茶を淹れながら、後輩に向かって聞き直す。
「何の話? 明日に大事なイベントがあって、今夜家を出かけるんだけど」
「あ、危ないですよ! ニュース見てないんですか?」
「テレビはほとんどつけないね。一応ネットで大きなニュースは読んでるはずだけど。なに、どしたの」
「霞ヶ丘市ですよ。犬が出るんです」
犬。梨太は眉をしかめた。
「……なにそれ。野良犬なんか別に珍しくない――いや、今時はあんまり見ないか。でもそれがなに」
あえてとぼけてみると、後輩は興した聲でまくし立ててきた。
「ほんとに知らないんですか? 結構大変なことになってますよ、市。野良だかなんだかわからないけど、大きくて兇暴な犬みたいなのが住宅地や商店街なんかでもあちこち出沒して、人を襲ってるんです。死んだとか重傷ってほどの被害はニュースでは流れないけども、ツイッターでは、小熊くらいの大きさだったとか、腕をもがれたのを見たって書き込みもあるし――」
「……そんなにオオゴトに?」
「ですです。まあツイッターの件は眉唾として。とりあえず狂犬被害がこの町で頻発してるってのは事実ですよ。俺も見ましたからね。なんかこう、ふつうの黒い中型犬なんだけども、なんかがテラテラと脂っぽくて、しっぽがすごく太くて。背中に虎の縞みたいなのが――」
梨太は押し黙ったまま、後輩の言葉を聞いていく。
地球外生命、バルゴ。
ことの大きさに反しニュースになっていないのは、やはりラトキアと日本政府との約だろう。しかし三十年前ならともかく、今は小學生や無職の主婦、ホームレスですら世界とつながる機を攜帯電話インターネットを持ち歩いているご時世。いつまでも箝口令かんこうれいは通用しない。
しかしそれにしても、目撃報がやけに多い。野生の獣ならばもうし、夜闇に忍び、ゴミをあさるほうが効率的ではないだろうか。日中、人前に出すぎている。人間を襲いすぎだ。
よほど飢えているのだろうか。
(……あの歯並びを見たじ、雑食でなんでも食べていけそうに見えるんだけど……)
霞ヶ丘は、清潔な町だ。生ごみの管理はそれなりに厳しい。ならばこそ、霞ヶ丘市にとどまっているのと矛盾する。
バルゴの機力がどれほどのものかはわからないが、どうであれイヌ科に似たと考えれば、霞ヶ丘から出るのに二日もかからない。もっと都會なり山林なりへ流れているはずだ。平和な住宅地であるこの町は、野良犬にとって最も食料のない土地と言える。
(人の味を覚えたか。それとも、この町に何かがある……?)
考する梨太の耳に、柳場はマイペースに続けた。
「俺はすぐに家にったんで無事だったけど、なかなか扉の前から去らないし、警察に電話したんですよ。そしたらなんか黒い服を著た人が來て、びっくりするほどサクッと殺して……ふつう、狂犬でも熊でもいきなり首刈らないですよね? 俺なんだか可哀想になっちゃって」
「……ああ、まあ……うん。騎士さんも仕事だからねえ」
「きし?」
おっと失言、と口をつぐむ。
後輩はそうして自分の目撃談と梨太への心配を述べたが、やがて口調に熱をこもらせた。
「で、ですね、それはそうと。俺、その犬の寫メ撮ったんですよ。犬種とか調べられるかなと思って」
暗號クイズを解読するのが趣味であるこの年は、こういった話題をひどく楽しそうに話す。それで、と促す梨太に食い気味で、
「いないんですよ、そんな犬種! なくともこの日本のペットショップには」
「そんじゃ雑種か、外來種でしょ」
「雑種にしては特徴的すぎます。俺の調べたところ、海外の犬種にもぴったりくるものはありません」
「……ああ、そう……」
「それで、僕思うんですけど、配実験中の新種なんじゃないですかね? 原種はもちろん外來種で、業者や、あるいは好事家が山や自宅でひっそりと繁させてて、逃げ出したのがまた繁して……だっていちどきに溢れすぎですよ。どっかのブリーダーが在庫を放ったと考えて普通じゃないですか」
「なるほど。まあ、そう考えるのが自然だね」
とりあえず適當な相づちを打って様子見。年の興した聲が追いかけてきた。
「きっと、だから、警察は立ち位置に困ってるんですよ。兇暴な野犬なら暴に捕れるけども、悪質ブリーダーの管理ミスなら犬たちこそ被害者ですから。そうなると大事に保護しなきゃいけない――だから、ニュースにならないんですよ。機関が口止めしてるんですね。だって殺すより無事に捕まえるほうが難しいし、保護したあとに大金と手間がかかる。俺、この推理自信あるんです。
だけどそれにしたってあんなにスパッと――ちょっとひどすぎると思うんですよ。これってどこかに通報した方がいいんでしょうかね?」
どうやら、先輩に電話をかけてきた本題はこちらであったらしい。梨太はフムゥと意味のない聲をらして、アイスティをあおって。
「それは……されたら、困っちゃうんじゃないかなあ」
他人事ながら心配になり、呟く。
ラトキアの騎士たちは、あくまで平和的な軍隊としてこの地球に派遣されている。民間人への被害波及や、重火の使用を厳しくじられているのもそれが理由だ。
だからこそ日本政府は騎士団の活を是認し、警察への箝口令、報作や人払いなど援助もしているのだ。それが騒ぎになったら、騎士たちはきつく糾弾されることだろう。
彼らは何も、間違ったことはしていない。だが、平和ボケしたこの日本の町で、彼らは殺者の烙印を押されつつある。
(……このへんどうしても軍人さんたちとはギャップがあるんだよな。こういう覚的なものはやっぱり、現地人が教えてあげないと――)
と。
自分のつぶやきに、梨太は目を見開いた。
「……よっしゃっ! いい大義名分ネタできたっ!」
一人んでひざを打つ。
攜帯をつなげたまま、リビングのカウンターデスク、ノートパソコンを起させる。立ち上がったネットからすぐに、霞ヶ丘市の地図を出す。畫面を見つめながら、
「ニュースに出ても、テレビ報道じゃどうしてもタイムラグがあると諦めてたけど。なるほどツイッターか。僕もやっときゃよかったっ」
「? なんですって?」
「ネバギバくん、お願いがあるんだけども」
「また変わったし。……お願い事って?」
うん、とうなずく梨太。あだ名に関してのクレームはスルーしつつ、真摯な聲で、伝えた。
「今、『犬』がどこに出てるか分かる? 僕の家から近いところで、目撃報があれば教えてほしいんだ」
訝る年。梨太はさっそく外出の支度をしながら、電話口の彼に宣言する。
「待ってるだけじゃだめだ。しいものがあるなら、自分から行かなくちゃね」
とても機嫌のいい聲だった。
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