《鮫島くんのおっぱい》梨太君の研究①

バスのシートを倒して、梨太は目を閉じていた。

揺れる、夜行バスの席。乗客の多くがそうしているように、梨太の耳にも、イヤホンがっている。しかし流れるのは音楽でもラジオでもなかった。

梨太は、音楽をほとんど聴かない人間だ。BGMという概念がない。

ポケットの攜帯プレイヤーから、録音した自分自の聲を聴いていた。

今日発表する臺詞の臺本を音読したものだ。

イヤホンを外していた左耳から、目的地への到著を予告するアナウンス。

梨太はプレイヤーを切った。

到著まで殘り數分。目を閉じて、梨太はシートのクッションに重を任せる。

三秒とせずに、目をあけた。

 手荷のリュックから、文庫本サイズの書籍を取り出す――地球にはない、遠い星の言葉が書かれた辭書である。

日本語から引いて、ラトキア語に変換する辭書であった。五十音順に並んでいるらしい、言葉を探して適當にめくる。

その索引から、五十音のラトキア語表記を知ることが出來た。

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アの音が、ミミズののたくったような縦長の字。イの音が楕円――

そうしてめくっていけば、日本の言葉をラトキア語で呼ぶことが出來る。

家フルゥ、學校ヨツカエル、好き(アージェ)、大切ナァナ……

「鮫……鮫……」

呟きながら指先で探す。しかし、鮫という言葉の索引は無かった。

小首を傾げながら、犬、鯨、虎といった単語も探してみるが見當たらない。もしかしてと思い全をざっくりめくってみると、巻末に、オマケのように分離した項目があった。

ラトキア語の単語が並び、直後に日本のの名前。そしてまたつらつらとラトキア語で長文が書かれている。

これは、ラトキア人によるラトキア人のための辭書である。自分たちの名前が、日本においてどのようなを現すのかを解説しているらしいその項は、彼らからすれば調べやすく面白い読みになっているだろう。

だが梨太にとって使いやすいものではなかった。

「鮫、さめ、さめ……」

呟きながら指でたどっていく。

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バスの速度が急速に落ち、到著の案が聞こえてくる。梨太はそれを無視して、夢中になって辭書に沒頭した。

鯨、犬、烏――さまざまな知った名前が目にるのはすべて無視。

鮫。鮫。鮫――

停止したバスから、乗客たちは次々と降りて行った。手荷を抱え、一応足元に気は配りつつも、梨太は辭書を手放さない。

バスが到著したターミナルに、ホテルのシャトルバスが迎えにやってくる。

を移して乗り換え、再び出発。十分とかからずに到著する。

イベント會場は、そのホテルと館でつながっている。會場の確認だけして、梨太はすぐに自室へとった。

そしてベッドに腰を下ろし――

目的のものを発見した。

「……鮫クーガ……」

その名が、ラトキア人にとってどういう意味合いを持つのかまでは言語を読み解けなかった。それでも文字の発音はわかる。

梨太はもう一度だけ、を震わせた。

それで満足して、梨太はようやく靴をいだ。

「……よしっ」

意識を切り替える。

「それじゃ、頑張って、休むぞっ」

そう一人つぶやくと、慣れない枕に頬をうずめる。そして十分後には寢た。

『自然科學研究技・創作アプリ展示発表會』

そう銘打たれたイベントは、初開催から三年、十二回目を迎えるのだという。

ホテルの大ホールと、隣接するイベント施設會場をつないで三日間行われる。小規模ながらも獨自の路線から人気を博し、出展者、場者數ともに年々増え続けているらしい。

正直、梨太は一年前まで、このイベントそのものを全く知らなかった。

海外で大學にひきこもり、黙々と研究を行っていただけのところにチームメイトがその提案をしてきたのである。

――研究容の一部を切り取って、スマホアプリにし、ゲーム市場に出せるのではないか?

それは、學生たちによる大企業への挑戦だった。

人気のゲームタイトルを利用したものとは違う、自然科學という分野からの新しい技と発想を用い、作られたスマホアプリ。梨太の學校だけでなく、全國の大學研究所から出展があるという。

梨太のチームメイトは本國から離れるのが難しく、彼一人、代表してその場に立つのである。

「おーい、こっちこっち!」

聞き覚えのある聲に振り向いて、梨太は思わずホッと息を吐いた。そうした自分が、やはり張していたのだと自覚する。

「おはよう口。わ、もう骨組みできてんじゃん、ありがとー」

與えられたブースは長機一本分の橫幅に、その倍ほどの奧行の四角形。簡易テントのような布が張られて、冷房を遮り蒸し暑い。

それだけのスペースに、モニター代わりのタブレットやPCがすでにつなげられ、ポスターと看板、飾りまでつけられている。

梨太は荷を置きながら、元同級生である友人をねぎらった。汗をかいている彼に、自分用にとさっき買ったジュースを投げてやりながら、

「一人でやったの?」

「ちょっとだけイベントスタッフさんが手伝ってくれたよ。でも楽しかったぜ。なんか昔の部活勧會とか、文化祭を思い出すよな」

「んー、僕はこういうセンスはないから。勧のときはチラシ作っただけだし、二年の文化祭も逃げたし」

「それはお前、クラスの出し裝コンテストなんてもんになったからだろ。全員強制參加ってのに激怒して」

「正確には、それを僕が院中に決定したことにね」

梨太は頬を膨らませ、わかりやすく不機嫌になって見せた。高校三年間ずっと同じクラスだったこの年は、梨太のをよくわかっているし、地雷もまた知っている。

「何度も言ったけど、俺と柴田は反対したんだぞ。栗坊はこういうのすげえ嫌いだし、強制したところでたぶんやってくれないし、無理やりやらせたらあとで酷ぇ目にあうぞって。止められなかったのは悪かったけど」

「ま、男子校の文化祭なんてバカにならなきゃ面白くないでしょ。理解はするし、別にもう怒ってないよ? やらなかったうえに酷い目にあわせといたから」

にっこり笑って言った梨太に、かつての慘劇を思い出したのか、口は青ざめて目を逸らした。大げさだなあと笑う梨太。

別に何も、罠にはめてなどいない。ただ自分はちゃっかりスーツで司會進行役に収まり、事前に校HPホームページで広告拡散、裝コン參加者全員のプロフィールを事細かに解説し、のちにその寫真を新聞部に手渡しただけのことである。

卒業アルバムにまで載ったのは梨太のせいではない。

當時メイド服を著ていた年は、黒歴史を払うように首を振り、虛空に向かってぼそりとつぶやく。

「……いろんな意味で、やるときゃやるやつだよホント」

「ん、なに?」

いや別に、と誤魔化して、彼はジュースの蓋を開けた。

梨太のスマートフォンはずっと點滅を続けている。海外で待機しているチームメイトたちからの激勵だ。いちいち返信をしていては準備に差し支えるので、放置することは事前に伝えてある。それでもやまないメッセージ。

中を開かずとも、その明かりはたしかに梨太を勇気づけてくれた。

部外者であり準備の手伝いにだけ來てくれた年だが、閉館までつきあってくれるらしい。

「どうせヒマだし。お前はココ離れられないだろうから、何かお使いがあったら言えよ」

という、優しい言葉。梨太は心からお禮を述べ、そして即座に、ジュースを買ってきてくれるよう小銭を渡した。

展示會イベントは三日間にわたって行われる。

初日がビジネスデー。関係者と事前に申請した業者だけが招かれるため、その人りはまばらだ。だからこそ、対面し落ち著いた狀況でプレゼンテーションが可能である。

なんとなくはやりものを探して遊びに來るだけの一般客と違い、法人は基本的に全ブースをきちんと見て回り、自社の商売につながるネタを探している。

無名の學生出展ということでどうしても冷遇され、り口からはほとんど最奧地片隅である梨太のブースは、今日に限ってはある意味特等席になりえるのだ。

開催時間である十時になると、まずは大きなブースから順に行列が出來、やがて散らばりはじめた。

ちらほらと梨太の前に人が往來する。

産展の売り子のように聲をかけるわけではない。ただ、流しっぱなしのプロモーションビデオの前で想よくほほ笑んでいるだけである。

通りがかったスーツの男が、その笑顔に反的に會釈を返した。首には企業名とその部署が書かれた名札をぶら下げている。

男と目を合わせ、梨太はそのまま顔面をゆっくりと回転させた。導した視線の先に、タブレットがある。

そこから流れるプロモーション、優な音楽と耳に殘るの聲。

『――大學、海洋生學部研究所チームが開発したアプリケーションとは、ずばり、生のココロがわかるアプリなのです』

男は足を止めた。

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