《鮫島くんのおっぱい》梨太君の危機・三回目②

會場から、人がどんどん消えていく。

閑散としてはいても、ブースの中にあれば二人だけの室になる。

イニシアチブスクールの校長、巖浪継嗣は、梨太の腰を摑んだまま沈黙し続けていた。

みるみる機嫌を悪くしていく年の顔を、面白そうに観察している。

梨太は思い切り腕を振り、巖浪の手をはじいた。

床に置いてあった荷を摑み、すぐに立ち上がろうとした――すぐ橫に、巖浪がかがみ込んでくる。こちらを凝視している、さびた釘のような視線にを強ばらせた。

男が、低い聲でささやいてくる。

「存外、立派に、化けて育ったものだ。クリバヤシリタ君――」

「……何――?」

うつむいたままの梨太に、男の手がびる。

巖波はぐいと顎を捕むと、梨太の顔を己に向けた。眼鏡を奪い取られる。わになった琥珀の瞳に、己の顔を映し込むと、巖浪継嗣はにやりと笑った。

長をしても、この目のは変わらないな。このしい琥珀は日本じゃずいぶん珍しい。……だけをカラーコンタクトで隠しても、ボクは君の眼を忘れはしないがね」

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「……あんた、誰だ?」

「誰でもないよ。君とは真実、初めて出會う。いち社會人、イニシアチブの代表巖浪継嗣。親が付けてくれた、生まれてから一度も変えていない本當のボクの名前だ」

「……僕は……」

梨太は巖浪を睨み、つぶやく。

「……僕は、栗林梨太、だ。ただ真面目に、一生懸命生きているだけの學生だよ……」

巖浪は己の親指を、梨太のに押し當てた。

噛みしめた前歯に、巖浪の爪が當たる。彼は指にじっくりと力を加えた。歯に痛みをじるほど圧され、こじ開けられた口腔に、男の溫が進してきた。

「お父さんに似てきたね……」

舌の裏に巖浪の指紋をじる。

梨太は、その眼に強い攻撃を持たせ、男を睨みあげた。

悍な眉の下、大きな瞳が猛禽類のごとき鋭さで獲ぬく。巖浪は一瞬、ビクリと肩を強ばらせたが、すぐに嬉しそうに笑った。

「そう、その眼だ。実に會えて嬉しいよ。ボクはずっと君の消息を探していた……こんなところで會えるだなんて。今日は出展者リストに君の名を見つけ、仕事のリサーチなんて頭から吹っ飛んでしまったんだ」

巖浪は親指を引き抜いた。梨太の唾に濡れた指先を、自分の舌で舐めとった。

「出會えてほんとうに嬉しいよ」

「……なるほど。どうりで。恵まれない子供たちの學業救済、なのに、男子校しかないわけだ。聖人君子とは嗤わせる。クズが」

梨太は呪詛を吐く。

巖浪は厚いのを思い切り愉快そうにゆがめた。

「なにか誤解をされたようだね。ボクはただ純粋に、君を救いたかったんだ。ボクの學校には、君のような年がたくさんいる。夢と希、人並み外れた學力と意を持ちながら、哀れな環境ゆえに學校に通えなくなった年達が」

梨太の表は変わらない。

「で?」

男の言葉をさえぎって、皮げに顎をしゃくってみせた。

「僕になんか用? お互いに利益があったのは五年前までの話。僕はもう子供じゃない。學費も生活も困ってないし、あんたが買われる理由はなんにもない。おあいにく様」

巖浪がまた楽しそうに笑う。彼はこの時までに、どれほどセリフの練習をしてきたのだろう。囁く言葉に一切の淀みもない。

「出回っていた顔寫真は、遠目でいものばかりだった。だから、住処と名前だけ変えればシレッとしているほどにかえって社會になじむことが出來たのだろう。だが、ここに、こんなものがある。――ボクの蔵コレクションだ」

巖浪が取りだしたのは、一枚のSDカードであった。梨太の手に握らせて、

「どうぞ、差し上げる。遠慮しないで、同じデータがボクのHDDにっているから」

「……」

「あとで、見てごらん。周りに人のいないところで。間違っても、さっきの友人に見られてはいけない。もし見られたら――君の、本當の名前がバレてしまうよ」

梨太はカードごとこぶしを握ると、巖浪のに打ち付けた。犬歯を剝いてぶ。

「構うか! 僕に後ろめたいことなんかなにもない!」

二十歳を目前にした年の拳は、決して無力ではなかった。大柄な中年男のを傾げさせ、もちをつかせる。

梨太は立ち上がり、真上から巖浪を見下ろして睨みつけた。

「それより、あんたが僕にしていることのほうが犯罪だ。許されると思うなよ」

「後ろめたいことがない? ならどうして本名を名乗らない。この五年間でできた親友や人、だれかひとりにでも、君は自分の過去を明かしたのか?」

ぐっ、と、梨太のから聲がれた。

巖浪が立ち上がる。並ぶと、彼は本當に大きな男だった。分厚いに、太い腕。梨太よりも一回りぶん年を重ねた老獪な笑みを、梨太の頭上からどろりと落とす。

「……可哀そうに。いままで孤獨で、つらかっただろう。本當の自分を、誰にも話すことが出來ず……さみしかっただろう」

こわばる梨太の手首を摑むと、巖浪はそのままクルリと捻った。梨太の手には、二つのカードが握られていた。一つは畫がっているというSDカード。もう一つは、はがきほどのサイズの、巖浪の名刺。その面の裏を天井に向ける。

「ボクなら、すべて飲み込んであげよう。本當の君を見せてほしいんだ。いくら時間がかかったっていい。今夜の予定は空けてある」

名刺の裏には、數字が書かれていた。

11階の42號室――理解した梨太が愕然とするのを実に満足そうに見下して、白い歯を剝いて笑う。

梨太の伊達眼鏡を振りながら、彼は言った。

「うん、やっぱり、おとうさんに似てきたねえ――」

彼は眼鏡を、己の鞄の中に放り込む。

「じゃあ、ごはん、いっておいで。西出口より東口から出たほうが、食べもの屋はたくさん選べていいと思うよ」

そしてこれ以上ないほどに上機嫌で歩み去っていった。

その背中を、しばらく見送る。

梨太は呟く。決して小さくはない聲で。

「……犯罪者なんて、大嫌いだ」

そして、手の中のカードをぐしゃりと握りつぶし――開く。

震える指で、くしゃくしゃにつぶれた紙切れを開く。四ケタの數字の上に、SDカード。

梨太はその両方をじっと見下ろして、しばらくそのまま立ち盡くしていた。

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