《鮫島くんのおっぱい》梨太君の危機・三回目③
SDカードをタブレットにれ、中の畫像と畫を確認する。
すべて見終えて、梨太は天を仰いだ。
どうにか、建の外まで落ち延びたものの、そこからがかない。
梨太はそうして二十分ほどじっとしていた。
午後五時――夏の夕日が梨太の頭頂部を灼いていく。
産が燃えるほどに日を浴びても、なかなか汗はでてこなかった。
閉館した會場からは途切れることなく人がこぼれ、何人か、年の姿を見つけ小首を傾げて過ぎていく。
冷えたを溫めて。
梨太は、ゆっくりとをばした。
立ち上がり、の中にためた息をすべて吐き出す。酸素をいっぱいに吸い込んで、面をあげる。
手には例のカードがあった。やはらと派手な巖浪の名刺だ。彼の顔寫真とフルネーム、経営理念や概要とともに、いくつかの住所や電話番號が掲載されている。
裏面には、彼が今夜の宿にする部屋番號。
梨太は攜帯電話を取り出した。
巖浪の部屋は、梨太の部屋よりもはるかに広く、豪奢なつくりをしていた。平米は五倍ほどもあるだろう。その一面に敷かれたカーペット、壁紙までも質が違う。同じホテルとは思えない格差である。
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ここの宿泊費はいくらするんだろう、と、そんなことを考えながら――梨太は、後ろ手に扉を閉めた。
顔を上げると、さっきまでいたはずの、巖浪がいない。スイートルーム、奧の部屋から、男は山のように荷を抱えて戻ってきた。
アイスペールにシャンパンとバラの花、ペアグラス。それらをこぼさないよう苦心する巖浪。
その表が、客観的に、可笑しいほど、舞い上がっている。
「連絡、ありがとう。よ、よく來たね、ほんとうによく來てくれた――待ってたよ」
一応なんとか、伊達男の余裕を保っている巖浪。しかし梨太と視線が合うだけで紅するあたり、彼の言葉がそのまま真実で、まさに、待ち焦がれていたのだろうと知れた。
梨太はその場所で視線を巡らせる。
ベッドルームは奧にあるらしい。さすがに、いきなりそこへ腕を引いていくほど野卑ではないようだ。巖浪はテーブルにペールを置くと、グラスを向い合せに配置する。
オードブルまで用意されている。フォアグラのパテにトリュフの載ったカナッペ、キャビアを散らした魚介のマリネ。梨太は思わず、笑い聲をらしてしまった。
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まあ、こういうものが好きながいないとは言うまい。それにしても昭和のバブル趣味丸出しである。巖浪は梨太と一回りほどしか変わらないように見えるが、案外、もっと年上なのかもしれない。
そこへ著席をするまでの間に、巖浪はなにか、天気がどうとか流行りの歌手がなにだとか、意味のない獨り言を言っていた。それらをすべて聞き流し、シャンパンが注がれるのを黙って待つ。
グラスに、金のが満ちる。
梨太は言った。
「僕、まだ未年です。お酒は飲めません」
案の定、男はキョトンという顔をした。自分も席に著きながらハハハと笑い聲を上げ、
「誕生日まで數か月のことだろ?」
「でも……法律で決まってます」
「何をそんな――ああ、そうか。ボクが教師だから警戒しているんだね? 安心しなさい、今夜のボクは『イニシアチブ・スクール』の理事長ではなく、ただの巖浪継嗣――ひとりの男としてここにいる。さあ、なにも気にしないで。まさか飲んだことがないってわけじゃないだろ?」
「ありません。ましてこんな高そうなお酒、見るのも初めてで」
「まさか。本當?」
梨太は神妙にうなずいた。
「飲みたくないです……怖い」
巖浪が破顔する。いよいよ嬉しそうに、自分のグラスを差し出し、
「大丈夫だよ、たいした度數でもないし。中等部の子だって、ジュースみたいだって喜んで飲んでいた。さあ、一口でも飲んでごらんよ。酔っ払ったって、ボクが介抱してあげる。ベッドだってあるんだから」
テーブルに置いたままの梨太のグラスに、軽く當てて鳴らした。巖浪の右手にシャンパングラス、空いている左の手を、梨太の手の甲にそっと重ねて。
「あ、あの……」
あちらの親指が、くすぐるようにうごめいている。梨太は抵抗をすることはなく、ただ掠れた聲を吐き出した。
「や、約束、してください。今夜僕があなたのいうことを聞いて、そしたらもう、僕に関わらないって」
巖浪の眉がピクリと上がる。顔面の左右で表が違っていた。半分は不機嫌に、半分は上機嫌に。梨太はさらに続けた。震える聲で、だがはっきりと。
「データを全部、消去してください。あれが公開されたら僕は生きていけない。困るんです。お願い……します。なんでもするから……」
巖浪の表はやはり、複雑なものであった。だがやがてゆっくりと弛緩し、にやにやと下卑た微笑がこぼれる。
「そうか。いや、今日は本當に、食事と話だけでもと思っていたんだけどね。君がそれだけ覚悟してるというなら、仕方ない」
噓つけなにが仕方ないだバーカ、と中で毒づく。そんな毒はおくびにも出さず、梨太はしとやかに囁いた。
「男の人を相手に、どうすればいいのかわからなくて、怖い」
「お? おお、そうかそうか。大丈夫任せなさい、おじさんがちゃんとやるから」
とうとう一人稱がオジサンになった巖浪継嗣。殘っていた酒を一気にあおると、空いた手で梨太の顎をつかまえにくる。の高さが合う。梨太は大きな聲を出した。
「あのっ! 先に、データを、あの畫を削除してください!」
「んん? それはあとで、明日の朝にでも」
「ダメです。いますぐ、先に。僕の目の前でちゃんと消してください。それからじゃないと、僕はベッドルームには行きません」
巖浪はしだけ思案し、すぐにニッコリと笑った。
「……いいだろう。では、見てなさい」
彼は梨太を導き、扉のそばのクロゼットからノートパソコンを取り出した。足の長いカーペットに胡坐をかいて座り込む。ノートパソコンは待機狀態にしていたようで、膝の上で開くとすぐに畫面がついた。
デスクトップにそのまま張り付けられたアイコン。巖浪はキーボードを使用して、そのアイコンをクリックする。
巖浪の隣に、膝を付いて覗き込む梨太の目の前で、その畫が再生された。
巖浪がほほ笑む。
「……君に渡したSDカードと同じもの。間違いないか、確認するといい」
梨太は眉をしかめた。
都會の路地であった。
歓楽街だろう。品のないネオンがぼんやりと霧の中に點在している。
攜帯電話で撮られたものだろう、畫素數も低く、手ぶれがひどい。それでもなにが映っているのかくらいは解る。
ひとけのない町を、一人のが歩いていた。後ろ姿だが、だと視認される。
背丈は、の平均並み。しかしショートブーツにはヒールがついており、実際は幾分小柄と思われる。スカートではないが、いかにも的な合いの服裝をしていた。レモンイエローのトップスに明るいのデニムパンツ。剝き出しの足は華奢そのもので、から脹ら脛まですべてが同じ細さである。背中に揺れる長い黒髪。頭部を覆う鉤編みのニット帽は、夏らしいさわやかな服裝と季節が合っていないように思えたが、景に移り込んだ茜の木の葉から考えるに、服裝の方が季節はずれの軽裝なのだろう。
ヒールのついた靴、出された華奢な足、鮮やかなの服、長い髪。
この記號がそろえば、その背中は以外の何者でもなかった。
「……しーっ。いたぞ」
子供の聲がした。もうし年長だろう、男の聲が続く。
「間違いないのか?」
「間違いないよ。おれ、ゼミが一緒だったもん。目撃報もこのへんでいっぱい出てるし、絶対、アイツだって」
「よし……じゃあ、どうする?聲かけてみるか」
「おーい、そこのおじょうさん、こっち向いて!」
の肩がビクリとふるえ、反的に振り返った。長い髪が宙に弧を描く。直後ズームが掛けられ、の顔が畫面に映し出された。
かわいらしい顔立ちをしていた。年の頃は十代半ば。人はしていないだろうが、どことなく造りがよりも力強い。
丸みを帯びた頬に、し上向きの小さな鼻、ぷくんとらしげな。大きな目はリスのようながあり、その瞳の部分は、しく特徴的な琥珀の――
その瞳が畫面を強く睨んだ。
巖浪は一度、畫を停止した。
「五年前の君、だね」
梨太はこともなげにうなずいた。
「はい。僕です」
巖浪が楽しげな聲を上げる。
「別を変える変裝は、いい手だったと思うよ。年齢と別という、一番大きな記號をつぶしてしまえば、親しい知人でもなければ手配の顔寫真と符合させられまい。よく似合ってるしね。……可い」
梨太は返事をしなかった。
巖波は再び、畫の再生ボタンを押した。のこり二分弱を、無言のまま梨太は見つめていた。
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