《鮫島くんのおっぱい》英雄の瑕(きず)

ラトキア王都は陸にあり、都に湖などはない。生活用水は塀の外から引きれていた。それを地下に貯水し、めったなことでは渇水しないという。

とはいえ、それを一億人でシェアしているのだ。海と森の國日本と比べれば、やはり清潔な水は貴重だろう。

それを、プール一杯分。

さらにはそれを四十度まで加熱し、適溫のまま維持するエネルギー量。

なんとなく脳で概算して――梨太は嘆息した。

「なして僕はこんな贅沢堪能しながら、水道熱費の計算なんかしてるのさ。びんぼーしょー」

頭のタオルの位置を直し、鼻の下まで湯に浸かる。「日本で水と安全はタダ」という言葉があるが、それを信じている日本人はもういない。

せっかくの湯だというのに、梨太はなかなかくつろげなかった。

「……鮫島くんの金銭覚って、やっぱちょっとおかしいよね。まあこれっきりのつもりで、無いものを使い込むようなことはないだろうけど……」

これからの未來、家計を共にすることに若干の不安をじつつ、梨太はプールサイドに顎を乗せた。

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「大僕は、寢る直前にりたい派なんだよな」

それでも言われるがまま浴している理由こそ「お湯がもったいない」からだった。

いい湯ではある。しかしどうにも、ゆっくりする、というよりはただ退屈して、ぼんやりと夕空を見上げていた。

夜、というにはまだ早い。ずいぶん暗くなり、湯気が白く見えている。

梨太はふと眉を上げ、湯から上がった。濡れた手で、扉口近くのカゴに置いた服をあさる。バングルを取り出し、白い柱に向けてボタンを押す。

一時停止していた畫が再開される。

こんどは映像までもきれいに見えた。話していたのは、やはり鯨だった。長くうねる黒髪、豪奢な格好、現在と変わりない貌だが、やはり今よりはずいぶん若い。

外見だけではない。カメラに向かって苦笑するは、やけにい気がした。

『――おとうさん、おかあさん。このあと、わたしを叩いてくれてかまわない。……じゃあ、映像を切り替えるね……』

そう言って、彼はカメラに近づき、何か作をした。畫面は一瞬で切り替わる。

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次に梨太が見たのは

聞こえたのはの泣き聲だった。

『ごめんなさい。ごめんなさい』

まみれのは、そう言って泣いていた。

年のころは十五、六歳。短く切った黒髪に、整った顔立ち。しなやかなつきは中的で、現在の梨太よりは幾分、小柄であった。

醫務室だろうか。白いシーツのベッドの上に、彼は橫たわっていた。カメラは天井に付けられているらしい。ほぼ真上から見下ろすアングルで、包帯姿のが悶えている。中が傷だらけだった。白いが、それよりも白い包帯と赤いにまみれている。

しかしは痛みに泣いているのではなかった。

『ごめんなさい』

そう言って、泣いて詫びていた。

畫面に、水の髪の頭頂部が映りこんだ。男の聲が聞こえる。

『ダメだな。完全にパニックになっている』

冷淡な聲だった。梨太の知らない男の聲だが、どこかで聞いたような気もする。

続いて、の聲――今度は鯨だとすぐにわかった。

『ダメってなによ! 鎮靜剤は? 全麻酔が効いてるんじゃないの』

『寢てるよ。魘されてるんだ。さらに深く眠らせることは出來るけど解決にはならないな。起きたらまたパニックになるだけだ』

『だからってこんな――見てられないわ!』

鯨の泣き聲に、

『ごめんなさい……』

の聲が重なった。

『ごめんなさい。アクス。アミ。バーミラ。ベネッタ。キャロ。チェザレ――』

『……クゥ? 何を言ってるの?』

『ディアナ。ドラフ。イージス――返事をして誰か、誰か――キャァアーアァアアアーッ』

続いていくつもの人名を呼び、彼は急に大聲を上げた。泣きながら、詫びながら、人の名を呼び、悲鳴を上げる。そして彼は耳をふさいだ。自分の悲鳴で、自らを起こしてしまわないように。夢の中でび続け、のたうちまわる。

鯨が畫面にった。に覆いかぶさり、抱きしめて抑え込む。は容赦なく保護者を蹴り飛ばした。暴れながら、それでも眼は開かない。ただよ裂けんとばかりに絶をやめない。

『――ァーァアアアアアッ――エミリィ、アース、フェザドォ――』

『な、なに? どうしたのよクゥ、これは誰を呼んでるの?』

『被害者の名前だよ』

男の聲が割り込む。ひどい早口で、聞き取るのがやっとであった。

『今回の要人拐事件、容疑者リストを全部覚えさせただろう? クゥは生存者を探して、彼らの名を呼んで回ったようだ――今でも』

『あれは事故よ。クゥが殺したわけじゃないし、なによりみんな犯罪者だわ』

『容疑者な。それに悪い奴なら自分のせいで死んだって構わない、と割り切れる人間ばかりじゃないだろう。この子はまだ十五だよ』

『だけど――船の弾はあいつらの仲間が』

『海に飛び込むよう指示したのはこの子だ。自分は弾解除のために殘ってね。しかし弾は不発、クゥだけが助かり百五十人はすべて海のケモノたちに喰い散らかされた――ん、ケモノじゃなくて魚だったかな。奇しくも、オーリオウルでクーガといえばその魚を表わすそうだよ。字面としては、鮫クーガが百五十人を殺したということになるねえ』

鯨は男を怒鳴りつけた。泣きじゃくるを抱きかかえて、鯨もまた涙を流す。

『なんてこと。この子はこのまま狂うの? 哀れすぎる。どうしたらいいの。助けて、烏……!』

『……今朝の新聞を見たかい、鯨』

男の聲は、やはり靜かであった。

『オーリオウルの英雄だってさ。星を上げて祀り上げられているよ。大統領拐の船に単乗り込み、犯罪者どもを駆逐した騎士だと。報源はくだんの大統領。失神してたせいでそう思い込んでるのか、それとも謀かは』

『でたらめもいいところだわ!!』

鯨がんだ。とたん、を跳ねさせて再び絶した。暴れ狂いながらも、姉を押しのけることはできない――

それも、そのはず。梨太はこの時初めて気が付いた。

の左手が――手首から先が無い。

は呟いた。

『……痛い……』

『いっそ、利用してみないか?』

男が言う。

『……どういうこと?』

『新聞の英雄譚をそのまま採用して、世界中を騙してみないかということだ。當人を含めてね』

『クゥの……記憶を改ざん……できるの?』

『ああ。當人が強く意識している事を、ピンポイントで記憶から削り取る。軍部に試薬を上げたじゃないか、不許可を食らったけど。まずはソレで記憶に空白を作り、上塗りしたい語を言い聞かせればいい。多、矛盾や違和は生まれても、人間は都合よくを埋め、記憶の帳を合わせるようにできている。クゥが忘れたいと思っているならなおさら』

『そ――そんなこと――待って。それじゃあクゥは本當に、彼らを皆殺しにしたということになる。むしろ殘な殺戮者になるのでは?』

『そうだね。しかし自分の判斷ミスと命令で罪もない市民が全滅……より、容疑者は全員クロだったので殲滅したというほうが、罪悪は薄い。貴様自がさっきから被害者を悪くしようと必死じゃないか』

『……でも……ひとの記憶を……人生を勝手に……待って、そんなこと急に、決められない――』

『タイムリミットは麻酔が切れるまでだよ。私は生義手も作らなくっちゃ』

『待って……待ってよ……!』

『考えてみれば渡りに船だな。この英雄譚で、クゥはきっと次期騎士団長にり上がる。星帝への大きな足掛かりだ』

『待ってよ…………』

『この子の神を守るため……いい大義名分ができたじゃないか。どうせ悪役だよ鯨。さっさと決めろ』

靜寂に、ただしゃくりあげるの聲だけがこだまする。鯨は無言のまま、の髪をで、背をさすり、哀れむようにめた。

逡巡は數秒であった。鯨は言った。

『……わたしは、』

その瞬間。背中の扉が開いた。

「ぅわ!」

梨太は大慌てでバングルをカゴの中へ突っ込んだ。振り向けば當然ながら、この家の主、鮫島がいる。

「もう上がるのか、リタ」

籠に向かっているのを見れば、當然の発想。痛いほど高鳴る心臓を抑え込み、コクコクうなずく梨太に、彼は手をばした。

の背中に、ぺたりと手のひらを當てて。

「……そのわりには、ずいぶん冷え切っているな。湯冷めしたんじゃないか」

「う、うんうん、ちょっとのぼせてそれで……風にあたりすぎたかなっ」

「じゃあもう一度浸かるといい」

そう言うなり、鮫島はをかがめると、梨太をお姫様ダッコで抱え上げた。一瞬で持ち上げられ、抵抗する間もなく運ばれる。

プールサイドでポイと投げられ、梨太は全で宙を舞う。浮遊は一瞬、どぼんと激しく水柱を上げ、梨太は頭から水に沈んだ。

「うぶっ? ぶ――うばっ!」

しばらく水中をもがいてから、ひっくり返って浮上する。げほげほ咳き込みながら、どうにか顔を出した梨太を、鮫島は指を指して大笑いした。

「いまの顔! それに髪、水中で広がってるのを上から見るとつぶれた饅頭のようだ!」

「鮫島くんがいきなりほうり込むからでしょー! もう、男子高校生みたいなことすんなよっ!」

文句をつけても笑うばかり。腹を抱え、端正な顔をくしゃくしゃにして、鮫島は笑っていた。

梨太は一瞬だけ、籠の方へ視線をやった。おそらくは再生しっぱなしの畫は布の下で、音がれない程度に埋まっている。

ホウと息を付き、改めて、笑い転げる鮫島を睨んだ。

「もうすぐ上がるから一回出ていってよ。こっちはなのに、貴族服著たひとがそばにいたんじゃ落ち著かないじゃん」

「そうか?」

彼は首をかしげた。穏やかな微笑み、その表のまま、腰の帯に手をかける。

「じゃあ、俺もろう」

こともなげに言う聲と、しゅるりとれの音が重なる。

軍人のは速い。梨太が狀況を理解するより早く、複雑な重ね著があっという間に剝ぎ取られて床へと落ちる。

梨太が瞬きを終えたとき、視界一面に、鮫島のがあった。

夜空を背景に浮かび上がる、真珠玉のような白いしく、たくましい――彫像のような人男である。

完璧な貌。

歴戦の傷など、一つも見當たらなかった。

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