《鮫島くんのおっぱい》彼のために

鮫島は、日本人の梨太のためだけにこの天風呂を作った。ラトキアの文化には湯船という概念はない。

日本滯在時にはラトキア宇宙船を本拠地とし、溫泉旅館に泊まったこともなく、他人が浴しているところを見たこともないのだろう。結果として――彼は、風呂というものをよくわかっていなかった。

(……まあ、もしわかってたら、もっと小さなバスタブでお湯を張っただろうね)

と、梨太は諦め半分で嘆息。巨大天風呂――というよりきっぱりと溫水プール以外の何でもないところで、高速で泳ぎ回る鮫島をぼんやりと眺めていた。

瞬きしたときにはもう向こう岸にいる。ぬるま湯に浸かっている梨太を振り向いて、

「リタ、どうしてじっとしている。こっちのほうは深いぞ。もしかして泳げないのか?」

遠く、水面から顔をだしてってくる。梨太は苦笑した。

「日本の風呂じゃ、いくら広くても泳ぐのはマナー違反。それに僕、水遊びってピンとこないんだ。北國の生まれ育ちなもんで、泳げないことはないけど、プールより溫泉に浸かってる方――うわぁっ!」

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セリフは途中で悲鳴に変わった。いつの間に近づいたのか、潛水していた鮫島に足を摑まれたのだ。一気に引き込まれ、そのまま水流に飲まれる。人間一人を摑んで、鮫島は魚雷のように推進した。

目を回したところを、両脇を持ち上げられる。浮上した梨太はまずまっさきに酸素を吸い、それを吐きだしがてら怒鳴りつける。

「――殺す気かっ!」

「泳げるって言ったじゃないか」

「いきなり水中引き回されりゃ溺死するよ! 鮫島くん無言で人の持ち運びするのやめて心臓に悪い」

「リタは持ちやすい」

「……とりあえず、全の男に抱き上げられてる絵面がアレなんで離して」

と、言ったとたんにが垂直に沈む。慌ててもがいたところを再び鮫島が持ち上げた。咳き込みながら絶する。

「足がつかないほど、深い風呂があるか!」

「立ち泳ぎできないのか?」

「道産子に無理いわないでよ、學校にプールもなかったってのに……」

梨太のクレームに鮫島は首を傾げつつ、それでも一応、淺いところまで引っ張ってくれた。結局元と同じところに戻ってきて、ぜえはあと呼吸を整える。

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鮫島は笑い聲を上げながら、一人、また遠くまで泳いで行った。

それにしも、鮫島がこれほど水遊び好きとは知らなかった。行ったり來たり潛ったり、ちっともじっとしていない、まるで回遊魚のようだった。

夜のプールを、白いが浮いたり沈んだり。なんとなく眺めながら、梨太は嘆息した。

「……なんか、この人のハダカを見るために日本でえらい苦労したような気がするんだけどな……」

複雑な青年の心境など気づくわけもなく、鮫島は酸素と二酸化炭素を換し、すぐにまた全を沈めた。近くに浮上したタイミングで聲をかける。

「鮫島くん、泳ぎもスゴイんだね。ほんとスポーツ萬能だなあ」

率直な言葉に、彼は目を細めた。全世界から褒められ慣れているだろうに、梨太が褒めると、いつもこうして嬉しそうな顔をする。

「兵隊學校にこれより大きなプールがあった。水泳はいい全になるから」

「……また『軍人だからな』、か。鮫島くんが趣味でやってたスポーツってあるの」

「無い。そもそもラトキアには、地球のような運競技というものがない。健康のためのトレーニングと実戦格闘技くらいのものだ」

「えーじゃあ部活も無いの?」

「無い。教養としてダンスはあったな。踴って見せようか?」

梨太は笑った。

で踴るなら、雌化してからのほうがいいな」

とは言ったが、今のままでもそれなりに見ものだろうという予はあった。もちろん、男のにあおられることはない。それでも均整のとれた肢は蕓的なまでにしく、目を奪われる。

鮫島はもとより、そういった種の貌の持ち主だった。

闇夜の月、磨がれた刃、深海をたゆとう鮫――漆黒の髪をまとった、くもりのない白い

「……傷一つない……」

梨太は思わずつぶやき、慌てて口をふさぐ。しっかり聞きとられてしまったらしい、鮫島は自嘲気味にほほ笑んだ。

「傷痕を消しただけだ。俺だってずっと無傷で連勝してきたわけじゃない。ラトキア政府全力の高度醫療技のたまもの。これまで何度も、細胞移植や再生化、部分的には人工っているからな」

「それって、一般騎士もみんなけられるものなの? なんか虎ちゃんとか傷だらけだった気がするけど」

鮫島は首を振り、目を細める。

「騎士団長は優遇されているのだろう。早くケガを治して、また戦場に出ろとな」

どうやらジョークのつもりらしい、まったく笑えない梨太である。そこで、鮫島はふと視線を落とした。広い肩からびる、しなやかな腕の――左手首を――梨太は反的に目を逸らした。

そして視線を戻した時には、鮫島はもういなかった。また深い方へ泳ぎに行ったらしい。

左手を見ていた、と思ったのは梨太の錯覚だったかもしれない。しかしそんなに簡単に、人の記憶が塗り替えられるものなのか。鮫島は――本當に、忘れてしまったのだろうか?

傷を抱えて、『痛い』と泣いていたことを。

遠くで水しぶきが跳ねる。

梨太は呟いた。水中の彼へ向けて、決して聞こえることのない小さな聲で。

「……泣かさないよ。もう二度と、絶対に……」

直後、梨太の目の前に水柱が立ち、大男が飛び出してきた。白いに長い黒髪を張り付け、水しぶきとともにのしかかってくる。仰向けにひっくり返った梨太の上に、彼は全を乗せた。

「う! わっ、ぅ――」

と、悲鳴をあげかけたが咥えられる。海獣に咬み付かれたかと思った。そんな一瞬の口づけで、鮫島はすぐにを離した。髪を掻き上げ、派手に湯を散らかしながら上がっていく。

「のぼせた。もう出よう」

「そ、そりゃ、四十度の溫水であれだけ泳ぎ回ればそうだろうよっ!」

さっさとプールサイドを歩くのを、梨太はふらつきながら追いかけた。気が付けば梨太もそこそこの長風呂で、茹で上がり、紅していた。用意されていたタオルと寢間著を使ってリビングへ。長椅子カウチに座っている鮫島に、梨太は苦言を呈した。

「あのぅ、鮫島くん。男同士でもちゅーくらいまでならナントカって言ったけど……全のときはさすがに勘弁してください……」

「大丈夫。もうしない」

「なんか全然安心できない」

と、嘆息しながらも一応、彼の隣へ腰掛ける。とたんに肩を摑まれ、梨太はとうとう怒鳴りつけた。

「今言ったとこじゃないかっ!」

鮫島は無言で首を振り、そのまま握力を稼働させる。お世辭にもたくましいとは言えない梨太の肩を、むぎゅむぎゅ、鮫島は握りこんだ。

「……な、なに?」

と、言ったを回れ右、背中を向けさせられ、今度は両肩をむぎゅむぎゅ。手つきにいやらしさなどはない。

「えーと、何? マッサージ?」

「前から思っていたけど、リタは姿勢が悪い」

ぐっ、と、強い力で背中を押される。反的にび上がった背筋に沿って、鮫島は手のひらでアイロンをかけるようにばしていった。強張っていた部分がほぐれていくのが実できる。

「お。お、おお」

二十四歳の梨太は、整や按という店へ行ったことはない。凝りの自覚は全くなかったが、こうしてほぐされると驚くほど心地よく爽快である。貓背気味というのも矯正されて初めて気が付いた。背筋がびることで視界まで広がる。

鮫島は梨太の腕を取ると、アクロバティックな姿勢で重を乗せた。ゴキボキと壯絶な音。それでも全く痛みはなく、むしろ気持ちいい。肩胛骨に沿って手刀をあて、ばされていく。

とうとう絨毯にうつ伏せになって、腰までまれてしまった。口元になにか生ぬるいものが當たったと思ったら、己の涎である。もうこうなったら全の力を抜いて、されるがままになるしかない。

「きしだんちょーさんは、こういうスキルもくんれんしているのでしょうか……」

ろれつが回らなくなってきた。首の付けを指圧しながら、鮫島がうなずく。

年兵隊訓練校で、解剖生理學の基礎を學ぶ。そのなかに整復という概念があった。疲労回復、治療はもちろん、関節技にも必要な技能だ」

「そぉなんだ……さすが……」

瞼がふんわり重たくなってくる。

「あー……やばい。風呂上りに、これはまずい……」

「実際の行軍では、労という面が大きいだろう。騎士同士みなよくやってる。俺は誰からも頼まれたことはないけど」

「そらそうだろね……」

「きもちいい?」

梨太は一瞬、激しく悩んだ。なんとか他の言い方がないものかと己の語彙を総員したものの、

「……きもちいいです……」

結局、その言葉を使うしかなかった。

梨太の背中の上で、鮫島がクスッと笑う聲。

「よかった。基礎以降はほとんど自己流なんだ。帰省するたび姉たちにやらされるから」

「はは……いいな、それ……」

瞼が重い。梨太はとろけた聲でつぶやいた。

「鮫島くんの家族は幸せだねぇ……」

鮫島は押し黙った。

梨太のふくらはぎをさすり、膝を曲げて重を乗せる。両足首を回しながら――鮫島は、小さな聲で囁いた。

「……リタ……」

そして、梨太の小さな手を握った。

梨太の手は、想像に反して傷だらけであった。いくつものペンだこに、キーボードの叩きすぎだろうか、指先が堅い。

「……リタは……この星で暮らすため、星帝になるために……勉強をしすぎだとおもう」

指を一つずつ扱きながら、鮫島は言った。

「いいんだぞ。もう、怠けてしまっても」

手の平をほぐしながら、囁く。

「俺はリタが、この星に來てくれただけで……もう一度こうして會えただけで……嬉しい。もうなにもいらない」

よく見れば、淺傷やヤケドのあとらしきものもある。梨太の仕事はよくわからないが、フィールドワークや労働も多い職業なのかもしれない。

鮫島は梨太の手を包み、溫めた。それで彼の傷が癒えるわけではないが、願いを込めて握る。

「……もし、リタがむなら……俺はこのまま男として生きる。一緒に暮らせるなら、騎士団長でも星帝でも……お前が家で待っててくれるなら、それでいい。その方がきっと贅沢をさせてやれる。リタ。リタ……」

紡いだ言葉への、梨太の返事はなかった。鮫島は途方に暮れた。力した背中を軽くゆさぶって、

「リタ、次はなにをしてほしい?」

尋ねても、青年はいつの間にだか涎を垂らして睡しており、鮫島の問いに、応えることは出來なかった。

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