《鮫島くんのおっぱい》リタと梨太君
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
冷たい床に這いつくばって、信吾はひたすら、その言葉を繰り返していた。
「ごめんなさい……リタ……僕が……僕が殺したんだ……!」
十三歳のい聲で、信吾は泣いていた。もともと小柄なをつぶれんばかりに圧しても、失った命はもう還らない。それでも土下座で詫び続けた。
チッ、と舌打ちが聞こえた。
「いまさら後悔かよ。あんなでかい犬、殺処分されるのはわかってただろ? いきなり失蹤なんかしたお前の自業自得だ。俺達を恨むのは偽善者、小悪黨のやることだよ」
辛辣な臺詞にも何の反論もできない。全くその通りだと思った。十三年生きてきて、これほど自分が嫌いと思ったことはない。
リタ――心ついた頃から寢起きを共にした犬。兄弟のように思っていたのに、見殺しにしてしまった。
「ごめん。リタ。ごめんなさい……」
そこには二十人ほどの老若男がいた。
広々とした座敷。北見の本家だ。信吾を中心に円を描くのは、遠縁ふくめ親戚一同である。彼らはみな冷ややかな視線で新語を見下ろしていた。
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「……死んだ犬への詫びはもういいだろ。それよりもう出ていってくれ」
叔父は言う。
「役所でも番でも、施設でも何でもいけばいい。飛び込んでいって居座れば追い出せやしないんだ。保護代理人? それは……なんだ、そういうひとは全くいませんと、そう言えば、じゃあどうしようもないですねって理してくれるだろうさ」
「そうよ。とにかく、うちに転がり込まれるのはごめんだよ」
隣で、彼の妻が言った。
信吾は夫婦の顔を見つめた。去年の正月、いちばん多くのお年玉をくれた夫婦だった。
「早く出ていってよお。これ以上私たちに何をしようっていうのよお」
奧でが泣いている。すらりとしい足を畳に投げ出して泣き崩れていた。
「あんたのせいで、私は結婚がだめになりそうなのよ。彼の親も、本宅を潰して空き地にするって。私たちも家を建てたのに、誰も住めやしないわ。あの町が気にってたのに、どうしてくれるの。どうしてくれるのよぉ」
いつもきれいに塗られた化粧が涙でボロボロになっている。本來の彼は、オシャレでしい、大人のだった。
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信吾は言葉を絞り出した。
「僕は何もやってない」
瞬間、スマートフォンが飛んできた。投げたのは二つ年上の年だ。
「キタミシンゴって検索かけてみろよ。検索ワード第一候補に『黒幕』って出てくるぜ。あと『顔畫像』な」
「……僕はやってない」
「世間様がどう思ってるかってことだ。いや、中には無実と思ってる奴もいるだろうぜ。一応は俺もね」
自転車の乗り方を教えてくれたひとはそう言った。
「でも、かかわり合いになりたくねえよ。俺まで曬される前に消えてくれや」
「おまえの顔寫真が出回ったところで信吾くんほどの話題にはならんだろう」
彼の父親が、下卑た笑みを浮かべていた。心つく前から、実父よりも溺してくれたひとだった。信吾が笑うたびに、この子はなんて可いのだろうと抱きしめてくれた。
「君ならかわいがってくれる人が現れるよ。どこにだって、誰かがいるさ」
信吾君をうちの嫁にくださいというのが、毎年正月の鉄板ジョークだった。
「この町から出て行って!」
太ったがんだ。いつも穏やかなおばさんだった。
「マスコミとご近所の目が怖くって、散歩にも出れやしない。私たちは関係ないのに。あんたが全部悪いのに――」
「僕は、なにも悪いことをしていない」
「やってないわけがないでしょうが!」
は言い切った。いさめるものは居なかった。
「……信じてください……」
誰に向かって言うでもなく、信吾は淡々と話し始めた。
「僕は……ただの孤児です。なにも無いし、なにもできません。……生きていけません。助けてください」
頭を下げる。
「助けてください。大人の力がいるんです。迷はかけません」
「迷なんてもうすでにどれだけかかってるか。いるだけで困るんだよ」
「かかったお金は必ず返します」
「どうやって? 母親は死んだ、父親はアタマがパンクして一生檻付き病院だ。誰が責任をとる?」
「……とれません。いまはまだ。だから、責任をとれるようになるまで、僕を助けてください」
「寢言は寢て言え!」
ふと、袖を引かれた。三歳の従兄妹がつぶらな瞳でこちらを見つめていた。ふと頬を緩めると、児はいつもとおなじ可い聲で。
「死ねばいいのに」
そう言った。
「死ねばいいんだよ。そうすれば、みんなが幸せになるし、信吾くんも楽になるんだよ」
「こら、マナミ!」
母親があわてて駆け寄ってくる。ランドセルを買ってくれただった。
「わ、わたしは、そこまでは言ってませんからね」
信吾はほほえんだ。母親に引っ張られて去っていく児に向かって。
「……ごめんね。僕もそう思って……二週間も町中を歩いたけど……どうしても、できなかったんだ。ごめんね」
手を振ってみると、児はにこにこして、手を振りかえしてくれた。
二週間前――同じように、こうして親戚に囲まれたとき、信吾は泣きながら座っているのが一杯だった。うるさい泣くなと言われて泣くこともできなくなった。頭が真っ白になり、気がつけば家を飛び出していた。
そうして放浪して、やったことと言ったらひたすら後悔しただけだった。
両親が薬に溺れたのは、自分に要因があるのだろうか。同級生たちの異変に気が付かなかったのはなぜだ。
震える手を指先だけつなぎ、れるだけの口づけをしたがある日から休みが続いても、風邪だろうと信じて疑わなかった。犬を置いて出て行っても、誰か大人が面倒を見てくれると信じていた。
その全員と、二度と會えなくなるなんて思ってもみなかった。
もっと彼らに寄り添えばよかった。もっとよく観察していればよかった。もっとちゃんと考えるべきだった。そうすればきっと救えた。防げた。家族を、友を、失わずに済んだ。考えただけ涙があふれる。それは悲しみの涙ではなく、後悔の悔し涙だ。
失くさない。もう二度と――絶対。
そのためには、自立しなくてはならない。
自分が強く、賢く、かにならなくてはならない。
大人にならなくてはいけないのだ。
(頑張ろう。頑張る。――がんばるぞ)
信吾は再び、額を床に押し當てた。
「僕を助けてください」
「いい加減にしろ!」
襟首を捕まれ、引きずり倒された。大人の男の力に、小さなは簡単にひっくり返された。はいつくばったまま吐き出す。
「あなたたちの力が必要なんです。お願いします」
引かれた腕に異様な痛みが走った。臼したらしい。うめいている間に、部屋から押し出された。家かられ聞こえる騒ぎに、張っていたマスコミが虎視眈々とカメラを構える気配がしていた。廊下を引きずられ、石造りの下足場に投げられても、信吾は祖父の足首にすがりついて抵抗した。
「お願いします」
蹴りとばされた。
倒れた頭上に、心臓を刺すような冷水と氷の固まりが降る。
バケツを持った祖母がそこにいた。
「出ていけ」
一昨年脳梗塞を患い、片手を麻痺させた老婆である。氷水はさぞ重たかっただろう。著の裾にすこし、水がはねている。きっと冷たいだろう。信吾は祖母を心配した。
やせた老婆はバケツが軽くなったとたん、ふらりと崩れ、親族があわてて支える。
荒く割った氷が信吾の頭皮を裂いていた。冷水にまじり鮮が滴り落ちる。
「うっ……」
親戚のひとりが蒼白になる。激昂していた連中も息を飲み、その場で直した。誰かの泣く聲がする。
「僕を助けてください」
外れた肩と裂傷の痛み、氷水を浴びたせいか、聲はずいぶん枯れていた。
「……僕は……もう、まともには生きていけません。北見信吾がいる限り、みなさんにも迷をかける。それはわかっているつもりです。
だから、僕に名前をください。北見以外の、あなたたちの誰かの名字と、まったく新しい名前をつけてください。
僕をネットの不鮮明な畫像で見たことしかない人たちが暮らす、遠い場所へつれていってください。
ひとりで住む家に、どうか、大人の名前を貸してください。自立できるまでの數年間、お金を貸してください。自立の近道に、學校へいく。その手続きに名前を貸してください」
赤い水が下足場に広まっていく。
「親代わりにしてくれだとか、育ててくれとは言いません。それでも大きな負擔だとはわかっています。どうかお願いします。あなたたちが……去年までの僕を、しは好きでいてくれたなら、その分だけ……しずつ、僕を助けてください」
裂けた額を濡れた地面に押しつける。
「お願いします」
長い長い靜寂――視線をあげると、すぐ目の前に、従兄妹の児がまた立っていた。
膠著狀態になった大人たちに焦れたのか。満面の笑みで、彼は言った。
「あたしは信吾くんのこと好きぃ」
「……ありがとう」
「ん?」
呟いたのを聞き返されて――梨太は言葉を足した。
「ありがとうね。好きって言ってくれて」
「……どういたしまして」
素直な相槌、その聲は三歳児にしては異様に低音で、落ち著いていた。そこで初めて、梨太は自分の話し相手が稚園児ではなく、四歳年上の英雄だと気が付いた。
「えっ? あ、うわ、寢ぼけてた!」
一瞬で覚醒し、慌ててあたりを見回す。無機質な白い建の群れ、星ラトキア、帝都深部の屋外である。しかも視線の位置が高い。己の足元を見下ろすと、梨太は鮫島に背負われていた。再び、悲鳴を上げる。
「なにこれ、なんで僕、鮫島くんにオンブされてんの!? たしかシャトルバスで……あれっ!?」
「うん。それで居眠りをしてたんだ。じきに帝都のターミナルに著いたから、そこから抱えて歩いてきた」
「起こしてよ! 恥ずかしいよ!」
「気にするな。睡眠不足がたたったんだ、今朝も早く起きて勉強してただろう」
「恥ずかしいのは居眠りしたことじゃなくて、ダッコやオンブで街中往來したことがだよっ!」
鮫島は笑い聲を上げて、素直に下ろしてくれた。一応お禮だけは言ったものの、格好悪くて仕方がない。
オンブされたこと、居眠りしたこと、寢ぼけたこと――どれも恥ずかしいが、それにしても心地が悪かった。
梨太は自分の頬が濡れていることに気が付き、こっそり袖で拭った。今なら見らえても、あくびの涙だと誤魔化せる。しかしもしも、寢ながら泣いていたらどうしようか。
赤面して唸る梨太に、鮫島はどうということもない様子でほほ笑む。
「大丈夫か、リタ。歩ける?」
「う、うん。大丈夫……」
「ちょうどいいところで起きた。著いたぞ。ラトキア三神の教會だ」
言われて、梨太は視線を上げた。鮫島のオンブから降り立った地面は、石階段の一段目。そこから天に向かって見上げるほどの階段が続いていた。
「この先に……ラトキア屈指の有力者に推薦狀の依頼と、婚姻屆けを出しに、行かなきゃいけないんだよね……」
ラトキア王都は、基本的には平坦な盆地である。だがその中に丘や小山がないわけではない。おそらくはラトキアで、もっとも崖を切り崩し、階段を敷いたのだろう。
資料によると、この頂上にラトキア教會の建があるということだが……見上げても、影も形も見えない。それほどに階段は急で、長かった。
「……………………行かなきゃいけないんだよね?」
「もう一回背負おうか?」
鮫島が言ってくれるのを、梨太は首を振った。
「大丈夫。ここまで背負ってきてくれたぶんだけ元気マンタンだし。よーし、がんばるぞっ!」
ふふっ、と聲を出して鮫島は笑った。そして幸せそうにつぶやく。
「リタのそういうところ好き」
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