《鮫島くんのおっぱい》忘れてしまった想い
「復縁? 俺が、鹿と……か?」
「他に誰がいるってんだよ」
虎の口調は、ぼんやりとしただった。
苛立ち語気を荒げる梨太に、肩をすくめてみせる。別に、斜に構えているようでもなかった。しかし続きを語らない。梨太はじれた。
「ねえ、會いに行こうよ。鹿さんに。の塔に、虎ちゃんも一緒に行こう」
「それは無理だ」
後ろからの聲は鮫島だった。梨太を追いかけてきたらしい、構わず虎に向き直る。
「分違いうんぬんは、僕だってわかってるよ。前に実家に押しかけたときは撃たれたとも。でも會うだけならなんとでもなる。僕が古い知人だって言えば取り次いでくれるでしょ。騎士団長の鮫島くんもいるし――まずは僕らが鹿さんを引っ張り出す。それで、どこかで落ち合えばいいじゃん」
「……リタ」
「『の塔』がどれだけエラいのかって、僕よくわかんないけどさあ、政治経済の教科書には、跡取り以外は民間人だって載ってたよ。鹿さんはだし、もともと王都で働いてたんだ、たぶん貴族の稱號すらない。そんな気負う必要ないって。お姫様が、塔のてっぺんに幽閉されてるわけじゃあるまいし――」
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「リタ」
早口でまくし立てる最中に、鮫島が肩をさすってきた。意味がわからず、邪険に振り払う。
「一回ちゃんと會おう。あれから話もしたことないんでしょ。なんとかするよ。なんとかしようよ。僕に任せて。絶対、虎ちゃんを家族に會わせてあげるから!」
「……そうだな。お前なら――會うだけなら、なんとかしてみせるのかもしれないな」
虎は呟いた。
薪を一本、焚き火へ放り込む。骨張った鼻先が橙に染まり、彼の髪を、いっそう赤く照らしていた。そして、彼は言葉を続けた。
「だがそれで復縁、ハッピーエンドってわけにはいかないかな」
「……どうして?」
そう尋ねたのは鮫島だった。虎はなんとも煮え切らぬ、ぼんやりした様子のまま頭を掻く。
「復縁てのはよ、縁を修復するってことだろ。……その縁がそもそもあったのかどうか。俺にはそれがもうわかんね」
「な、なんでだよ。だって実際に付き合って、子供まで」
「正直、実がねえよ。子供の顔も見てないし、結婚生活があったわけじゃないし。実際にっていうんなら、今こうして離ればなれなのが最終結論、目の前にある現実だ。なによりもう、七年前だぜ?」
「だからなんだよ! 僕と鮫島くんだって五年も會えなかったんだ! それでも忘れたりなんてしなかった!」
虎は苦笑いした。そんな表をすると、同い年のこの男はやけに大人っぽい。眉をつり上げた梨太を、児でもあやすように眺める。
そして、穏やかに諭した。
「それはよかったな。……俺はもう、あいつの顔もうろ覚えだ」
絶句するしかなかった。
し合い、仮にも夫婦にまでなった相手の顔を、忘れてしまう――
そんなことはないと斷言したかった。だが説得力が無い。梨太もまた、鮫島の聲、姿形を鮮明に記憶していたかというと、言い切れないものがあるからだ。
彼の言の、容は覚えている。しかしその聲を、表を、思い出すことは出來ない。知識として記憶しているだけだ。覚は失くなってしまった。
八年間とはそれだけの年月だった。
重ねたの溫度も、も。たとえ將來、必ず再會すると心に誓っていたとしても――
あんなに大切にしていたのに、忘れてしまう。
ぱちん。焚き火がはぜる。
炎を見つめたまま、虎は言った。
「あのときの、鹿の気持ちはわからないままだ。突然居なくなって、そのまま何も聞けてないからな。だけど出て行ったのはあいつ、置いて行かれたのは俺だ。……俺があいつを思うより、あいつが俺を思ってるってことは無いだろ。冷靜に考えて」
「……鹿さんも、虎ちゃんを忘れてるはずだって言いたいわけ」
梨太は全のがスゥと冷えるのをじた。悲しみも苛立ちすらもなく、ただむなしい、諦めだけがある。
「ああ、そう思う。だから俺は」
「――わかった。もういいよ」
虎の言葉を遮り、梨太は吐き捨てて背を向けた。
今夜はもう虎の顔を見たくなかった。逃げるようにテントに飛び込むと、鮫島は黙って寄り添ってくれた。寢袋ごと背中をでてめてくれる。
彼はいつでも、こうして梨太を甘やかす。
そのあたたかく大きな手に、素直に甘えながら、梨太は目を伏せた。
「……虎ちゃんは」
言いかけた言葉を、飲み込む。鮫島は続きを促さなかった。
――変わったよ、お前は。
――俺は俺だ。
蝶と、虎。二人の言葉が同時に思い出された。どちらが正しいのかわからない。あるいはどちらも正しいのかも知れない。答えが出なくて、梨太は煩悶するしかない。
ふと、目を開くと、すぐそばに鮫島の顔があった。しく悍で、憐悧な深海の瞳。八年前からほんのすこし、姿も関係も変わったけれども、何も変わらずしい瞳だ。
「……僕はもともと、この國をどうにかしようってつもりはなかった。僕の故郷とは違う、だけどもよく出來た政治経済で、いい國だと思ってた」
鮫島の手に、頬をあて、梨太は言った。鮫島は黙って視線だけをくれている。
「……だけども――この國の人たちと関わって、見えてきた。この國にはたくさんの問題があるって。
大きなものは二つだ。男差別と、分差別……それによって人生を狂わせた人が多すぎる。完全に無くすことは難しいけど、僕はそれと戦っていこうって、今は本気で思っているんだよ」
再び目を閉じれば、自嘲気味に笑う、虎の橫顔が思い出された。彼の中に、梨太は時折、知を見ていた。
スラム上がりで、野な言が目立つ虎。梨太の知る騎士では最年、溌剌とした彼には、無邪気な年という印象が強くある。
だがそれは誤解だ。彼は、頭のいい男だった。
ろくな教育をできない環境で、獨學でいくつもの言語を習得し、底辺から貴族階級へとり上がったのだ。
鮫島ので軽視されがちだが、戦闘力だってトップクラスだ。天才、ではないだろう。だが間違いなく聡明で、真摯な努力家だった。
「虎ちゃんみたいなひとが、なんで獨りにならなきゃいけないんだ」
「……そうだな」
「どんな理由があろうとも、こんなの間違ってる。壊さなくちゃいけない。この國は変わらなくちゃいけない」
「そうだな」
鮫島の簡素な相づち。
「僕、頑張るよ」
「……ああ」
梨太をめ、果てしなく肯定する彼の手のひら。
梨太は鮫島に抱きついた。彼の長い腕をかいくぐり、のあたりへ顔を埋める。
「だから、鮫島くんは変わらないでね」
分厚い寢袋越しである。鮫島ののは、もちろんなにもわからなかった。厚い板とも薄い房ともしれぬ、だが心臓のあたりに橫顔をつけ、梨太は今度こそ目を閉じた。
――遠くで、どくん、と大きな鼓が聞こえた気がした。
――遠くで、ぱちんと薪がはぜる。
走り去った友人の代わりに、赤く燃える焔にむけて、青年は靜かに呟いた。
「――だから俺は、確かめなくちゃいけない。やらなきゃならねえことが、まだもうし殘ってんだ」
小説家の作詞
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