《鮫島くんのおっぱい》盲目の梨太③

その日、母さんは調がいいようだった。

「おかえり、信吾!」

おれが家に帰ると、すぐ明るい笑顔で駆け寄ってきた。編み掛けのセーターを押し付けてきて。

「ちょっと背中向けて……あ、だめね、やっぱり小さい」

それはほとんど出來上がっているように見えたけど、母さんは惜しげもなく針を抜いて、バラバラにしていった。もったいない。でも今はもう春だ。もともと手暇つぶしの遊びだったのかもしれない。

セーターって、ここまで編むには丸一日沒頭する必要があるんじゃないかとも思ったけど。……けど、おれは編みなんかしたことないから、よくわからないし、気にしなかった。

「いつの間にか、ずいぶん大きくなったのね」

おれは機嫌を損ねた。

「中學って一年で七センチもびたんだからな。もうすぐお母さんより高くなるよ」

「信吾の名前はね、お母さんがつけたの」

唐突に、母はそう言った。

「吾われを信じる。自分の信じたように生きなさい――たとえ両親わたしたちが、あなたの手本になれないほどに年老いて、衰えても。変わってしまっても。わたしたちを越えて長しても、あなたはあなたの信じる道を、ひたむきに進んでいきなさいね」

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おれは笑った。

なんだよ一、やぶからぼうに、ゲームに出てくる神父みたいなこと言ってさ。あるいは卒業式か。教師って職業のビョーキなのかも。普段こういう説教っぽい話し方はあんまりしないひとだったけど、カゼをこじらせて數日休んでいたから、ウズウズしているのかな。

母さんはまだ三十八歳。年老いたら……なんて何年後だよって話だし、逆にこれから「変わる」ような若者でもないだろう。

笑いものにしたわけじゃないんだ。ただ照れくさいというか――なんかさ。親と、真正面に向き合うとむずくなるって、あるだろ。

おれは母さんから目をそらし、さっさと自分の部屋に引っ込んだ。なんかまだ言いたそうにしてたから、部屋の中からんだ。

「お母さんがダイエット功するより先に、おれがお母さんの長越えるよ、ぜったい!」

明るい笑い聲がした。なまいきぼうずめ、たまには夕飯手伝え、靴下自分で洗えというクレームは、聞こえないことにした。

――それが、夕方の五時くらい。

そんな、かんじで……そのあと、普通にご飯を食べた。……おれは夜の塾があるから、いつもそんな時間に食べるんだ。それですぐ出かけた。

十時前くらいに帰ったら、お父さんがいて。

両親ふたりで黙って食卓に居た。テーブルにはなんにもなかったし、テレビもついてなかったけど……仕事の話でもしてるのかなと思った。

……いや、何も考えなかった。

ああして二人が、ぼんやり、じっとしているのはここしばらく、よくあることだったし。

……疲れてるんだろうなって思ってた。夏休みには、旅行に行こうかって話してた。靜岡に嫁いだ親戚がいてさ……その結婚式のついでに、そのまま熱海に流れようかって、宿の予約もして。

親と溫泉旅行なんてつまんねーよって言ったけど……実は、ちょっと楽しみだった。

それで両親が元気になって、また母さんが毎日ご飯を作ってくれたらいいなと――

「お前が気付いてたのは、それだけか? 北見信吾。一緒に暮らしている両親のことを、最近元気がないなあと……それだけか?」

問い詰められて、信吾は頷いた。

「幾帳面だった父親の書斎がごみの山になって、々ぽっちゃりぎみだった母親が三十キロ臺まで痩せこけて――二人して一日に何時間も天井を見上げてる。クラスメイトの三分の一が休學して、自分の績順位だけがやたらと上がっていく。そんなのを視界にれながら、何にも気づいてなかったって言うのかよ」

信吾は頷いた。頷くしかなかった。それが真実だから。

刑事の追及は、これが最初ではなかった。このひと月、何度も何度も警察署に呼ばれていた。まずは薬反応が出ないかと中の検査をされ、薬事件関連の刑事に尋問され、醫者、弁護士、検事、なんだかわからない大人がれ代わり立ち代わり――同じことを聞く。

「なぜ気が付かなかった?」と。

一通りの事件調査が終わり、自宅に返されると、信吾の年課に委任された。信吾の無実はもう斷定されたはずなのに、彼らは青年の保護、カウンセリングと稱して、毎日のように家に來る。そして同じことを聞いていた。

彼らも気持ちのいい訪問ではあるまい。大人のいない家は散していた。信吾は家事をしたことがなく、鍋のありかも、洗濯機の使い方も判らなかった。今から學ぶ気にもなれなかった。ただ汚れた服を著て、汚れた犬とともに、ただ生きていた。

――申し訳ないなあ。

犬の糞を踏み、嫌な顔をする刑事を見ながら、信吾はぼんやりとそう思っていた。

それから半年後、手にれたちいさな一軒家はに満ちていた。

きれいに片付き、ほどよい生活のある食卓。安だが真新しくて、清潔のある家。老若男を選ばないデザインの客用スリッパと、五客のティーカップ、客用布団。

自分の勉強道や趣味のものは、二階の私室にまとめて詰めた。そうすることで一階リビングを完全開放する。

転校初日から友達が出來た。翌日には、さっそく三人がこの家に遊びにやってきた。

両親は長期赴任だから遠慮しないでねと、いつでも歓迎し、ときには手料理を振舞ったりしていた。

「――寂しいのか、北見信吾」

そう言ったのは、吉澤という男。

靜岡県警の、年課の刑事だった。はるか遠くまで引っ越してきても、信吾の保護観察はまだ続いている。

「どれだけおまえが襟を開いたところで、もう家族が戻ってきやしないんだぞ」

「わかっていますよ、そんなこと」

梨太は言った。

「それより、僕の名前は栗林梨太です。――そう変わったんだから、二度と北見の名で呼ばないでくださいね。いや、名前だけじゃない、僕は変わったんだ。……だから……もう、」

――グゲェエァアアアアアー。

――遠くで、獣の斷末魔のような聲がする。

バルフレア村の特産品、ダチョウほど巨大なニワトリだ。窓枠が震えるほどにけたたましい嘶いななきで、梨太は目を覚ました。

早朝である。

すぐ橫には鮫島がいた。

こちら向きに仰臥し、眠っている。どうやらひさしぶりのらかい寢床で、深い眠りについているようだった。先程の騒音にもほんのわずか眉をしかめただけで、瞼を閉じたまま、淺い呼吸でが上下している。

梨太はじっと、鮫島を見つめた。

寢間著越しでは、房と呼べるほどの膨らみは見て取れない。それでも、男の板とは違うものであることを、梨太はもう知っている。五年前はそうだった。

梨太は鮫島の服を剝ぎにかかった。前開きのボタンをすべて取り、開いてやろうとした――その手が、凍えて止まる。

そのまましばらく直。やがて首を振って、ボタンを閉じる。

安眠している鮫島に布をかけて、梨太は無言のまま、寢所をあとにした。

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