《鮫島くんのおっぱい》鮫島くんの雫

「リタ、お前ばか、手っ!」

んだのは虎だった。

刃を握った手から、ぽたぽたとが流れ落ちる。

鮫島は無言のまま、まずその手首を捕まえた。慎重に開かせ、ナイフを取り除く。傷ついた梨太の手をじっと見つめた。

「深くはないな。しかし破傷風など、思わぬ悪化をするかもしれない」

そんなことを言って、腰のポーチを開き、治療行為を始めた。梨太は振り払った。

「いらないよ。それより質問に答えろ。なにやってたの」

「……髪を切ろうとしていた。後ろ側は難しいから、虎に頼んで……」

「なんで? ばしてたんじゃないの、僕のために」

鮫島はし、眉を垂らした。

「別にリタのためではない。お前が、長髪のが好みだなんて聞いたこともないし。ただ……遊んでいただけ」

「遊ぶ?」

うん、と彼は頷いた。その表や聲は穏やかだった。長い髪を手ので束ね、懐かしむように見下ろして、

「もともと、二度と會えないと思っていた。ばしたのは……ただのひとり遊び。そう、ママゴトだったんだ」

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梨太から奪ったナイフを、鮫島は自ら襟足にあてた。ぷつんと一本、黒髪が千切れる。

梨太は手をばす。

その腕と、鮫島の手首を、虎が同時に捕まえた。

「二人とも落ち著け! なんのケンカだよこれは」

「僕は落ち著いてるっ」

「喧嘩なんてしていない」

「うるせー黙れ。なんか変だぞ二人とも――っと、なんだよリタ、髪びしょ濡れじゃん。落ち著いて一回座れ」

虎はナイフを取りあげ、二人分の茶を淹れて、タオルを出す。シャツ一枚で冷えた肩に、自分が著ていたジャンパーをかけてくれた。

なんとなく、彼が四人兄弟の長だったことを思いだす。対して梨太は一人っ子、鮫島は末っ子だ。ジャンパーのぬくもりになごみながら、ふと元を見下ろした。

日本語が書いてあった。

『ヒメアリクイはいつでも満タン』。梨太は即座に上著を返した。

再び、鮫島をにらみつける。

「僕は男友達をんだけど、の君を否定したわけじゃないんだぞ。やけくそ? 僕へのイヤガラセ? ハーニャをよこしたのもアテツケのつもりかよ」

「……アテツケ? あの娘は……そうか、ほんとうに風呂場へ行ったのか」

「君に行けと言われたって。ハーニャが噓をついてたってこと」

「……いや……でも行けとまでは言ってない。止めなかっただけ。リタがめば、俺に止める権利はないと」

「同じことじゃないか!」

また加熱する梨太に、まんなかの虎がめる。うっかり癡話げんかに巻き込まれた部外者は、事がわからず聞きだすにも野暮、しかし捨て置くには心配らしく、ひたすらソワソワしていた。

鮫島が目配せし、退室を促す。彼は頭を掻きながら、「じゃあ隣の部屋にいるから」と退いていった。

家からは出ないあたり、自分は相當コワイ顔をしているらしい――だが、それを緩めるつもりもなかった。

聲だけは落ち著けて、鮫島に対峙する。

「どうしてそういうことをするのさ。他のをあてがうなんて、僕にもハーニャにも失禮だ。逆にやられたらどう思うんだよ」

鮫島も、正面から梨太に向き合っていた。正座で悠然と構え、萎しているようには見えない。穏やかな聲で答える。

「別に。仕方がないとしか言いようがない」

いつもどおり平然、冷靜な鉄面皮。いつもうなじで結んでいた髪はそのまま垂れている。黒髪に縁どられた、白くしい顔。

梨太は眉を跳ね上げた。

「仕方ない? あー、地球人の男は『溜まる』っていうアレのこと。馬鹿にすんなよ、彼いない歴どんだけだと思ってんだよ」

「いや、リタのことじゃなく、俺のほうだ」

「……鮫島くんのほう? なにそれ、せっかくばした髪を切るのも、僕にカノジョを作らせるのも、自分のためだって――本當にそんなことを、んでるっていうのかよ」

鮫島の眉が歪んだ。視線をかすかに俯かせ、呟く。

「……んだわけでは……けど、仕方ない。それがベストだと考える。それは俺の選択だから……俺のみということになると思う」

「は? 何言ってんのかわかんない」

「俺は作戦をたてる際、大功と功の二段階、さらに撤退や大失敗を含めいくつものルートを想定する。これは軍団長として當然あるべきスタンスであり、責任である。今回は『功』、次點案を通したことになる。決して悪いものではない。當然、必要な裝備や工程も変わってくるだろう。それが散髪とハーニャだった」

「何言ってんのかわかんない。てか鮫島くん、日常會話と軍隊式で語彙力に差がありすぎるんだよ。中間とって」

鮫島はいよいよ困ったように眉を寄せた。一応、梨太のいうように努力してみたらしい。口をパクパクさせて、やがて、俯いた。

「どうすればいいのかわからない」

「なんでこんな當たり前のことができない? そのまま言えばいいんだよ、本當に、普通のことだよ?」

「俺は……軍人だからな……」

「またそれ。軍隊育ちを言い訳にすんなよ。蝶さんも虎ちゃんもオシャベリ上手だよ。出來ないの鮫島くんだけじゃないか」

「…………仕方ない。俺はこれだから。だから、高みはしない。すればキリがない。諦めるしかないことはあって、せめて、絶対譲れないものだけ守れたらそれで――」

「それでいいって思ってるの、自分の人生ぜんぶ」

鮫島は顔を上げた。頷く。そしてすぐに首を振る。また頷く。

なんでもないような顔をして、なにも変わらないまなざしで、彼は確信を込めて斷言した。

「嫌だとダダをこねて葉うものならそうもする。そうでなければ、うるさいと余計に嫌われるだけだろう」

梨太は立ち上がった。ふつふつと湧き上がるは、怒りであり哀しみだった。鮫島に対し、八年前からずっとくすぶっていたものが溢れ出す。

梨太はんだ。

「僕は君の、そういうところが大嫌いだ」

彼の姿は変わらなかった。

凜々しく端正な顔立ちに、表らしいものは浮かばず。背をばして正座した格好で、梨太から視線をそらさない。

震えもしない。口も開かない。

憐悧なまなざしはすこしも変わらないままで――深海の瞳が濡れた。

明な水があふれてこぼれ、彼の頬を伝って落ちる。

そうして彼は泣き出した。

それを理解するのに、梨太は數秒の時間を要した。理解した瞬間、生涯であとにも先にも出すことのない悲鳴を上げて逃げ出した。半分腰を抜かした姿勢のまま戸を開き、とりあえずそこにいた赤の傭兵を捕まえる。そしてそのまま走り出した。

「え?うわ、なに!?」

騒ぐ虎に回答をやらず、襟首をもって引きずりながら屋敷からも出。二十メートルばかり走ってから解放、土に膝をつき、せき込む虎に抱き著く。

蒼白になり、歯のが合わない。

この距離でなければ聞き取れないほど呂律を迷わせて、梨太はか細い聲をらした。

「ど、うしよ、虎ちゃん、タスケテさめっぼくっ――鮫島くん泣いたっ…………」

「は?」

虎は目をぱちくりさせる。何度か同じ言葉を聞かせても、彼はそれを信じようとしなかった。

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