《鮫島くんのおっぱい》梨太君の怖かったもの

梨太は虎にすがっていた。

「ほんとなんだよお願い信じて僕見ちゃったんだよ信じてそしてタスケテ」

「わかったわかった、わかったから離せ重いっ! わかったけど――それホントならお前、なんで逃げてきたんだ。だめだろ」

「だめですわかってます戻ります、だからお願いタスケテ」

「助けるってなんだよ」

「一緒に來てぇー……心細いぃぃ……」

「あほか」

すぱんっ、と気持ちよくアタマをひっぱたかれる。

「お前の嫁だろ。心細いのは置いていかれただんちょーだぞ、さっさと戻れ馬鹿」

口調は軽いが、虎は本気で叱っていた。案外この男は男主義思想(マッチョ)であり、にやたらと優しい。

だがそれは「弱ったもの」全般に向けられるらしい。トボトボと歩き出した梨太を、結局彼は追いかけてきてくれた。へっぴり腰を手のひらで叩いて、

「おら、しゃきっと歩け」

「……おなかいたい。金玉がヒュンて上がったの、まだ戻ってきてない」

「そこまでか」

虎は嘆息し、しょうがねえなと嘯(うそぶ)くと、屋敷へ走っていった。ややあって、扉口からコイコイと手招きしてくる。どうやら場をつないでくれたらしい――ありがたいが、正直言って逃げたい。

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虎に押されて、再び客間へる。

鮫島は、五分前と同じ姿勢でそこに居た。正座をし、うつむくこともなくただじっと座っている。両の目からぼろぼろと雫を落としながら、拭うこともなく梨太を見つめる。涙を流す彫像、という奇跡の真相は、かように無表だったのではないかと、可笑しな妄想をしてみる。それで事態が解決するわけではむろん無い。

「……さ……鮫島くん……。あの」

梨太の聲に、まばたきをひとつ。また大量の水滴がこぼれる。

戸口に立った虎が、やはり心地悪そうに呟いた。

「當人曰く、勝手に出てきて止め方がわからないんだと。久しぶりすぎて」

「古井戸かぃ」

「というわけで、泣いてるわけじゃないから気にするなだそうだ」

「理屈がわからないし気になるよ……」

頭を抱えながら、梨太はそれでも気を強く持ち、鮫島の正面に座り直した。虎に言ったことは真実らしく、當人も、自分の涙を気にしていない。ただ水浸しの目を、いつも通りにまっすぐ向けてきた。

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「いまのはひどいことばだとおもう」

聲はやはり、すこし泣き聲だった。梨太は一応、弁解を試みる。

「あの……『嫌い』は『君』ではなく『君の、そういうところ』に掛かっているので、その……ナンデモナイデスごめんなさい」

梨太は素直に頭を下げた。

低頭となった男を前に、彼は初めて涙を拭う。手の甲でぐいと暴に。

「大丈夫、理解している。ただ驚いただけ」

それでやっと湧き水が止まった。

それでとりあえず安心したのか、虎はまた部屋を出て行く。まだ居てほしかったが、仕方ない。これは二人の問題――梨太と鮫島が、消化しなくていけないことだ。

梨太は目を閉じ、深呼吸した。頭に上っていたがごっそり引いて、引きすぎたぶんは戻ってきた。自分が平靜を取り戻しているのを実し、居住まいを正して向き直る。

そうしてもう一度、鮫島に尋ねた。

「君が髪を切って、僕がハーニャとくっついて、それが僕たちになんのメリットがあるの?」

鮫島は決して梨太に危害を加えない――まずそれを前提に、ちゃんと考えて質問する。尋ね方が変わったことに、鮫島はすぐに気がついた。

彼は言葉が不自由なのではない、客観的な説明や報告は梨太以上に饒舌だ。これ以上無く端的であり、わかりやすく、時系列に沿っている。

鮫島は言った。

「俺は今、雌化している。リタからはそう見えないようだけども」

「…………うん」

梨太はうなずいた。

彼の聲は、穏やかだった。口調こそこれまで通り、軍事連絡をするのと変わりない。むしろ今まで以上に端的だった。そしてかつてないわかりやすさで、彼は――自分の中を、梨太にきちんと、話してくれた。

「俺は元々雄優位だから、通常であれば勝手に男に戻る。だけどもそれを、心のありようが邪魔をする。人とのふれ合いは、別を固定させる大きな要因になる――男に戻ってくれと、リタが言い出すのがもっとずっと前ならよかった。しかしもう遅かった。が変われば脳も変わる――リタを見る目も変わってしまう。雌として、つまりはリタの人として隣にいながら男に戻ることはできない」

「うん……そうだね」

「再び優位代させる手段はある。簡単なのは、距離をとること。人との流は大量のホルモンを分泌させ、別を固定させる要因になるから」

それは、ラトキア星人の基本的な生態だ。梨太ももちろん理解している。わかりきったことを改めて述べてから、鮫島は靜かに、首を振った。

「だから俺は最初、距離を置こうと想った。けど……どうやらこれは悪手だったらしい。むしろ一気に進んでしまったんだ」

「へっ? それは、どうして」

「わからない。なので推測だが……実は転換は、片想いが一番促進させるのかもしれない。直接的な接よりも、たぶん」

「……片想い……想い人を振り向かせたい、自分の魅力に気づいてほしい、っていう思い?」

「そう。もともと進化とはそういうものだろう? 厳しい環境で生き延びるため、種を殘すため、より優れた個と繁するため相手にあわせて転換する――ラトキア星人そうやって、雌雄同になったんだ」

彼は斷言し、そのあとで、あくまでだがと注釈をつけた。だがきっと正解だと梨太も思った。直接の流だけが要素ならば、鮫島は五年間、雌でいられなかったはずだ。梨太への想いを抱きつつけていてくれたから、超遠距離でもでいられた。

「本來、ラトキア星人に、遠距離はできない」

前説を打ち砕くことをまた斷言する鮫島。

「想い続ければでいられる。だけど、想い続けていることができない。忘れてしまうんだ。そしてまた別を変え、別の相手を探すようになっている。忘れずにいるためには、いくつかの道(アイテム)が必要になる」

「アイテム?」

「そう。……リタがいつもそばに居るように。あるいは今そこにいないだけ、明日もまた會えると、思い込んでいられるように……」

そう言って、彼は髪を弄んだ。気づき、アッと聲を上げる。

「それがその長い髪? それに僕の寫真、日本語の勉強――屋敷の風呂!!」

鮫島はにっこり笑った。ふふっと聲を上げ、彼はうれしそうに、照れくさそうに笑っていた。

「ほかにもいろいろ」

ここまで言われると、梨太はもうすべてを諒解した。震える聲で、確認だけ行った。

「……髪を切ろうとしたのも、ほかのをよこしたのも、それが理由?」

「そう」

「僕を忘れるため――諦めるため、み通り男に戻るため――僕の願いを葉えるために……君は、『』の自分を殺してしまうのか――」

鮫島はうなずいた。

梨太は深く嘆息した。慟哭に全が震える。

(ああ――ああ。そうか――)

(ああ。僕は、馬鹿だ。……馬鹿だ……)

鮫島がになれば、『鮫島くん』が死んでしまう。それを嘆くばかりで忘れていた。

が男になれば、『彼』が死ぬ。

梨太は、それを當人に願ったのである。鮫島くんではない、『彼』に、お前以外と家族になりたいから死んでくれと。

「うぉあああっ……」

たまらず聲が出る。七転八倒、狹い部屋を悶絶し、床に這いつくばる。

『彼』が哀れでたまらなかった。そうさせてしまったこと、それに気づかなかったこと、そもそも酷い願いを持ったこと、すべてを自己嫌悪する。

鮫島は梨太をめながら、眉を垂らした。

「……まだ何か、伝わっていないことがあるだろうか? 俺はもともと、噓や緒事をしたつもりはないんだ。さっき言ったことも、アテツケでも強がりでもなく本心だよ。

――俺は、できれば妻になりたかった。けれどもかなわぬものは仕方ない。ならばせめて、リタのそばに居られたらそれで」

「それじゃだめだよ鮫島くん」

梨太は首を振り、鮫島の肩をつかんだ。きょとんとした顔に、懇願する。

「君は僕に怒るべきだ」

「……うん?」

「なんでなんにも無いような顔をする。僕はずっと、君に失禮なことを言ってきた。君はそれを、怒る権利がある。僕は怒られなくちゃいけなかった……!!」

「怒る? ……怒ってもどうにもならない――」

「なるかもしれないじゃん。いや、なにもならなくても、言わなくちゃ」

まずが狀況を、己の本心を、ただしく理解する。それを言語化する。それから相手を思いやり、そこに伝わるよう言葉を選ぶ。

その過程を経てから、梨太は靜かに、彼に伝えた。

「……僕は、家族が変わってしまうことが怖い」

「うん」

うなずき、続きを待つ鮫島。

「鮫島くんと結婚しようって決めたとき――僕は、のゴールインとしてじゃなく、家族ができたつもりでいた。別とか年齢とか、とかも関係ない。……鮫島くんは僕の家族になってた」

鮫島は、今度は相づちを打たなかった。理解できなかったらしい。しかし共はせずとも、『梨太にとってはそうだった』ことはそのまま呑んでくれる。それが彼の特だ。

梨太は安心して、続けた。

「家族が変わってしまうことが怖い。でも一番怖いのは……僕の知らない間に、だ。気づかないうちに、壊れてしまうことが怖い。とっくに壊れているのに気づかなかった自分が許せない。気づいてないだけで、ずっと昔から壊れていたんじゃないかって……考えると、怖くてたまらない」

「そうか」

「だから――君が、自分のを……本音を……つらいことやしたいことを、口にしないのが……不安になる。言葉を選ぶことは大切だよ。でも、時にはもっとのままに……不満とかワガママとか。ダメ元で、無理を承知での願とか、言ってくれてもいい。いや、言ってほしい。教えてほしい……。さっきみたいに、いやなことはやめてくれって、もっと僕に怒ってもいいんだ」

鮫島が、次に「そうか」とうなずくまで數分の時間を要した。

伝わってはいるだろう。だが簡単に「わかったそうする」と言えるほど、彼の人生は安寧でなかった。それを、梨太は慮からなければならない。

鮫島は言葉を模索していた。

梨太はそれをじっくり、黙って待つ。やがて、彼はたずねてきた。

「俺の覚を、言ってみればいいのか。客観的ではなく、主観で」

「うん。そう」

「……葉わぬ夢でも、間違えていても、ただのワガママでも?」

「うん。何でも言うとおりにしてあげるってわけじゃないけど、言った言葉はそのまま聞くよ」

そこまで答えをもらっても、彼はまだしばらく黙り込んだ。一度うつむき、小さく震える。やがてまた顔を上げ、梨太を見つめた――その瞳から、一粒だけ雫がこぼれた。

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