《鮫島くんのおっぱい》鮫島くんのお願い
鮫島が寡黙がちなのは、口下手だからとひとことでいうものではない。
狀況説明の的確さ、説得力は梨太をもしのぐ。端的で正確で、余計な私見を挾まない。
だからこそだろう。その私見、鮫島本人の想や、『想い』を言葉にするのを、彼は極端に苦手にしていた。主観はときに事実と反する。この時、彼は言葉を失う。
「思ったまま、口にしてみろ」という條件は、鮫島にとってひどく難しく、不慣れなものだった。
彼は、言葉を模索し、梨太が思っていたよりも難航して、やっと話し始めた。
梨太への要を、彼の素直な気持ちを、獨り言のように吐き出していく。
最初に出てきたのは。
「……さっきのは、ひどいことばだとおもう。もう使わないでほしい」
先ほど言ったのと同じ願いだった。梨太は素直に謝る。
「ごめんなさい。嫌いだなんて二度と言わない」
「……こういう、のぶつかり合いのような口げんかは、とても苦手だ。俺はきっと言葉を選びすぎなんだろう。話すのが遅くて、申し訳ない。でもリタはもうすこし言葉を選んでほしい。あんまりひどいことはいわないでほしい」
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「すいませんでした」
「あと置いていかれたのはいやだった……喧嘩するよりもよほどいやだった」
「ですよねごめんなさい、意外と打たれ弱い男でほんとすいません……」
平低頭、謝る。それを見下ろし、鮫島はまた沈黙した。かなり長いこと微だにせず、やがて思い出したようにぽつりと言った。
「リタは意外と寢相が悪い」
「へっ? え……そう?」
「うん。たぶん寢てると暑くなってくるんだと思うが、布団を蹴り飛ばさないでほしい。俺が寒い」
「あっ、はいすいません」
「……本を読んでるとき、話しかけたら不機嫌になるのやめてほしい。今取り込み中だと普通に言ってくれたら退く」
「それは不機嫌なわけじゃなくテンションが低いだけ――いやごめん、もうちょっと気を遣う」
「……あとは……。…………」
また長い沈黙。真顔である。本當に言いたいことのジャブというわけではないらしい。
「……もう終わり?」
「…………景がヒマなとき、ときどき鼻歌を歌うの、控えてほしい」
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「なんで」
「音を外したとき、がくっ、てなる。平坦な道ならいいが夜間に林を抜けてるときとかは危ない」
「二度と歌わないです」
「足場が悪いところを歩いてたり、刃を使ってるときも怖い。コケそうになる」
「ごめんなさい二度と歌わないです。というか君、たまにハンドルがブレてたのアレ僕の歌でコケてたのかよ!?」
「あ、いや、歌うのはいい。コケても危なくないときならば。むしろ面白いから聴きたい」
「二度と歌わないです」
真顔で斷言する梨太に、なぜかをとがらせる鮫島。「安全な狀況でなら聴きたいのに」とブツブツ文句を言っているのを、梨太はすべて聞き流す。
それから彼はまだいくつか、梨太に要を告げてきた。それはたいてい、つまらない、本當に小さなことばかりだった。自分がまだ食べているときはなるべく席を立たないでほしいとか、食後の飲みは溫かいものが好きだとかそういう――ひどく生活くさいことばかり。星最強の騎士団長は、淡々と要した。
梨太はひとつひとつ、ちゃんと覚える。
これは、喧嘩ではない。相手への駄目出し、否定なんかでもない。これから家族になるために、必要な作業工程だったのだ。
(ああ、そうだ僕は……まだ、他人と家族になるってことを、よくわかっていなかった)
梨太は実した。
(僕たちは、もっとこういうことですりあわせをしなくちゃいけなかったんだ。ちゃんと自分の好みとか生活習慣とかを伝え合って、時には喧嘩したりもして)
かつて、梨太には家族があった。産んでくれた両親や、生まれ落ちたままそこにあった環境があった。
(鮫島くんとの結婚は、それを取り戻すってことじゃなかった)
鮫島は、梨太に甘い。しい人へのあばたもえくぼではなく、自分が軍人で、騎士団長だからだ。軍の規律をす危険な行為でもなければ、彼は果てしなく寛容である。我慢をし、世話を焼き、ひたむきに梨太の幸福を願っている。たとえ日々が楽しくなくても、そばにさえいられたらいいと――
――それは、友と呼べるものではない気がした。
ひたすらに居心地のいい、空気のような存在。
彼の強さは、父に似ていた。厳しいやさしさは、母のに似ていた。何の見返りも求めない獻は、飼い犬を思い出させた。
みんな、もちろん人ではない。だけども大好きだった。失いたくない、二度と失いたくない、できることなら取り返したい――大好きな者たちだった。
(僕は、鮫島くんのことを――家族だと思って――)
そんなことを考えている間に、鮫島の口上はやんでいた。「深爪にしすぎるのもあまり良くないと思う」というクレームを最後に、沈黙している。
もう自分への要は盡きたのだろうか。
「鮫島くん、おわり?」
うつむいた顔をのぞき込む――と、彼は両手で、顔を覆った。梨太から表も顔もすべて隠して、鮫島はなにやらもじもじ、をくねらせる。なにか言いあぐねているらしい。
「なあに、今更言いにくいこと? なんでもいいよ、言ってみて」
「……あの」
「うん」
うなずく梨太に、彼は言った。長い指の隙間から、深海の瞳を煌めかせて。
「……一回、だけ……。思いっきり、抱かせてほしい」
「……」
「………」
「………………」
たっぷり二十八分――石化した梨太が、脂汗でシャツをぐっしょり濡らすころ、鮫島は「あっ」と聲を上げた。ぱたぱた軽く手を振って、
「違う。ただギュウーっと、こう、ハグで」
「そっちかっ! なんだよちゃんと言ってよあと二分で人生における大きな岐路を左折をするところだったよ!」
「それはもう、俺は出來ないし。……たぶん。…………やりようによる?」
「いやほんとそれは無理です勘弁してください。でもハグくらいなら全然大丈夫だよ、ていうか今までだって別に」
と、言いかけてふと気づく。ギュウと抱きしめるハグくらいなら、今までだってやってきた。それを改めて『お願い』するとは、どういうことだ?
猛烈にいやな予がして、梨太はそうっと妻を見上げる。
「……もしかして、戦闘力全開的な意味で?」
「大丈夫」
彼はいつもの、凜々しい顔で斷言した。
「臓と骨に致命的なダメージを與えないようにはする」
「怖ぇよ」
梨太はがっくりうなだれた。
それでも梨太が手を広げると、彼ははにかんだ笑みを浮かべた。紅し、まだずいぶん照れくさそうに、それでも遠慮はしない。
梨太の背に手を回し、抱き寄せる。薄い布越しに、暖かな溫と鼓が伝わってきた。
ギュウと抱きしめられる。覚悟をしていたよりも苦しくはない。だが不安になる。己の生命の危機ではない、鮫島の想いを、怖くじた。
梨太よりも大きな手、強くてらかなで、すがりつく。甘い抱擁――甘えているのは、抱きしめているのは、どっちだ?
梨太のを抱きしめて、鮫島はホウと息をつく。
「リタ……」
這わせた指でタップする。抱きしめ返せとねだられて、梨太は同じだけの強さで締めた。鮫島とて、呼吸をつぶされれば苦しいだろう。それでも彼は逃げなかった。力して梨太を迎えつつ、抱き寄せる腕はさらに力を強める。
指の腹が、一本ずつ、梨太の首をする。
その爪の熱さに、梨太は総だった。
そしてまた、怖さをじた。
(――僕はやっぱり、鮫島くんを、見間違えていたのかもしれない)
産をでる彼の吐息。梨太の心臓を、ごと潰して取り込もうとする抱擁。
やはり梨太は間違えていた。
こんなものが――親の保護などであるはずがない。
(この人は、もしかしたら……僕が思っていたよりもずっと)
(ずっと前から、ずっと強く、僕のことを――)
「リタ……リタ」
震える指が、梨太の髪をかき混ぜる。
鮫島は、として生きた経験が淺い。のセリフを知らない。
自分の気持ちも、男をう言葉も語彙になく、他のを見るなという、當たり前の要すらも持て余す。
「リタ」
れてほしい。抱きしめて、キスをして、を重ねたい――そんな言葉も言えない。
ただ額を梨太の肩にり付けて、腰を寄せる。
梨太もそれで察する。
って艶を帯びたは、薄皮がれるほどに近づいて、それでもただ焦がれて待っていた。
逡巡は一瞬。噛みつくように咥える。瞬間、猛烈な飢えが梨太を襲った。鮫島の口を食いつくさずにはいられない。鮫島も同じく、梨太を啜(すす)った。
「……タ、リタ。リタ」
呼吸のためですら、離す間がもったいない。それなのに鮫島が何かを言おうとしている。開いたそばからを吸われ、歪(ひず)んだ聲で、鮫島はやっと言葉を紡ぐ。
「リタ、かみたい」
「……かみ……噛む?」
ん、と短く頷き、梨太のうなじをこする鮫島。梨太は疑問符を浮かべながらも、頭を垂れた。半月もの旅でいくぶんびた、クセの強い栗の髪――鮫島は羨み、弄ぶのがお気にりだった。だが今は焦がれる手つきで掻き分けて、梨太の首を出させる。
一度、甘いキスでをされた。――直後、
「いっ――!?」
痺れるほどの痛み。皮がちぎれそうを飛び越えて、首の神経、骨までもがまるごと噛み砕かれそうだった。
悶絶した梨太に、鮫島はを離した。だが飢をこらえきれなかったのか、すぐにもう一度噛みついてくる。
「痛っ――鮫、じまく――」
悲鳴ももう出ない。全が痺れ、抵抗できない。恐怖と諦め――そして喜び。圧倒的に強い生に支配され、食獣のになる。星(ほし)の循環(サイクル)に組み込まれ、正しく歯車が回っていく。奇妙な充足がそこにあった。
「あ……あ、っ――」
背中から力し、倒れこむ。さすがに強くしすぎたと、人は後悔したらしい。自分がつけた歯形を舌でなぞって、梨太の傷をめた。だがそんな理も長くは続かない。
無意識に逃げる、梨太のを抑え込んでもう一度。
今度こそ梨太は悲鳴を上げた。
「痛いっ――!」
その時スパァンと小気味良く、引き戸が開け放たれた。
「大丈夫かリタ! ごめん間違えた!」
再びスパンと戸が閉まる。しかしあまりに慌てたせいだろう、部屋の中に自分自を置き去りにして、虎はハッと己を見た。
そしてまた戸を開き、リビングのほうへ逃げ込んでいく。三度閉ざされた戸の向こうで、ひっくり返った聲がする。
「ごめんだってケンカの聲がしてリタがイタイって言っていうからだんちょー止めなきゃって俺ごめん、ほんとごめん」
「い、いや……大丈夫、ありがとう……」
自分の耳に聞こえるほどの鼓を、どうにかこうにか抑え込み、梨太はなんとかを起こした。
さすがに正気に返ったらしい、鮫島も、口元を抑えて座りなおす。今度は穏やかに、梨太の髪をクシャリとでた。
「ありがとう。もうしない」
「う、うん? うん、ええと――そうだね、もう嫌……というかうん勘弁してほしいかなうん」
「しやりすぎた。俺はやっぱり、こういうのが下手だ。リタも自衛をしてほしい」
なんだかよくわからないことを言う。
聞き返す力もなく、ただ紅と悸を抑え込むのにいっぱいいっぱいの梨太に微笑んで、彼は立ち上がった。
深呼吸。しなやかなをばし、大きく嘆息。長い黒髪を指で梳き、へたりこんだままの梨太を、じっと見つめた。
「……わかった。俺は戦う。本気を出して、ちゃんと戦おう」
言い捨てて、背を向ける。
梨太を部屋に置いたまま、彼は退室していった。
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