《鮫島くんのおっぱい》さよなら鮫島くん
「選べないよ!」
ぶ、梨太の聲は悲鳴そのものだった。だが鮫島は無慈悲である。いつも優しく、梨太を護り続けてくれた彼は、今度ばかりはただじっと見つめているだけだ。
膠著する二人に、助け船のつもりだろう、口出しをしたのは虎だった。
「……何、こじれてんだよお前ら。選ぶってもんじゃないだろ。別が変わろうともだんちょーはだんちょーだし、友達から人になれたんなら良いことじゃねえの」
「違う!」
拒絶したのは、やはり梨太だけ。虎は眉を跳ねさせた。
「何がだ? 変わってくってことは、別に、無くなってしまうってことじゃないだろう」
「同じだよ!!」
梨太はさらに首を振る。鮫島は何も言わなかったが、本心では、虎と同意なのが見て取れた。
別が変わる。それでなにも無くなるわけではない――彼ら、ラトキア人にとっては當たり前のこと。有史以來ずっとそうであった彼らには、梨太の違和はわからないのだ。
地球とラトキア星はよく似ている。それぞれの地で進化した人類は、見た目も味覚も、神への概念すらもよく似ていた。これまで、大きな相違はなかったのだ。上手くやっていけると思った。
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だが、違う。決定的な違いがそこにある。
「――違う。別が違えば、別の人間だ。……見た目が違う。職業も生き方も。好きなものも嫌いなものも変わって、ものの考え方も変わってくる。外も中も全然違う……僕の世界じゃ、それは別の人間だ。在るひとが別人とれ替わったら、それは――亡くなってしまうっていうことだよ」
虎が反論しようと口を開く、それを、鮫島は視線で制した。梨太のそばにかがみこみ、じっと見つめてくる。
鮫島は、否定しなかった。地球人の覚に寄り添い、梨太の思いをそのまま汲んで――その上で、酷く殘酷な通告を突きつける。
「ああ。だから、選ぶといい。――『俺』か、『私』か。お前が好きなほうと暮らせ」
「……選べないよ」
「選べ。そうするしかないだろう。『私』と『俺』とは別人なのだから、どちらか一人しか生き殘れない」
「選べないよ……っ!」
「……『俺』は、お前が爭いごとが嫌いなのは知っている。だけど――やらなくてはいけないときには、やるしかない。それが、お前の生き方なのだろう?」
わかりきった言葉も、今は耳が痛くて仕方ない。梨太は耳をふさぎ目を閉じて、俯いた。逃げたいと思った。
だが鮫島はそれを許さない。跪き、俯く梨太をさらに下から仰ぐ。
熱い――自分を想う人間の、溫をじる。梨太は問うた。
「『君』は、誰?」
答えはもらえなかった。逆に、問われた。
「どちらに見える?」
「……わからないよ。目を閉じているから」
「では、開けろ。それが、『俺』の本當の姿ということになる。――『私』たちラトキア星人は、繁のため、相手のむへと変化する。『俺』は、お前のために何もかも変わる。その目に映る姿が、お前がんだ『私』だよ」
梨太は目を開いた。
涙で滲み、視界が効かない。なにも視えない――これもまた、梨太がんでいる世界なのだろう。いっそ盲(め)いてしまいたい、そうすれば曖昧なまま、彼と暮らし続けることが出來るのに。
……そう考えること自が、答えだった。
もし見えてしまったら、あのひとが消える。それがわかっていて、先延ばしをしているに過ぎない。
梨太は笑った。可笑しかったのではない。お別れのときくらいは、笑顔であろうとして。
しっかりと目を開き、ぐいと暴に涙をぬぐった。明瞭になった視界に、端正な顔立ちが映りこむ。
艶やかな漆黒の髪。純白の、真珠玉のような。伏せた長いまつげに縁どられた、深海の切れ長の瞳。ほっそりとした鼻梁に、どこにもゆがみのない顎。
その特徴自は、どちらであっても変わらない。
だが決定的に違う點がある。
『彼』は、だった。
梨太は、大きく息を吐いた。
「……鮫島くん」
『彼』の名を呼ぶ、『彼』は一瞬、凜としたものを眼差しに込めた。だが梨太がポケットに手をれ、細い金屬筒を取り出したのを見て、眉を垂らす。
そして、『彼』は目を閉じた。
「鮫島くん」
彼の名を呟きながら、梨太は筒の蓋を取る。
彼の姿を思い浮かべながら、彼の橫髪を梳る。
彼の目元に一度、確かめるように親指を伝わせて、
「鮫島くん」
最後にもう一度だけ、彼の名を呼んだ。
赤い紅を、彼の目蓋に差していく。彼の左目が紅く染まった。
手を止めず、今度は右へ。
一気に引いてしまうことはできなかった。かすかに震える手を無理やり抑え込み、何度も向き直る。
強張った指先に、ぼたりと大粒の雫が落ちた。視界が歪む。それでも、梨太はもう間違えなかった。
妻の頬に手を添えて、『婚儀の紅』を走らせた。
彼の名はもう呼ばなかった。
ただのでつぶやく。
(さよなら、鮫島くん)
――とたん、ヒッと咽が痙攣した。眉が、瞼が、顔面がぐしゃぐしゃに歪んでいく。ヒッ、と聲が出た瞬間、彼が梨太に飛びつき、思い切り抱きしめた。
ぐしゃぐしゃになった夫の顔をに抱き、この世にある悲しいことすべてから守ろうとする、彼は果てしなく大きかった。
父よりも母よりも、家族よりも友人よりも、彼は強く、大きい。娶ったばかりの妻にすがりつき、年みたいに夫は泣いた。
――虎だろうか、誰かひとりが拍手をした。それをきっかけに、ばらばらと手を叩く音が増えていく。
笛が鳴る。結婚おめでとうという聲がする。新たな夫婦の誕生、の挙式に、獣人はみな喜び祝福をした。祝杯の號令、歌聲、明るいテンポの足音、踴り子が舞う、バルフレアの鈴とれの音。
「――祝え! この喜ばしい日を。
歌え! 新たな夫婦の、幸福な家族の誕生を。
ここから始まりここに生まれ、果てしなく広がる二人の未來を。
良き、良きことよ。この日のなんと喜ばしいことよ!」
「……ヒッ、ぅ。う――」
祭りの中心で抱き合う男、はを離し、男に口づけた。と、目元と、頬とに、小さなキスを何度も寄せる。滴る雫を一粒のこらず吸い取って、震える肩を抱き、崩れるを支え、のすべてをそのでけた。
夫の哀しみに、これ以上なく寄り添いけれながらも、彼は微笑んでいた。
己のみが葉い、彼は幸福だった。
――『彼』は、穏やかに目を閉じていた。もう梨太ののなかだけにしか存在しない、その青年は、嘆き哀しみなどしなかった。
『彼』もまた、笑っていた。
己のみが葉い、彼は幸福だった。
梨太だけが泣き続けていた。
己のみが葉い、梨太は幸福で、泣き続けていた。
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