《冷徹曹司の無駄に甘すぎる豹変8

避け作戦はどうでした? うまくいきました?」

研修が始まると同時に、水上さんに尋ねられ私はモゴモゴと口を濁した。

「……あまりそういう……じには……ならなかった……といいますか……普通にパーティーを楽しんだ、と言いますか」

「ふーん」

水上さんの眉が中央に寄せられる。

「珍しく沢山喋りますね」

「……!」

そうだ。

この人も烏丸さんと同じくエスパーだ。

気をつけなければ、がバレる。

そう。

昨日、事を終えた後。

帰り際のタクシーで、烏丸さんに釘を刺された。

「水上には緒な」

正直なところ、ショックだった。

私にはまだ何一つ決意ができていない。

そんな狀態で周りにれ回る可能は0で、當然、他の人にカミングアウトする気はなかった。

しかし先回りして烏丸さんに釘を刺され疑が生まれた。

やはり私、騙されているんじゃ……。

不信を拭えない

「なんだか元気がありませんね。憐に何かされました?」

ズバっと。

水上さんが尋ねてきた。

私は思わず持っていたペンを取り落とす。

「あわわわ。すみません。別に、何も……當たり前じゃないですか」

「ふーん」

いったいこの意味不明な相槌は何なんだろう。

全部読まれているような、ただカマをかけられているだけのような。

どちらにしても、本當の事は言えないのだ。

(く、苦しい……)

その時水上さんのスマホが震えた。

「憐からのメールです」

チェックをした後、水上さんは私に向き直る。

「おや? 今日で研修は終わりだそうです。相変わらず気まぐれだなあ。今から社長室に行ってください」

「……失禮します」

社長室をノックすると「れ」という聲がした。

もちろん、烏丸さんの聲だ。

子宮のあたりがぞくり、とする。

私はまだ、仕事とプライベートの區切りがついてないらしい。

烏丸さんの聲を聞くとどうしても意識してしまう。彼が男だと言うことを。昨日抱かれてしまったことを。

深呼吸してドアを開けようとすると、突然先にドアが開き、大きな手のひらが私の腕を摑む。強い力で引き摺り込まれた。

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フロアに放り込まれて、がちゃりと鍵を閉められる。

「……會いたかった」

舌で上をぺろりと舐めながら、彼は私を腕の中へと抱き込んだ。

「あの……」

「さっき別れたばかりだ、って? そんなの知ってる。でも、君は寂しくないのか? 俺と1時間も離れていて……その間、何をしてるわだろうと不安にならないのか?」

「烏丸さん……」

「俺は、なる」

顎をつままれ、ちゅ、とついばむようなキスをける。

冷たい。心臓が止まりそうなくらいドキドキする。

「……やめてください」

れていたのはだけ、他はどこにも接していない。

だから私は後退り、きっ、と彼を睨んで見せた。

「なんで?」

彼はずい、と近づいてくる。

「ここは……職場です……」

「そう。神聖な場所だ。だからこそ燃える」

「え?」

「……君にれたい」

烏丸さんの手が私の頬をそっとで下ろした。

「あのっ……本當に研修は終わりなんですか?」

逃げを打つ私の手首を強い力で握りながら、烏丸さんはうなずく。

「ああ。水上と二人っきりになんかしておけるか」

「えっ……まさか、そんな理由で……」

「當たり前だ。ああ見えてあいつも男だからな。それに君を気にっている」

私は半分呆れてしまう。

「そんな事ないです……水上さんは紳士ですよ」

そう。彼は私にれてきたりしない。

好きなふりをしたりもしない。

私をドキドキさせたりもしない。

危険なのは彼じゃなくて、目の前にいる、魔王。

烏丸さんだ。

「何故庇う? 何か特別な理由があるのか?」

「そんなわけ……」

「君は、俺を煽るのがうまいな」

舌で上をぺろりと舐めながら、ますます彼は私に近づく。

そして……。

大きなデスクに手をついて、私は後ろから味しくいただかれてしまったのだ。

服を整えた後、私ははあはあと荒い息をつきながら、恨めしげに烏丸さんを睨んだ。

こんなの……ひどい。

避けパーティーではっきりわかった。

私は噓をつくのがとても苦手だ。

の男関係なんて、どの立場であってもにするのが無難だとはわかっている。

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でも……こんな風に朝から社で抱かれたり、甘い言葉ばかりを囁かれていたら、抱えているのが辛くなる。こんなにも大膽なことをやってのける彼が、なぜ周囲にそれを隠すのか。ろくでもない理由しか浮かばない。

「もう、こういう事はやめてください」

彼から距離をとりながら訴える。

「……なんで? まさか潔癖癥? いや、そんなわけないな。じてたし」

かーっと頬にが上る。恥ずかしい。

では拒んでいるのに、は自然に彼をれてしまっている。

「気持ちが追いつかないです……もう……わけがわからない」

素直な気持ちを私は伝えた。

「だって、私たち、會ったばかりなんですよ? 最初は無駄だの馬鹿だの散々言われて……それがいきなり……」

「だよな」

反論されると思いきや、彼は大きく頷いた。

「自分でもわけがわからない……けどまあ、あれだな。君が悪い」

「えっ?」

「……君が俺の心をざわつかせる……最初からだ」

私は呆れて彼に真実を思い出させた。

「最初の出會いを覚えています? 無駄のテンプレートって言ったんですよ」

「ああ言った。可かったから……多分」

多分って!

今のは顔つきではっきりわかる。噓だ。後付の言い訳だ。

「……! そんな事おっしゃるから、信じられないんですよ!」

「君もいい加減無駄なだな。どうせ最後には俺のものになるのに」

「え?」

「……俺は何があっても君を離すつもりなんてない」

烏丸さんはポケットから紫の小箱を取り出した。

開けると銀のブレスレットが出てきた。

先が丸くボディがねじれている、シンプルなものだ。

「俺が初めてデザインしたものだ」

烏丸さんが私の手を取ると、強引に手首へそれをはめる。

「似合うじゃないか。君のために作られたみたいだ」

烏丸さんが満足気に頷く。

「あのっ、これはどういう事でしょう……?」

彼はしれっと言い放つ。

「君の意向を汲んで、今後無理なセックスは求めない。そのかわり、それを嵌めておけ」

「どうして……!」

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「俺をいつでも思い出させるためだよ」

ずきん、とが甘く痛む。

こんな風に熱的に迫られて、心がかないわけはない。

でも、何故タツキさんに緒なの?

これは……期間限定のごっこなの?

また無駄な時間を過ごすことになるの?

もし烏丸さんとの関係が拗れたら、この會社にいられなくなる。

鋭い刃が突き立てられたかのようにが激しく痛み出す。

「お返しします」

私はブレスレットを外そうとした。

ところがどうしても外れない。

「……特別なやり方があるんだよ。君がも心も俺のものになると言ったら教えてやる」

烏丸さんはニヤリと笑う。

魔王みたいなその笑みにぞくぞくしている自分が嫌で……私はブレスレットを押さえつつ、彼の顔から目を逸らした。

瞬く間に1ヶ月が過ぎ、私のルーティンが定まってきた。

烏丸さんより1時間前に出社して簡単な掃除をし、パソコンを立ち上げ1日のスケジュールをチェックする。

烏丸さんが出社すれば申し送りを済ませ、午前中は事務で潰れる。

午後からは來客の接待やスケジュール調整など。

電話応対も當然こなす。

書と言えば誰もが想像するような毎日だ。

烏丸さんが私を社外へ同席させることはほとんどない。

「本気で君をものにするまで、誰にも見せない」

最初の頃そんなことを何度か言われたが、本気かどうかわからない。

口説かれることも、もちろん抱かれることもなくなり、ホテルと社長室での出來事はもしかしたら夢だったのではないだろうかと思う時がある。

それくらい彼は雇用主という立場を崩さなかった。

となれば、これ以上に尊敬できる人はいない。

元々彼に憧れて、會社説明會に足を運んだ私には、流れるように思考し行し結果を出す彼の間近にいるとが引き締まる思いだった。

私は18時に退社するが、烏丸さんは20時まで居殘り、その後はほとんど會食だ。

プライベートな時間は、どれくらいあるのか、不思議に思う。

魔王でロボットで強引すぎる毒舌CEOが、尊敬できる雇用主へと変わった。

そんなある日の金曜日。

烏丸さんにこう言われた。

「なあ、倉田」

「はい」

「今晩予定は?」

今日は花金。しかし私には関係ない。

「何もありません」

「じゃあ、デートしようぜ」

モニターに目を向けながら、さらりとした口調で言われたため、私はしばしリアクションに困った。

「デート……ですか」

私はごくりと唾を飲む。

「そう」

彼がやっと私を見た。

違和を覚えるほど、っぽい目にドキドキする。

「申し訳ありません。予定を思い出しました」

「噓つけよ」

たちまち見抜かれ頬を赤くする。

「本當です……」

「何の予定だ」

「それは……多分……クラス會……?」

「本當に噓が下手くそだな」

烏丸さんは立ち上がり私に向かって歩いてきた。

ビクッと肩を震わせて私は後ずさる。

しかし烏丸さんは私の橫を通り過ぎ、ドアを開ける前に振り返る。

「後で待ち合わせ場所をメールする」

「でも……」

「19時までには仕事を片付けておけ。じゃ」

バタンとドアが閉まり私は一人取り殘された。

「あー……これ、絶対ダメなやつ」

この一ヶ月間、一度もアプローチをけていなかったから、すっかり油斷しきっていた。

金曜日の夜にいきなりうだなんて卑怯だと思う。

逃げられない。とはいえなんとか逃げきらなきゃ。

(無駄ななんてしたくない)

今やっと、未來が見えて、人生が充実しかけている。

この幸せを逃したくない。

と言いつつも対策を思いつくことなく時は過ぎ、あっという間に勤務時間が終わった。

メールには有名なデートスポットの場所が屆いている。

「申し訳ないですが、行けません」

そう打とうとして、やはりやめた。

早めに返信すれば、會社に戻ってくるかもしれない。

何も言わずに帰宅して、後から謝りの電話をれよう、なんて思っていたら、ドアが開いた。

「きゃっ」

ってきた彼を見た瞬間、私は小さな悲鳴をあげる。

烏丸さんはデスクの橫で仁王立ちになった。

「……君には俺が化にでも見えるのか?」

高いところから見下ろされると、いつも以上に魔王が増す。

しかしその通りです、とは流石に言えず、

「今日は戻らないのでは……?」

肩を竦めて恐しつつも、私は『もっと早く、どうするか決斷すべきだった』と悔やんでいた。

「會議が早めに終わったんだ。準備はできたか?」

もたもたしてたのは明白なのに、聲が優しい。

そしてその優し気な聲が、私は怖い。

「あの、烏丸さん、私、今日は殘業します。仕事がまだ殘っていて……」

あからさまな言い訳だが仕方ない。

行きたくない、という気持ちだけでも伝われば、空気を読んで諦めてくれればそれでいい。

しかし全てを話し終わる前に、目の前にびてきた長い指が、ブチッとパソコンの電源を切った。

「あーーっ!」

「喚くな。データは5秒おきにクラウド保存してある」

「でも……」

おろおろしている間に、烏丸さんは機上の備品をポイポイと片付け、私の腕を取った。

「俺の1秒は高いんだ。さっさと行くぞ」

「ちょ……烏丸さんっ……」

無理やり立たされて、もうこれ以上抵抗もできず、私は慌ててバッグを摑んだ。

魔王に『空気を読む』なんて、高等なコミュニケーションを期待した方が馬鹿だった……。

ずるずると廊下へと引きずられる。

駐車場まで直通のエレベーターに押し込まれ、私はやっと彼に訴えた。

「離してください」

軽く腕を引いてみるが、びくともしない。

「いやだね。離せば君は逃げるだろ?」

しれっと言われ、両眼を見開く。どうやら、強引すぎる態度だとは自覚しているらしい。

「逃げられるところなんて……どこにも……ないです……だから……お願い……」

正面からやり合っても敵わない相手には、逆に下から行く方が効果的かもしれない。

その目論見は當たったらしく、

「逃すつもりも、一切ないし、な」

彼はしだけ目を下げると、降下していくエレベーターの中で、やっと腕を離してくれた。スケルトンのエレベーター。外から私たちの姿は丸見えだ。

何かされては大変、と、後退りエレベーターの隅っこへとを落ち著けた。

彼はマジマジと私を見て楽しそうにを歪めた。

その表に確信する。

(この人は魔王であり、ドSでもあるわ……!)

烏丸さんが仕掛けるちょっとしたジャブに、私はあっけなく揺する。

その様子を見て彼は楽しんでいるのだ。

案の定、綺麗な顔が近づいてきて、甘い口づけが與えられる。

私は両手をだらりとばしたまま、そのキスをけた。

このエレベーターは街中のステキなランドマークになっていて、きっと見てる人はたくさんいる。

それなのに……平気なのだろうか。

家族であるタツキさんや兄弟みたいな水上さんにさえ、この関係を隠しているくせに。

この人の気持ちがわからない、とぬるい舌のを味わいながら頭の中で繰り返す。

あまり暴れると、烏丸さんの立場を悪くしてしまいそうで、抵抗できない。

だから、巧みでいやらしい手慣れたキスを、與えられるままけ取ってしまう。

の奧が発しそうだ。

エレベーターが駐車場に著く。

「……安心しろ。君の姿は外からは見えない」

くすりと笑いながら烏丸さんが言う。

そう……かもしれない。

小柄な私は逞しい彼のにすっぽりと隠され、存在を消されていたかもしれない。

それは……良かったけれど。

このドキドキをどうしてくれるの。

パーキングには烏丸さんの車が停められていた。

助手席を開けてもらい、迷いを斷ち切れないまま車に乗る。

烏丸さんもすぐに乗り込んできた。エンジンをかけると、ピアノ曲が流れてくる。

(ショパンだわ。いい音……)

しばらく聞き惚れた後、ハッとする。

私は背筋をばして運転席に目をやった。

高い鼻梁としい顎のラインが飛び込んできて、とくん、と心臓が音を立てる。

「烏丸さん、もしかして、クラッシックに目覚めたんですか?」

の鼓を抑えつつ尋ねてみた。

もう1ヶ月もそばにいるのに、まだ彼の容姿にわされてしまうだなんて、絶対彼には知られたくない。

「いいや。ちっとも。けど君は好きだろう?」

私はマジマジと彼を見た。

「もしかして、私のために?」

「當然だ」

素っ気無いけれど、どこか溫かさをじられる聲に、かーっ、と全が顔に集まった。もしかして、私に寄り添ってくれてる?

ぶわっ、と思いが押し寄せてきた。

これはダメだ。隠しきれない。だって、私、すごく嬉しい。

「ありがとうございます」

私ははにかみながらそう告げた。

チラッと私を見ると、烏丸さんはなぜか赤い顔をしている。

「やっと笑ったな」

「えっ?」

「今すぐ押し倒してしまいそうなほど可い」

想いのこもったその聲に、私の心臓はもう一段大きく跳ねる。

烏丸さんはズルい。

この聲と表で、私の心をたやすくコントロールしてしまう。

デートの行き先は、世界的なピアニスト『ガーシュガルト』の來日コンサートだった。

クラッシック音楽のコンサートなんて、久しぶりだ。

二階桟敷席の最前列に、烏丸さんと肩を並べて座る。

ピアニストの手のきがよく見える、通には特等席と呼ばれている席だ。

広い座面に腰を落ち著け、小聲で彼に尋ねてみた。

「チケットを取るの、大変でしたよね?」

クラッシックはポピュラー音楽に比べて敷居が高く思われがちだが、それでもピアニストはトッププレイヤーだし、座席は各階満遍なく埋まっている。急に思い立って、即手にるような代ではないはずだ。

烏丸さんはちらりと視線を私に向ける。

「まあな」

「ありがとうございます」

「逃げようとしたくせに」

「……すみません」

「また押し倒されると思った?」

「……いいえ」

「頑張ったから、ねぎらってくれる?」

長いてのひらがびてきて、私のてのひらをそっと握り込む。

さりげないスキンシップに、ドキドキする。

私の心に波風を立てることを目的とした行為なのだろうが、わかっていても揺してしまう自分がけない。

彼の親指が、つ、といやらしいきで手の甲をなぞる。

周囲の目が気になって、思わず背後を確かめたくなったが、角度的に見えないと気がつき思いとどまる。

「お返ししたいですけど……どうすればいいか……わかりません」

「俺の好きにさせてくれればそれでいい」

じっと瞳を見つめられ、ますます顔が赤くなった。

やがて演奏が始まった。

(月だわ……)

以前、パーティーで披した曲だ。

烏丸さんのためだけに、心を込めて弾いた思い出の曲。

ほんの1ヵ月前の出來事なのに、遠い昔の事みたいだ。

あの時から、彼の態度は豹変し私に関心を持つようになった。

そう。全てはこの曲がきっかけだったのだ。

チラリと隣に目をやるが、彼の表に変化はなかった。

(覚えているわけ、ないわよね)

視線を再び舞臺へと戻す。

トッププレイヤーの粒だった音に、心が別な方向に掻き立てられる。

2 DK のアパートには置と化した電子ピアノが私の帰りを待っている。

ふと、奇妙な考えが頭に浮かんだ。

弾かないピアノに意味はあるのだろうか。

今の仕事にとてもやりがいをじてはいる。

烏丸さんとの関係をなんとか良好なものにチェンジして、長く続けていきたい。

そう思っている。でも、何がきっかけだったんだろう。

もう私は音楽の道に戻らないつもりなのだろうか。

(私はどうしてピアノ講師になったんだろう)

すぐに思いつく理由は、最初に聲をかけてくれたからだ。

もしインターン先の企業が、それより前に聲をかけてくれていたら、そちらを選んでいただろう。

モヤモヤは心の側に広がっていくばかりだった。

せっかく素敵な演奏を聞かせてくれているというのに。

(ああ、また無駄なことを考えてる)

でも止まらない。

(私には自分の軸がない……)

悲しい結論に達しかけていた時、隣にいる彼のがガクッと橫に倒れ、次の瞬間私の肩の上には彼の頭が乗っていた。

甘い香水の香りが鼻腔をつき、小さな寢息が鼓に響いた。心臓が早鐘を打っている。

「烏丸さん?」

小聲で名前を呼んでみたがかない。

(眠ってるわ!)

クラシックの公演中に睡魔に襲われる人は多い。

の音が脳を刺激するので、仕方がないとも言える。

しかし……。

(意外だわ)

いつも毅然としている烏丸さんが、こんな無防備な姿を曬すだなんて……。

本能が刺激されつくん、とが甘く震えた。

穏やかな寢息が私の頬をでるたびに、顔の赤みが増していくのをじる。

ただでさえ途切れがちだった曲への集中力が、完璧に切れた。

演奏が耳に屆かない。

私の全は彼の寢息を聞き取ることに夢中になっている。

(どうしよう……可い……)

聞こえる寢息は規則正しく、載せられた頭はずしりと重い。

クラッシックピアノへの思いれが薄いのに加えて、疲れが溜まってもいたのだろう。

烏丸さんの毎日は多忙を極めている。無駄が嫌いなだけでなく、無駄な時間を過ごす余裕もないことは、新米書生活で十二分に理解できている。

そんな中時間を作ってくれた。

私を喜ばせたい。

ただ、それだけのために。

ほんのし視線を橫に向ければ、彼の長いまつげと高くて綺麗な鼻、そして形のいいが目にった。

さらりとした黒髪が頬をなぜの鼓はさらに高鳴る。

しばらく起きないでいてほしい。

ほんのし幸せをじているなんて……悟られるのは悔しいから。

しい音が二人をロマンティックな世界へと運んでいく。

彼の目に見つめられると張して落ち著きをなくしてしまう。

でも、寢顔はとても可い。

「まさか眠ってしまうとは……この俺が……信じられない」

頭上から落ちてくるどんよりした聲に、私は思わず吹き出しそうになる。

演奏が終わった後、帰宅する人たちと並び、駐車場までの道を歩きながら、烏丸さんは苦蟲を噛み潰したような顔をしていた。コンサートの序盤で眠り込んでしまったことが相當ショックだったらしい。あまりの落ち込みように、気の毒になってくる。

「疲れてたんですよ」

そう言うと、ギロッとにらまれた。

「……俺をめているつもりか?」

「いいえ、そんな……」

否定しようとしたが、やめて頷く。

ここは正直にならなければ。

「はい……」

「生意気な」

しかめっ面の烏丸さんに、こん、と額を弾かれてしまった。

「い……たっ」

「加減はしてある。大袈裟だな」

「……それでも痛いですよ」

モゴモゴと言い返せば、烏丸さんは立ち止まった。

凄みのある目で私を見下ろす。

「す、す、すみませんっ」

びてきた手に、更なる攻撃が繰り出されるのかと、私は思わずのけぞってしまう。

しかし、烏丸さんは私の肩を両手で挾み、はーっと大きなため息をつくと、すまなそうな顔でこう言った。

「悪かったな。せっかくのデートだったのに。また今度、リベンジさせろ」

悔しげに細められる目に、私は勘違いを悟る。

どうやら烏丸さんはお金と時間が無駄になったことを嘆いているわけではないらしい。

私を……気遣ってくれているんだ……。

とくん、と心臓が音を立てる。

「そんな事ないですよ。私は十分楽しみました。それに」

一度大きく息を吸い、そして吐き出す。

「眠ってる烏丸さん……子供みたいで可かったです」

言ってしまった。

からかったつもりなんてなくて、正直な気持ちだ。

彼の眉が片方だけぐっと上がる。

自分にとって不本意なことを言われたときに、出る癖だ。

いつもだと、責められている気がしてそわそわしてしまうそのジェスチャーが、今はとても可く見える。

「可い? 俺が?」

「……あ、すみません。失禮でしたよね」

慌てて訂正しようとするが、烏丸さんは許すように、ふっ、と笑った。

「……初めて君に褒められた」

「えっ?」

「悪くない」

私のてのひらに彼のてのひらが重なり合う。

私の歩幅に合わせて歩きながら、烏丸さんはとても穏やかな表を浮かべていた。

てのひらの溫もりに、の鼓がさらに高鳴る。

チラッと彼の顔を仰ぎ見ると、すぐに彼は気がついて、今度は胡散臭い笑みを浮かべた。

「なに? 俺に見惚れてるのか?」

私は耳まで赤くして前を向く。

「ち、違いますっ」

「なんでだよ。いい男だろう」

「……それは……そうですけど……」

冗談なのか本気なのか。

わからない。私には何もわからない。

すれ違う人たちが烏丸さんを見ている。

その視線を気にした風もなく、烏丸さんは背筋をばして、颯爽と歩いている。

爽やかな夏風が、私たちの間をすり抜けていく。

烏丸さんの車が見えてきた。

初めてのデートが終わってしまう。なんだかがざわざわする。

手が離れた瞬間、足りない気分に襲われた。まだ、彼の溫もりをこの手にじていたかった。

「ベートーヴェンの月……君のはずいぶんっぽかったな」

駐車場に著き車に乗り込むと、烏丸さんはそう囁きかけてきた。

「覚えてたんですか?」

「當たり前だろう。ただの石ころがダイヤに変わった記念の曲だ」

烏丸さんの目が切なげになる。

あ、あの時のことを思い出してる……。

「君はピアノ講師の道に未練はないのか?」

尋ねられて私は考え込む。

新しい仕事に夢中で、與えられたことに全力投球で。

毎日とても充実していたから。

「……はい。自分でも不思議なんですけど……」

「音楽講師になったのは、最初に聲をかけてくれたのがピアノ教室だったからです。今思うとただそれだけだった気がします」

今はピアノの道に戻ろうとは思わない。

烏丸さんの橫で烏丸さんの仕事をずっとサポートしていきたい。

たとえこの人が自らのポリシー通り、ビジネスに一番役立つとめぐりあい、共に生きることになったとしても、私は別な形でこの人を支えていきたいんだ。

「ピアノは売ります」

烏丸さんの眉が片方だけ上がる。

「もうしばらくピアノを弾いていません。アップライトの電子ピアノですけど2 DK の家には結構場所塞ぎになってて……そんなにお金は殘らないと思うけれど売ります」

「なるほどな」

烏丸さんは頷いた。

「君がそう思うなら、そうすればいい。自分の道は自分自で摑むんだ」

「わかりました」

その後はずっと無言だった。

このまま帰ってしまうのが殘念なような、ほっとするような……相反する気持ちが心の中を駆け巡っている。

「それじゃあ、ありがとうございました」

私だけでなく烏丸さんまで車から降りてきた。

渇いた。お茶飲ませて」

「え?」

「何もしないから」

「……でも」

「お茶だけ飲めば10分で帰る」

まるで寶石みたいに輝く瞳で懇願され私はたやすく折れてしまう。

「狹いですけど……」

「大丈夫。俺はそんなにスペースを取らない」

茶目っ気たっぷりに笑う烏丸さんは嬉しそうで……私までクスリと笑ってしまう。

先に階段を上がり真後ろについてくる彼の溫をじながら、鍵に鍵を挿する。

「どうぞ」

振り返りながら招こうとすると、いきなり後ろから抱きしめられた。

「烏丸さん……!」

くるりとを返されてが奪われる。

私は彼のに両手を當てて遠ざけようとした。

しかしそんな抵抗は、よりきつく抱きしめられることで封じられる。

長い舌がぬるりとってきて溫かく粘著質な唾が送り込まれた。

ゴクリとそれを飲み下しながら、私はを高鳴らせる。

側が熱くなってきた。こんなこと許してはいけないと思うのに、どうしても流されてしまう。

経験が乏しい私には、こんなに巧みなキスは刺激が強すぎて、心臓が壊れそうになっていく。

このまま、最後までされてしまうのだろうか。

下腹部が濡れている。ああ、また私は流されてしまう。

の糸を引きながらが離れた。頭と頭をコツンと打ち合わせ、耳元で囁かれる。

「甘くてらかくて吸い付くような……癖になるな」

「烏丸さん……」

「ああ……抱きたい」

今度は軽く抱きこまれた。

頭の上にある烏丸さんの顎が、するみたいにグリグリとく。

私は恐る恐る彼の背中に両手を回した。

しっかりと彼にしがみついて、彼の抱擁に応えたい……。

そんな衝に抗えない。

しかし背中に手のひらがれる直前で、彼はそっとを離した。

「じゃあお茶をもらおうか」

彼は名殘惜しそうに私のを人差し指でそっとなぞり、囁きかけてきた。

もう、これで終わりなのだろうか。

次の行為へは進まないつもりなのだろうか。

ほっとするような足りないような、相反するをよぎる。

「座っててください」

私はソファーを指し示し、キッチンでお湯を沸かした。

コーヒーを持っていくと烏丸さんがアップライトピアノの蓋を開け、キーを叩いていた。

「弾いてみます?」

テーブルの上にコーヒーを置き、隣に並ぶ。

「この部屋、防音なんです。全力で弾いても大丈夫ですよ」

烏丸さんは逡巡していたが、

「俺は弾けない」

そう言って鍵盤から指を外した。

れてみるだけでも」

「下手なものを見せるのは嫌だ。特に君には」

「……烏丸さんは負けず嫌いなんですね」

「當たり前だ」

「私とは全然違う……」

烏丸さんはソファーに座るとコーヒーカップを手に取った。

その橫に座るのは恥ずかしくて、ガラステーブルの前に正座する。

「君は本當に不思議だな。スキルが高いのに、全てに置いて自信がない。反骨心もない。何をモチベーションにして、今までやってきたんだ?」

烏丸さんの分析は的をていた。

私はこれっぽっちも負けず嫌いじゃない。できなくても悔しくない。

目的もなく、ただ與えられたことをコツコツ真面目に無にやってのけるだけ。

でも最初からそうだったろうか?

「母親に喜んでもらいたかったから……多分そうだと思います」

私の母はとても厳しい人だった。

いつも悩んでいた。

世の中が恐ろしいと言っていた。

勉強や運ができるようになっても、全然足りないと言われ続けた。

そんな母は、私がピアノを弾くのが好きで、上達する話シンプルな褒め言葉をかけてくれた。それだけが嬉しくて、毎日ピアノを弾き続けてきた。

「……でも、今ではその母も、ピアノは無駄だった、って言ってるんです。私が不甲斐ないせいで……楽しかった記憶まで、無駄なものになっちゃった……」

ポツリと呟いた後、私はハッとした。

「すみません……なんだか愚癡みたいになっちゃって……私なんて恵まれてるのに……本當にすみませんでした」

烏丸さんはご両親を亡くしている。

そんな人に、甘えた話を聞かせてしまった。

烏丸さんは立ち上がると私の隣に膝をついた。

後頭部に手のひらがあてがわれ、そのままぐっ、と抱きしめられる。

「……辛かったんだな」

「烏丸さん……?」

「……君は頑張ってる。誰が認めなくても、この俺が認めてやるよ」

はらり、と目から涙がこぼれた。

あれ、私、なんだか変だ。

どうして涙が溢れるの……?

私は手の甲でそれをぬぐい、慌てて彼からを離した。

「すみません。烏丸さんの方こそ、辛い思いをしてるのに……」

「何のことだ?」

「ご両親を亡くしてらっしゃるんですよね」

「……水上に聞いたのか。あのおしゃべりめ」

烏丸さんは私の手を取ると、ソファへとう。

ぴったりとをくっつけ合い形になり、息が止まりそうなほど張した。

「うちの両親は教育熱心でな。い頃は水泳に英會話、ピアノに絵畫、いろんなものをやらされていた。その中で唯一できなかったのがピアノだよ。この俺がやれないことがあるなんて信じられなかった」

そして烏丸さんはふっと笑う。

「買ってもらったグランドピアノは、俺ではなく母の持ちになった。母はいつもあれを弾いていた……何だっけ……貓がどうとか」

「貓ふんじゃった?」

「そうだ」

烏丸さんは嬉しげに笑う。

「下手くそな貓ふんじゃったを、俺を膝に乗せて繰り返し弾いていたな。それを父が嬉しそうに見ていた。懐かしいな」

私の頭の中に子供の頃の烏丸さんが、妄想となって浮かび上がる。

きっちりとしたカッターシャツに、蝶ネクタイ。半ズボンで膝下までの長いソックスを履いている。ご両親と笑顔で語り合っている。

「そのピアノは今もお家に?」

「いいや。両親が死んですぐに処分した。もう、弾く人は誰もいない。使わないものを置いておくのは無駄でしかないからな」

そう言いながらも、瞳の奧に寂しげな影がちらりとよぎる。

私はもう、堪らなくなってしまい、

「あの、私、弾きましょうか? 貓ふんじゃった」

立ち上がろうとすると、腕を取られて引き戻された。

「だめだ」

「どうして」

「君がピアノを弾いてる姿はヤバイ。押し倒してもいいなら、お好きにどうぞ」

私は真っ赤になって座り直す。

靜かな時間が過ぎていく。こういう時、どうしたらいいんだろう。

変にめても叱られる気がするし、でもなんだか放って置けない。

「あ、そうだ」

私はバッグからスマートフォンを取り出して楽アプリを立ち上げた。

リズムとベースの設定を済ませ、ピアノをチョイスし、指先を使ってシンプルな貓ふんじゃったを弾いてみた。

「すごいな。スマホでこんな事ができるのか」

魔王烏丸憐が驚いている。

私は心ほくそ笑みながら、リズムを変えた。

の鍵盤と違ってタッチが軽く、その分複雑な曲を弾くのは難しい。

しかし、音を自在に変えられるので、シンプルな曲にもエフェクトをかけてユーモラスな演奏ができる。

「面白い」

烏丸さんが目を細める。

私は彼の目を真っ直ぐに見ながらこう告げた。

「もっともっと、楽しいアレンジ研究します……もし烏丸さんが、この先とても辛い時や悲しい時ことが起きた時、いつでも私を呼んでください。必ずあなたを楽しませてあげますから」

烏丸さんはにやりとしながら私を見つめ「生意気な」と言って頭をコツンと叩いた。

その日烏丸さんは、本當に私に何も手出しをせず、コーヒーだけを飲んで帰って行った。帰り際、引き止めようかと思ったけれど、勇気がでなくて。

その夜はベッドの中で、ずっと彼のことを考えていた。

眠れない夜を一晩過ごし、私はやっと気がついた。

私はきっと彼のことが……。

オフをまたぎ月曜日になった。

スケルトンのエレベーターでいつものように社長室へ上がる。

洋服は鎧だと以前言われた。

だから今日の服は、烏丸さんにもらったあのスーツ。

メイクもバッチリ、1時間かけた。

自分の魅力を底上げして、一生懸命背びをして彼の前に立つ。

そして尋ねるつもりだった。

このに未來はあるのか。

無駄な黒歴史にはならないのか。

本人にストレートに聞いてみよう。

高速で最上階まで辿り著き、息を整えながら廊下を歩く。

ドアの前に立つと誰かの聲が聞こえてきた。

(烏丸さん? 早い!)

まさか先に來ているとは思ってなかったため、心臓がとくとくと早鐘を打つ。

「お前はまだわからんのか。ひかりさんの素晴らしさが」

この聲はタツキさんだ。

長い間ハワイ旅行に出かけていたが、日本に戻ってきていたらしい。

自分の名前が出てきたので尚更がドキドキする。

「……私は今まで會長の言いつけを全て守ってきました。あなたはい私をずっと大切に育ててくれた。その恩に報いたいと思っていたからです。しかし、結婚となると話は別です」

烏丸さんだ。

何やら不穏な空気がドアの向こう側から漂ってくる。

「私はこの會社と自分に最もふさわしいを、自分自の力で選びます。この件に関しては、口出ししないでいただきたい」

きっぱりとした……しいバリトン。

張り詰めていた心が、萎れていく。

(ああ……やっぱり、そうだったんだ)

誰も見ていないのに私は笑顔を作ろうとした。

(そうだよ……私が何かを選んだら……間違いなくそれは駄目な選択肢)

私はを翻した。

今、烏丸さんにもタツキさんにも會いたくない。

悲しくて辛くて堪らなくて……會社を飛び出した。

    人が読んでいる<冷徹御曹司の無駄に甘すぎる豹変愛>
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