生として明らかに自分よりも上位の存在に相対したときにじるは、それに対する恐怖に他ならない。

しかし、その圧倒的な存在を前にしているはずのオレは今、妙に落ち著いていた。

牙獣が咆哮を上げる。

その雄びをけた大気が、恐怖するようにビリビリと震えた。

目の前の牙獣によって、大の大人が既に二人もゴミのように殺されている。

ましてや子供がこの場にいたところで、ばら撒かれるひきの量が増えるだけだ。

そう。

そこにいるのが、ただの子供なら。

「――風霊シルフよ！」

とっさの判斷で風霊シルフを呼び出し、小さな竜巻を生み出す。

オレの右手から飛び出したそれの先端が、牙獣の背中に炸裂した。

「グォォォオオオ！！」

竜巻にを抉られ、に食らいつかんとしていた牙獣が怯む。

その背中からは多量のが流れ出していた。

効いている。

明らかに、先ほどよりも弱っている。

いと言っても、刃を通しにくい程度でそこまでの強度はないのだろう。

こいつを殺すのはそこまで難しいことではないと確信した。

問題があるとすれば……。

「何ボケっとしてる！　早く逃げろ！！」

「ひっ……」

とりあえずだけでも逃がそうと思い聲をかけるが、ダメだ。

は腰を抜かしてしまったようで、その場から立ち上がれそうにない。

仕方ない。こいつがの元へ辿り著く前に殺すか。

そう結論づけたオレは、今度はある程度威力のある魔で攻撃することにした。

ベースは先ほどの竜巻。

それに地霊ノームの力を借りて作った鋭く尖った巖を巻き込ませ、攻撃力を上げる。

つまり、風と土の混合魔だ。

名付けて、『巖竜巻トルネード』。

この程度の魔なら、詠唱すら必要ない。

すぐに魔を発させ、いつでも牙獣にぶつけられる狀態にしておく。

ここになってようやく、牙獣は怪我から持ち直したらしい。

その様子は先ほどまでとは違い、オレへの怒りに満ちているように見える。

明確にこちらを敵として認識したということだろう。

それでいい。オレを狙え。

オレを狙えば狙うほど、こいつがに手を出す確率は低くなる。

オレが狙うのはだ。

なら、多狙いが外れたとしてもに當たる可能は高くなるからな。

そして、オレは右手で制している巖竜巻トルネードを牙獣に向けて放った。

牙獣が大きく橫に跳んでそれを回避しようとするが、無駄だ。

巖竜巻トルネードの元・・は、オレの手に繋がっている。

つまりこの魔は弾丸のように直線上を進むだけの単純なものではなく、オレの意のままにかすことが可能な、いわば追尾ミサイルのようなもの。

それが牙獣をターゲットとしてロックオンしている。

すると、どうなるか。

結果など分かりきっていた。

「グォォォオオオオオオオオオ！！」

突然軌道が捻じ曲がった巖竜巻トルネードが、牙獣に炸裂する。

再び竜巻に呑まれた牙獣がんだ。

だがそれは敵を威嚇するものなどではなく、悲痛な斷末魔のび聲だ。

巖竜巻トルネードは牙獣のの辺りのをぐちゃぐちゃに抉りながら貫通し、牙獣のを上下に分斷したところでその役目を終えた。

大量のと共に、牙獣の上半がオレたちの足元に落ちてくる。

不快な音を立てて地面に叩きつけられる死。

死んでも臭いのは変わらなかった。

そういえば、この世界に來てから初めて生きを殺したな。

さしたる慨はない。

それどころか、どこか懐かしいような、不思議な覚すらあった。

「ラルくん、大丈夫！？」

「うおっ！？」

その覚に違和を覚えていると、突然、後ろからキアラに思いきり抱きしめられた。

薄いに顔をまれながら、オレはキアラを引き剝が――そうと思ったが、やめた。

「キアラ、オレは大丈夫だから」

「ほんと？　どこも怪我してない？」

「してないよ。っていうか、キアラも見てただろ？」

「そうなんだけど……」

理由があるにせよ、キアラに心配をかけたのは事実なのだ。

ここは甘んじて抱きしめられておくことにしよう。

それよりも、気になることがある。

「おい、大丈夫か？」

「……」

の子は完全に放心狀態で、虛空を見つめていた。

その髪と顔には、のりがべったりと張り付いている。

まあ、気持ちはわかる。

あんなものを見せられて、トラウマにならないわけがない。

しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。

なのでとりあえず、水と火の無詠唱魔でお湯を作り、それをの頭の上から振りかけてやった。

「ひゃあっ！？」

可らしい聲を上げて驚くを無視して、彼の髪と顔に付著しているを洗い流す。

そういえば、久しぶりに他人の髪を洗った気がする。

は初めは震えていたが、特に抵抗することなくオレに洗われている。

やがて赤黒いものがすべて洗い落とされ、の綺麗な金の髪がその姿を取り戻した。

今度は火と風の混合魔で溫風を作り出し、ドライヤーの要領での髪と服を乾かしていく。

「はい、終わったよ」

すべての工程が終わり、は綺麗な姿に戻った。

殘念ながら、服だけはがべっとりとこびりついていたためどうにもならなかったが、まあ仕方ない。

「あ、ありがとう……」

「怪我はない？」

「う、うん……だいじょうぶ」

そう答えたものの、の顔は悪かった。

明らかに大丈夫ではない。

改めてを見る。

歳は五歳か六歳ぐらいだろう。

金髪碧眼で、背丈はオレとほとんど変わらない。

のほうが若干小さい程度だ。

とりあえず、このを保護者のところまで送り屆けることにした。

多分、今日のパーティーに出席しているどこかの貴族の娘だろう。

「キミの名前は？」

「く、クレア」

「クレアか。いい名前だな」

家名がわかったほうが探しやすいので、できればそっちのほうを聞きたいのだが、はなぜか顔を赤くして俯いてしまった。

どうしたのだろうか。

「はぁ……ラルくんって罪な男だよねー」

「どうした急に」

「いえ、なんでもないですよー」

キアラが後ろで何か言っているが、あまり気にしなくていいか。

こいつが意味不明なことを言い出すのは、今に始まったことではないし。

とにかく、このの保護者を見つけるためにも、フレイズやヘレナのいるところへ戻るか。

オレの中で今後の行の方針を決めた、次の瞬間だった。

「――！　危ないッ！！」

「きゃっ！？」

咄嗟の判斷で、クレアを突き飛ばした。

視界いっぱいに、大口を開けた牙獣の顔が広がる。

そして、オレの視界が完全に消えた。

今のは、牙獣？　あんなことになってもなお生きていたのか？

そんなはずはないと思うのだが……。

何にせよ、オレのやることは変わらない。

敵によって自分のが拘束されているときの対処法は、いくつか用意してある。

この場合は、そこまで強力な能力を使う必要もない。

「――『電撃ボルト』」

そう短く唱えると、オレの周りにの球のようなものが浮かび上がった。

よく見ると、その表面が帯電しているのがわかるだろう。

もちろん、目の前にいる牙獣には、これが何なのか理解することはできないだろうが。

『電撃ボルト』。

水屬の下級魔のひとつだ。

文字通り電撃の魔で、雷に弱い相手にはかなり有効である。

ただし、オレが今回これを使用するのは、そういった目的のためではない。

別に『電撃ボルト』でもこいつを殺すことぐらい容易だが、他に試したいことがあった。

だいぶ威力を抑えた『電撃ボルト』を、牙獣めがけて放つ。

「グォォォオッ！？」

予想通り、牙獣のが麻痺した。

その隙をついて、オレは牙獣の口の中から・・・・・頭を引っ張り出した。

頭に付著している牙獣の唾が非常に臭い。

応急処置として無詠唱の水屬魔を使って頭を洗い流しているが、服のほうは後でしっかりと洗濯しなければならないだろう。

先ほど牙獣が倒れていた場所を見ると、そこには上下に分かたれた牙獣の死が転がっている。

やはり新手か。

クレアの姿はない。

と思ったら、円柱の影にこっそり隠れているのが目にった。

別にそのまま逃げてくれてもよかった、というか逃げてくれたほうが危険はなかったのだが、まあいい。

「クレアはそこで待っててくれ。あいつはオレがなんとかする」

「で、でも……」

「心配すんな。オレが絶対守ってやるから」

「――っ！　う、うん！！」

クレアの元気のいい返事が、オレの耳に屆いた。

よし。これで彼のほうは大丈夫だろう。

そんなことをしている間に、牙獣の痺れも収まったようだ。

だがその表には、どこか困のようなが浮かんでいるようにも見える。

「悪いな。オレのタフネスは、お前に齧かじられたぐらいじゃビクともしないらしい」

鋭い牙に曬されていたにもかかわらず、牙獣の牙はオレの首を噛み千切ることができなかった。

どれだけ高いんだ、オレの防力は。

痛みはまったくなく、ざらざらの歯と舌が延々とオレの頭にれ続けていた。

要するに、のもよだつようなだったということだ。

「さて」

オレは初級の無屬魔を使い、亜空間から一本の剣を取り出した。

先ほど、牙獣に殺された男が持っていたものを拾っておいたものだ。

それをミーシャとの訓練のときと同じように構える。

そして、

「……こちらに気を取られすぎじゃないのか？」

「グォォッ！？」

オレの嘲るような言葉をけて、牙獣が異常に気付いたようだが、もう遅い。

大地が割れる轟音と共に、牙獣の背後の地面から何本もの手が生え出た。

赤紫の手たちは、ただ牙獣を拘束するためだけにく。

ものの數秒もしないうちに、牙獣のは何本もの手によって縛られていた。

闇屬の初級魔の一つ、『手』だ。

文字通り、地面などから手を生やすことができる。

今回はこれを、牙獣の背後から生やすことによって捕獲用に使わせてもらった。

通常の狀態の牙獣なら、背後から忍び寄る手にも対応できたことだろう。

だが、牙獣は先ほどけた『電撃ボルト』によって、きに彩を欠いていた。

せめて、苦しまないように殺してやろう。

「……悪く思うなよ。お前がオレたちを先に襲ったんだからな」

剣を構える。

何の変哲もなかったはずのその剣の周りを、今は虹のが包み込んでいた。

『屬攻撃付與』の効果が、しっかりと現れている証拠だ。

オレの場合はすべての屬の攻撃を付與することができるため、さながら虹のような合いのになっている。

見ているだけなら綺麗だが、これの威力は馬鹿にできない。

ゆっくりと牙獣に近づいていく。

拘束されたままの牙獣が何かをぶが、オレの知ったことではない。

こいつは既に、まな板の上の魚だ。

牙獣の首に剣を振り下ろした。

バターを切ったような手ごたえの無さ。

それと同時に、恐怖に歪んだ表を浮かべた牙獣の首が足元に転がってきた。

「……ふぅ」

終わった。

牙獣のを拘束していた手がゆっくりと霧散していく。

その首の斷面からは尋常ではない量のが吹き出し、辺りにの海が広がっていく。

そんな凄慘な景を目の前にしても、オレの心は疲労でいっぱいだった。

「頭を齧られたときはさすがにしひやっとしたけど、キアラの言った通り、オレはホントに丈夫なんだな……」

今回の件で、嫌と言うほどそれを実した。

あれに齧られて平気な顔をしていられるのは、世界広しと言えどもそう多くはあるまい。

「……あれ、キアラ？」

キアラの姿がない。

活時間の限界が來てしまったのだろうか。

こういうときに限っていないのはどうかと思うのだが、いない奴に愚癡を言っても仕方がない。

あ、そうだ。

クレアを、保護者のところまで連れていかないと。

「ね、ねえ！」

「ん？」

考え事をしていたせいで、目の前にクレアがいることに気付かなかった。

クレアはし恥ずかしそうな表を見せながらも、意を決した様子で口を開く。

「名前、教えて？」

ああ。そういえば言ってなかったな。

「ラルフだ。みんなからはラルって呼ばれてる」

「ラル……ラル、ね。わかった」

一部フルネームで呼ぶメイドもいるが、あれは分の違いによるものだろう。

クレアはオレと同じ貴族だろうし、そこまで畏まる必要もないと判斷した。

「ね、ねえ」

「ん？」

「ラルのこと、もっと教えてほしい」

「もちろん。いいよ」

オレは快く了承した。

それから、オレはクレアに々なことを話した。

ガベルブック家の長男であること。

魔や剣の特訓をしていること。

好きなもの、好きなことなど……。

特に魔の話になると、クレアは目を輝かせた。

「魔って、すごいんだね！」

「オレの母様が三歳の頃から教えてくれてるんだよ。おかげで、かなり魔も使えるようになったんだけど」

本當はキアラによるものが大きいのだが、キアラのことは言わない約束なので話さなかった。

そんな他のない話をしていると、

「――ラル！　こんなところにいたのか！」

聞き覚えのある聲が聞こえ、複數人の人間の足音が近づいてきた。

フレイズだ。

その傍には、見たことがない人も數人いる。おそらくフレイズの部下の人たちだろう。

あ、やばい。

トイレに立ったと言っていたのを忘れていた。

「それにクレア様も。まさかこんな滅多に人の寄り付かない王城の片隅におられるとは思ってもみませんでした……」

なるほど。

ここは人通りがないのか。

道理であんな馬鹿騒ぎをしても誰も來ないわけだ。

しかし、フレイズがクレアのことを様付けで呼んでいるということは、クレアはよっぽど位の高い貴族の娘なのだろうか。

「……ん？　この臭いは……」

訝しげな表をしたフレイズが、中庭のほうを見る。

その顔が、みるみる驚きのに染まっていった。

同じように中庭を見た部下らしき人たちも、同じような表をしている。

「……！　こ、これはいったい」

何のことだろうと、フレイズ達の視線の先を確認した。

「あ」

二匹の牙獣の死が、無殘な姿で橫たわっている。

そういえば片づけるの忘れてた。

「ラル。あれはどういうことだ」

「えーっと。クレアがあの牙獣に殺されかかっていたので、僕が倒しました」

オレがそう言うと、その場が靜寂に包まれた。

「…………ラルが、倒した？　あの牙獣を？」

「はい。僕が倒しました」

フレイズからの問いに、正直に答える。

こういうときは、噓をついてはいけないのだ。

フレイズの表は優れない。

彼は數回口をかし、言葉を飲み込むような作を繰り返すと、

「……ラル。私と一緒に來なさい」

重苦しい口調で、オレにそう命じたのだった。